第21話 新勇者の動向
脂の抜けきっていない羊皮紙は、指先にまとわりつくような不快な湿り気を含んでいた。
ヴェルドラゴン城の執務室、かすかに揺れる燭台の炎が、斑な紙面に落とされた黒いインクを赤黒く染めている。
ところどころ、乾ききる前に指で擦ったような黒い尾が引いているのは、境界の町『ゼロ』の雑踏で、潜入員が息を殺して書き殴った証拠だった。
「……我が主。人間界に放った耳目が、新勇者の最初の足跡を拾い上げました」
影の中から染み出すように、ガルドスがその漆黒の甲冑を軋ませて進み出る。
彼の低い声は、石造りの壁に吸い込まれて響かない。
「読ませろ」
差し出された報告書を掴む。
親指の腹に、安価なインクのざらざらとした炭素粒子が引っかかった。
そこには『アレス・ブライト』という名が、不揃いな太さの文字で刻まれている。
インクの溜まり具合からして、羽ペンの先を何度も紙に押し付け、躊躇いながら書いたことが窺えた。
「召喚からわずか一週間。公式の記録によれば、彼のレベルはすでに十五に達しているとのことです」
「十五……」
喉の奥が乾いた音を立てる。
かつて自分が勇者として召喚された時、最初のゴブリンを屠り、身体にレベル上昇の脈動を感じるまでに丸一ヶ月を要した。
それを、たったの七日で。
「勇者にのみ許された『成長補正』の恩恵です。肉体の限界を強制的に引き上げ、経験を力へと書き換える神の呪縛……いや、祝福」
ガルドスの言う『補正』という言葉が、紙の上で冷たく浮き上がって見える。
だが、俺の目はその数値の横に細かく書き添えられた、潜入員の「余白の報告」に釘付けになっていた。
『――新勇者の宿舎裏のゴミ捨て場より、大量の血と浸出液の染みた包帯を回収。聖剣の握り手との激しい摩擦により、掌の皮膚が剥離し、修修復魔法による急激な再生が追いついていない模様』
皮膚が破れ、肉が裂ける。
それを魔法で無理やり塞ぎ、また剣を振る。
レベル十五という数字は、その異常な新陳代謝の果てに積まれた肉の塔だ。
アレスという少年が、自らの骨が軋む音を聞きながら、王宮の地下練兵場で剣を握り続けている光景が、湿った紙の匂いと共に立ち上ってくる。
「……聖女セラフィナは」
かすれた声が出た。
胸の奥、心臓が一度だけ不自然に大きく脈打つ。
胃の底からせり上がってくる酸っぱい冷たさを、奥歯を強く噛み締めて押し戻した。
「彼女は常に、新勇者の三歩後ろに従っています。神殿の聖水を用い、彼の掌の傷を毎夜、癒やしているとのことです」
「……そうか」
奥歯の噛み合わせが、みしりと軋んだ。
彼女の白い指先が、治りかけの生肉に触れ、神聖魔力を流し込む。かつて俺の背中の傷をなぞった、あの温度のない冷たい光。
アレスはその光を、救いだと信じているのだろうか。
アレス・ブライト。
報告書によれば、彼はどこにでもある地方都市の、ただの農家の次男坊だったという。
「……性格は?」
「極めて純朴、と耳目は伝えています。魔物はすべて絶対悪であり、自らは人間を守るために命を捧げるべきだと、周囲の騎士たちに語っているそうです」
「絵に描いたような模範生だな」
「ええ。しかし、その純粋さゆえでしょうか。王宮から配属された守護騎士たちとの間に、奇妙な『溝』が生じているようです」
「溝?」
「騎士たちは勇者を『神の兵器』として見ていますが、少年は彼らを『共に戦う仲間』だと思おうとしている。その温度差が、日々の視線の交錯を冷たいものにしていると」
皮肉な笑いが、俺の唇の端から零れそうになり、消えた。
誰もアレス自身を見ていない。
彼らはアレスの肩に乗った『聖剣』の価値と、彼がもたらすであろう勝利の果実だけを見つめている。
かつて俺が、あの五百キロの剣の重さに耐えかねて泥の中に膝をついた時、セラフィナも、王も、同じように冷たい目で俺の『機能』を測っていた。
「……俺と、同じだ」
呟きは、自分の耳にすら届かないほど小さかった。
机の上に、人間界と魔界を隔てる峻険な山脈が描かれた戦略地図を広げる。
乾燥した羊皮紙の端が丸まろうとするのを、鉄製の文鎮で強く押さえつけた。
ゴツンと重い音が、静まり返った室内に響く。
「人間界のさらに深い部分……王宮の思惑を探る必要がある。ガルドス、境界の町『ゼロ』の情報屋はどうなっている?」
「酒場の主人、ジャックですね。彼はすでに人間側の徴税官や騎士の崩れと太いパイプを持っています。金さえ積めば、王都の物価の変動から貴族の夜会での噂話まで、何でも吐き出します」
「……よし。ゼロにゴブリンの俊足種を複数忍ばせろ。ジャックからの情報を日を置かずに魔王城へ運ばせる」
「御意」
さらに、メイヴィスが背後の闇から音もなく現れた。
彼女が歩くたび、かすかに甘く、同時に腐葉土のような湿った匂いが漂う。
「レイン。人間界の貴族の相関図なら、私の古いお友達に聞くといいわ」
「お前の友達?」
「ええ、精霊の森の奥深くに根を張る、古木の精霊。人間の王朝が三度変わるのを見届けてきた偏屈者よ。王宮の派閥の根っこが、どの貴族のどの血脈に繋がっているか、彼らの脳髄よりも詳しく知っているわ」
「……その精霊との接触手段は?」
「私が夢を通じて語りかけるだけ。だから、私にたっぷり魔力を分けてちょうだいね?」
メイヴィスが濡れた瞳でこちらを見上げる。
彼女の長い指先が、俺の肩をかすめるように滑り、そこだけ皮膚がかすかに冷え切った。
情報網の構築は、水面下で着実にその網の目を広げていった。
ゼロの町には変装したゴブリンたちが潜み、人間界の主要都市の市場には、魔力を隠蔽した下級魔族が商人として入り込んだ。
ガルドスが地図の上に、いくつかの小さな黒い石を置いていく。
「ゼロ、王都、主要都市三箇所。これで人間側の物流と兵員の移動は、大まかな熱量として把握できます」
「だが、これではまだ『外側』をなぞっているに過ぎない」
俺は立ち上がり、窓の外を見据えた。
赤い月光が、魔王城の険しい尖塔を照らしている。
この世界の空気は重く、冷たく、常に皮膚を押し返してくる。だが、人間界の空気はもっと薄く、甘く、人を弛緩させる。
「新勇者アレスの身辺。彼が何を考え、何に怯えているのか……その内面を知らなければ、聖剣の軛から彼を剥ぎ取ることはできない」
「……では、どうされるのですか?」
ガルドスの問いに、俺は拳を握りしめた。
「俺自身が、人間界に入る」
「危険すぎます!」
ガルドスの一歩が床を揺らし、鉄の鎧が激しく擦れ合った。
彼の眼窩の青い火に、明確な動揺が走っている。
「魔王の魔力波形は、人間界の境界結界に触れただけで警報を鳴らす。王都の魔力感知宝珠が黙っているはずがありません」
「だから、変装する」
俺は、部屋の隅で静かに控えていたティアラに視線を向けた。ティアラはビクリと肩を揺らし、細い指先を胸元で弄んだ。
「ティアラ。お前の雷魔法……神経を微細な電気で刺激し、知覚を狂わせる幻覚の技を使えるか」
「は、はい……! レイン様のためなら……。私の雷で、レイン様の外見の光の屈折を歪め、魔力の放出波形を一般の人間のそれに偽装することができます。ですが……」
「ですが?」
「その間、レイン様の神経には、常にピリピリとした微小な電流が流れ続けることになります。針で突かれるような痛みが、皮膚の裏側で絶え間なく続くことに……」
「構わない。その程度の抵抗、どうということはない」
ティアラは青い瞳を潤ませながら、深く頭を下げた。
その日の夜、リリィが運んできたのは、大皿に盛られた泥臭い根菜と塩漬け肉の煮込みだった。
湯気と共に、獣脂の焦げた匂いが食堂に広がる。
「魔王様、情報網の開通、おめでとうございます! リリィ、今日はお肉をたくさん煮込みました!」
尻尾を激しく左右に振りながら、彼女は俺の前に皿を置く。
煮込みは飾り気もなく、塩辛い。
だが、それを口に運ぶと、熱い汁が喉を通り、胃の腑にじわりとした重みを与えた。
テーブルを囲む四天王たち。
ガルドスは沈黙したまま肉を引き裂き、メイヴィスは果実酒のグラスを弄び、ティアラは俺の顔色を窺いながらスープを少しずつ口に運んでいる。
かつて勇者だった頃、俺は一人で、冷え切った保存食の干し肉をかじっていた。
誰と話すこともなく、明日の戦いのことだけを考えて。
今の俺の周りには、醜くも生々しい魔物たちがいる。
彼らの呼吸の音、噛み砕く音、衣服の擦れる音が、この重苦しい広間に確かな実在感を与えていた。
「……出る。食器を片付けておけ」
俺は立ち上がり、皿を返した。
リリィの振っていた尻尾がピタリと止まり、耳が後ろに寝る。
「アレス・ブライト」
その名前を口の中で転がした。
俺は自分の右手を見た。
かつて聖剣を握っていた指先が、わずかに震えている。
怒りか、恐怖か、あるいは――憐憫か。
ティアラの指先から、かすかに青白い火花が散った。
そのパチパチという小さな音が、これからの旅路に待ち受ける神経の痛みを予感させていた。




