第19話 魔王軍結成
四天王会議から一週間、ヴェルドラゴン城は単なる石造りの廃墟から、一個の巨大な「生体組織」へと劇的に変化していた。
グロッグの甲高い号令に合わせ、広場ではゴブリンたちが不揃いながらも湿った泥を踏みしめて一糸乱れぬ槍衾を作り、外壁の影ではオークたちが肉厚の身体を揺らしながら周囲を油断なく見張る。
彼らの足音が地表を叩くたび、かすかな振動が城の基部へ伝わっていく。
城壁の黒石は、彼らの活動が放出する魔力と生活の熱を吸い込み、城門の隙間に新たな結晶質の装甲を盛り上げていた。
城全体が、確かに呼吸を始めていた。
「我が主。本日の兵舎・兵站の再配置、滞りなく完了いたしました。……軍としての最低限の骨格が、今、ここに確立されました」
ガルドスが執務室の窓際で、訓練場を見下ろしながら静かに告げた。
俺は窓の外を流れる紫の雲を睨みつけ、胸を突く冷たい決意を言葉に乗せた。
「……儀式の準備をしろ。今日、この軍勢に正式な名を与える」
結成式は、大広間の剥き出しの黒石壁の前にて執り行われた。
正面の壁面には、メイヴィスが幻夢の魔力で織り上げた、竜の雷光、無音のページ、そして大盾を背負う魔王の翼を象った紋章が、仄かに青白く発光している。
広場に整列した百を超える魔物の兵卒たち。
彼らはかつて、魔界の冷酷な掟に従って互いを喰らい合い、あるいは人間界の討伐隊に「経験値の記号」として一方的に駆逐されるだけの存在だった。
だが今、彼らの黄色い瞳は、ただ一人の魔王の姿を射抜いていた。
彼らの発する熱量が空気の層を歪め、俺の皮膚に湿った圧力となって届く。
俺は紋章の前に立ち、彼らの呼吸の熱がこちらを押し返す「熱気」を受け止めた。
「俺は、女神の桁一つのミスでスライムに処理され、勇者としての生を奪われた。お前たちもまた、勇者を際立たせるための『悪の記号』として、ただ消費されるだけの運命を与えられていた」
俺の声は、《号令》の波動となって彼らの鼓膜を、そして魂の奥底を直接震わせた。
「だが、俺たちはその与えられた結末を拒絶する。勇者でも、魔王でも、ただの誰かの人形ではない。己の意志で選び、己の命の責任を引き受ける者として、この魔界に立つ。――今日をもって、我らを『ヴェルドラゴン魔王軍』と定義する」
広場を満たす沈黙は、かつての絶望の静寂ではなく、個々の意志が地脈に根を下ろそうとする、重い緊迫感に満ちていた。
カツン、とガルドスが最初に漆黒の膝を床に叩きつけた。
「与えられた書目を破り捨て、主の綴る新たな道の刃となりましょう」
ティアラが青い雷を纏った拳を地面に突き立て、岩盤に焦げた音を響かせた。
「レインの隣で戦うことを、この私の誇りとして、竜の雷を捧げる!」
メイヴィスが銀髪の隙間から紫の瞳を悪戯っぽく、だが深く伏せた。
「予定調和の結末を拒む、その歪な道の編者として、私も連ねて」
ボルグが「ズゥン」と地鳴りを立てて、俺たち全員を包み込む影を作った。
「魔王レインの城を、おにぎりの畑を、私のこの壁が永久に防ぎましょう」
四天王の宣誓が重なるのと同期するように、整列したゴブリンたちが槍の柄を一斉に石畳に叩きつけた。
ドン、ドンという無数の打撃音が、城壁の結晶を共鳴させる。
オークたちが胸の筋肉を膨らませて地響きのような咆哮を上げ、上空では四頭のワイバーンが乱気流を両翼で捉えて輪を描いて旋回していた。
「……配れ、リリィ。彼らの空腹を満たし、この泥の誓約を血肉に溶かせ」
「はい! 特製の大盛り塩むすび、全員分ありますよぉ!」
リリィが巨大な木籠を抱え、耳と尻尾を元気に揺らしながら兵たちの間を走り回り始めた。
ボルグがその大きな手を差し出し、リリィから受け取ったおにぎりを一口で胃の腑に流し込み、幸せそうに頬の岩肌を緩ませていた。
その隣で、若いゴブリンが受け取ったおにぎりを半分だけ齧り、残りを腰袋にしまおうとしていた。
グロッグが眉を吊り上げる。
「おい、式の最中に隠すな。腹が減ってるなら食え」
ゴブリンは槍を抱えたまま肩を縮めた。
「違うっす。弟に持って帰るっす。訓練で倒れて、今日はここに来られなくて」
広場の熱が、ほんの少しだけ引いた。
軍勢という言葉の下には、名前のある腹と、帰りを待つ小さな寝床がある。
百を超える兵数ではなく、百を超える生活だ。
俺はリリィに視線を向けた。
リリィは一瞬だけ目を丸くし、それから大きく頷いて、木籠の底からもう一つおにぎりを取り出した。
「弟さんの分です。これは隠したんじゃなくて、正式な配給です」
若いゴブリンの黄色い目が潤んだ。
周囲から、小さな笑いと咳払いが広がる。
俺はその笑いが消える前に、声を上げた。
「聞け。今日から、ヴェルドラゴン魔王軍に『経験値の雑兵』はいない。食料は名簿で配る。負傷者は報告しろ。家族がいる者は名を書け。俺たちは軍になる。だが、誰かの名前を数字に潰す軍にはならない」
ガルドスが即座に骨の指で羊皮紙を取り出し、兵站名簿の余白に新たな項目を書き足した。
リリィの木籠から立つ湯気が、黒石の広場に柔らかく広がっていく。
結成式の夜、俺は一人、屋上の冷たい石の欄干に身を預け、はるか西の地平を睨んでいた。
大結界の残光が、紫の夜空の裾を白く汚している。
指先から欄干の冷気が皮膚の奥へと侵入し、俺の意識のピントを固定する。
「主よ。彼らの忠誠は、スロットの空きに関係なく、このヴェルドラゴン城の防壁を硬くしております」
ガルドスが、足音を殺して俺の隣に並び立った。
「ああ。奪った力ではない、託された重さが、これほど右腕を重くさせるとはな」
俺は己の右の掌を見つめた。
かつて聖剣を失ったあの虚無の軽さは、もうどこにもない。
あの瞬間、すべてを失って手元が軽くなったことに対する言いようのない恐怖。
だが今、ここにあるのは、百を超える命の温もりと、彼らを生かし続けるための重力だった。
「いつか、人間界のあの窮屈な運命の檻も、この力で叩き壊してやる」
「御意に、我が主。その運命の改竄、最期までお付き合いいたします」
冷たい火山灰の交じる風が俺の翼をはためかせたが、城の広場から漏れ聞こえるゴブリンたちの騒がしい哄笑と、煮込み料理の温かい湯気が、俺の背骨を確かに支え続けていた。
これからは一個の魔王ではなく、一つの軍勢としての進軍だ。
その言葉は勇ましい。
だが同時に、さきほど名簿へ書き足された家族欄の重さが、俺の足首を掴んでいる。
俺が次に動かす一隊には、必ず帰りを待つ誰かがいる。
まずは境界の町「ゼロ」へ潜入し、人間界の情報を手に入れる。
そして、アレスという名の新勇者の動向を探る。
その時が来れば、俺はこの軍勢を率いて、与えられた結末を根底からぶち壊す。




