第20話 宴会の夜
ヴェルドラゴン魔王軍の結成を祝う祝宴は、魔界の重い夜の底で、深夜まで続いた。
リリィが竈の火を絶やさずに作り続けた、香ばしいシチューの湯気と青い塩むすびの匂いが、大広間の冷えた石造りの空間を温かく満たしていく。
広間ではグロッグに率いられたゴブリンたちが不格好に槍を掲げてステップを踏み、オークたちは大斧を床に置いて、豪快に互いの背中を叩き合って哄笑していた。
彼らの足音が床を踏みしめるたび、城壁の結晶装甲がかすかに共鳴し、熱を吸い上げるように鈍く光っていた。
「……レイン。今日は、魔界の風さえも少しばかり温かく感じられるな」
ティアラが俺の左隣で、果実酒の満ちた木杯を揺らしながら言った。
角の青い火花はすっかり鳴りを潜め、その金色の瞳には穏やかな熱が宿っている。
「ああ。かつて静寂と氷のようだったこの城壁が、これほど騒がしい振動を返してくるとはな」
「ふふ。数千年の孤独の後に、こんな騒がしいスープの温もりを知ることになるとはね」
メイヴィスが長い銀髪を指先に絡め、紫の瞳を細めて魔物たちの踊りを見つめていた。
「我が主。彼らのこの乱雑な笑顔こそが、我々の兵站が機能している何よりの証拠でございます」
ガルドスが、木杯を胸当てに軽く当てながら、擦れる低い白骨の声で言った。
そこへ、グロッグ率いるゴブリンたちが、恭しくも巨大な黒曜石の大皿を掲げて近づいてきた。
「魔王様! 我らの集落が魔王軍結成の祝いに捧げる、魔界の珍味『大粘液獣の核』でございます! これを召し上がり、魔王様の不滅の胃袋をお満たしください!」
大皿の真ん中で、プルプルと鈍い緑色に揺れる、バレーボールほどの大きさの半透明の塊。
それを見た瞬間、レインの全身の毛穴が逆立ち、呼吸が肺の奥で凍りついた。
(──べち。
べち。
ひんやりとした粘着質な膜が、皮膚に吸い付く。
窒息するような冷たさと、酸の刺激──)
あの泥濘の洞窟で、五百キログラムの聖剣に押し潰されながら、スライムに頬を撫でられて窒息死したときの、生々しい「死の触感」が脳髄を直接突き刺す。
胃の奥が激しく縮み、脂汗が額を伝う。
右手の指先が硬直して動かない。
目の前がぐらりと揺れ、ゴブリンたちの歓声が、まるで水没した耳の奥で響くように遠ざかっていく。
「主様……?」
ティアラがレインの異変に気づき、眉をひそめる。
レインは奥歯が砕けるほど噛み締め、魔王としての威厳を保つために右手を無理やり動かした。
(逃げるな。
俺は魔王だ。
レベル1のスライムに殺された、あの無力な勇者じゃない)
彼は右手を伸ばし、その冷たく、粘着質で、酸的刺激を放つスライムの核を、素手で鷲掴みにした。
手のひらに吸い付く冷徹な不快感に、全身の筋肉が拒絶の悲鳴を上げ、喉の奥から酸っぱい液体がせり上がる。
それでも彼は手を離さず、指を食い込ませた。
「──《ドミネイト》」
魔力の糸がスライムの核を貫き、一瞬にしてその存在を魔力へと還元して霧散させた。
レインの右手には、緑色の冷たい液体の残渣だけが残り、床にポタポタと滴り落ちる。
ゴブリンたちは魔王の圧倒的な処理に「おお……!
」と歓声を上げ、再び踊り狂い始めた。
「……レイン、手が、凍えるほど冷たいぞ」
ティアラが心配そうに彼の右手を覗き込む。
レインは、震える右手をそっと手袋の中に隠した。
「……何でもない。ただの、魔力の馴染みだ」
だが、手袋の布地越しに、スライムの粘着質な冷たさと窒息の恐怖が、いつまでも皮膚の奥に張り付いて消えなかった。
宴の途中、ボルグが静かに立ち上がり、巨躯を揺らしながら大広間の外へと出て行った。
俺は食べかけの塩むすびを一つ手に取り、その後を追った。
城の外、冷たい火山灰の風が吹き抜ける見晴らしの良い石段の端に、ボルグは腰を下ろしていた。
五メートルの影が、人間界の境界線を示すはるか遠くの白い大結界の残光を見つめている。
「ボルグ。おにぎりが足りなかったか」
俺は彼の傍らに立ち、手に持っていた塩むすびを差し出した。
ボルグは驚いたように丸い瞳を震わせ、その丸太のような指先で、おにぎりを潰さないよう極限まで優しく受け取った。
彼の分厚い指先が、かすかな湯気を含んだおにぎりを挟み込む瞬間、その巨掌が驚くほど慎重に震えていた。
「いいえ、魔王様。リリィさんのおにぎりは、お腹いっぱい頂きました。ただ……あちらに見える光を見つめていると、かつて私が守り、そして追放されたあの城門を思い出すのです」
「未練があるのか」
「恨みはありません。……ただ、あの日、泣きながら私に最後のおにぎりをくれた人間の若い兵士たちが、今もあの窮屈な役割の中で息を潜めているのかと思うと、胸の岩肌が少しだけ痛むのです」
ボルグは大きな口を開け、おにぎりをゆっくりと時間をかけて咀嚼した。
「だからこそ、魔王様。私はこの城を、私たちの新しい『家族』を決して裏切らせません。誰の役割の命令でもなく、私のこの意志で、お前たちの盾となり続けます」
俺はボルグの隣の、冷え切った石段に腰を下ろした。
「ああ。お前が盾となるなら、俺はその盾の背後を決して脅かさせない。アレスが、あるいは世界の理がお前の大切なものを踏みにじりに来るなら、その前に俺がその手をドミネイトしてやる」
ボルグは大きく頷き、その巨体から溢れ出るような静かな信頼の重力で、俺を包み込んだ。
ボルグと共に大広間へ戻ると、四天王とリリィが木杯を掲げて俺たちを待っていた。
「主よ。お戻りになりましたか」
「レイン、遅いぞ。私たちはもう、次の杯を待ちきれない!」
「ふふ、王の帰還ね。さあ、物語の続きを始めましょう」
俺は自らの木杯を高く掲げ、一同の杯と静かに打ち合わせた。
カチンと、乾いた木と石の音が響き渡る。
左手の古い傷が、火の熱と酒のせいか、ほのかに疼いた。ゴブリンリーダーの牙が刻んだ痕は、もう塞がっている。
それでも、城の暖かさの中でこそ、あの冷たい泥の記憶が鮮明に蘇る。
「ヴェルドラゴン魔王軍に――与えられた運命を書き換える、俺たちの生に」
「「「乾杯!!」」」
百を超える魔物たちの咆哮が城全体を揺らし、生体結晶の壁が彼らの熱気と共鳴して温かく脈打った。
かつて泥の中で死にかけた元勇者の胸の奥には、二度と消えない家族の火が、確かに灯り続けていた。
この温かな喧騒の余韻が冷めれば、再び人間界の動向を探るための「ゼロ」への道程が始まる。
その冷徹な情報戦を前に、俺はもう一度、仲間たちの笑顔に向けて静かに木杯を傾けた。




