第16話 鉄壁ボルグ
西の『境界の丘』は、魔界のねっとりとした黒い泥濘と、人間界の乾いた砂岩が不均等に入り混じり、冷たい強風が吹き抜ける不毛の境界地帯だった。
ちぎれた枯れ草が風に舞い、剥き出しの岩肌を「ヒョー、ヒョー」と寂しげに削る摩擦音だけが、絶えず鼓膜を打つ。
丘の頂、かつての落雷によって中央から縦に裂けた大木の傍らに、その「影」は座していた。
影は巨大だった。
地表に落ちるわずかな陽光を完全に遮り、丘の斜面の半分を黒く塗りつぶすその巨躯。
立ち上がれば五メートルは優に超えるであろう、削りたての岩石を積み上げたような重厚な肉体。
だが、その巨大な影に俺が一歩踏み込んだ瞬間、肌を刺すような敵意は感じられず、むしろ暴風を防ぐ防波堤の内側に入ったかのような、奇妙に穏やかな空気の「静まり」があった。
周囲の風圧がふっと消え、耳の奥の風鳴りが遠のく。
「……何用だ、魔王レイン」
地鳴りのような、だが角の取れた丸い低音が、地面の微細な振動となって俺の足裏に伝わってきた。
巨人の皮膚は灰色で、幾重もの深い亀裂が走る岩の鎧のようだった。
しかし、俺の意識が強く引き寄せられたのは、彼の「手」だった。
丸太のような指先。
その一本だけでも人間の胴体ほどの太さがある巨掌が、割れた枯れ木の根元にひっそりと生えた極小の苔の花を、そっと撫でていた。
その厚い爪先が触れる瞬間、巨人は呼吸を完全に止め、花びらを一枚も散らさないよう、極限まで指の筋肉を「柔らかく」制御している。
巨大な力が暴発しないよう、超低速で肉の繊維を操る彼の爪先の微細な震えが、内に眠る、硬質な外観とは対極にある繊細な優しさを雄弁に語っていた。
「お前の力が欲しい、ボルグ。我がヴェルドラゴン城の、不動の盾となれ」
ボルグの小さく丸い瞳が、ゆっくりと俺を捉えた。
「盾、か。……かつて人間たちが攻め込んできた時、私は盾となって彼らの前に立ちはだかった。だが……私の盾は破られ、背後にいた幼き者たちは、一人残らず塵と消えた。守れなかったのだ。私の手がもう少し大きければ、私の盾がもう少し頑強であれば……。守るために伸ばした私の手が、生き残った者たちには、略奪の爪に見えたらしい」
巨人の言葉には、恨みではなく、引きちぎられたような悔恨と、諦念という名の深い澱が沈んでいた。
「ならば、俺の城を守れ。俺たちの『家族』の傘となれ」
俺は一歩前へ踏み出し、彼の巨大な影の中に入った。
ボルグはゆっくりと身を起こす。
大地が「ゴゴゴ……」と悲鳴を上げ、彼の背中から剥がれ落ちた岩の破片が乾いた音を立てて地面を叩いた。
「私の防御を破ってみせよ。それが、お前という魔王を見極める唯一の手段だ」
ボルグが両腕を交差させ、胸の前に構える。
その瞬間、彼の全身の岩肌がさらに密集し、光を一切反射しない完全な「壁」へと変貌した。
俺は地を蹴った。
《疾風脚》――ふくらはぎのバネが爆発的な推進力を生み、視界が極限まで加速する。
「《火球術》――《風刃》!」
風の螺旋を纏った火球が、ボルグの巨大な胸壁へと激突する。
轟音。
炎が激しく渦巻き、熱風が周囲の枯れ草を一瞬で灰に変えた。
しかし、黒煙が晴れた後に現れたのは、煤一つついていない、無傷の岩の皮膚だった。
俺の目に、ボルグの魔力構成が映し出される。
《鉄壁の防御》《巨神の力》《城壁構築》《守護の意志》。
「《守護の意志》……」
俺の《ドミネイト》の触手が、彼の核へと伸びかける。
スロットは満杯だ。
だが、先ほど手に入れた《疾風脚》を捨てれば、この強大な防御力を我がものにできる。
しかし、俺の指先は、そこで動きを止めた。
このスキルを奪えば、彼の岩石の肉体は崩れ、苔の花を慈しむあの「柔らかい手」の制御も失われるだろう。
それは、彼の魂そのものを破壊し、ただの石塊に変えることと同義だ。
「……いや、奪わん」
ボルグは腕を解き、不思議そうに俺を見下ろした。
「なぜ奪わない。お前の魔力は、私の力を引き剥がそうとしていたはずだ」
「お前ほどの盾を、単なるスキルの抜け殻にしてなるものか。……だが、俺の元に来い、ボルグ」
俺は両脚に力を込め、奪ったばかりの《疾風脚》を最大出力で駆動させた。
爆風と共にボルグの目前へと肉薄し、右拳に《火球術》の炎と魔力を凝縮させる。
「守るために伸ばした手だと? だったら、俺がその手の居場所を作ってやる!」
俺の拳が、ボルグの胸壁へと直撃した。
強烈な衝撃波が周囲の空気と大木を震わせ、ボルグの硬固な岩の鎧に、みしりと亀裂が入る。巨人の巨躯が数メートル後退し、地面の泥濘を深く抉った。
「ぐ、おおおお……っ!」
ボルグは驚愕に目を見開いた。
彼はじっと胸の亀裂を見つめ、それから俺の拳を見つめた。
「お前たちの『守るための力』を、怪物だの略奪者だのと誰が蔑もうと、俺がその力を肯定してやる。俺の城で、お前たちの盾の価値を証明しろ。ボルグ、俺の傘に入れ!」
ボルグは長い沈黙の後、深く息を吐き出した。
その巨躯から敵意の魔力が抜け、彼を取り巻いていた岩石の壁が元の静かな皮膚へと戻っていく。
やがて、彼は巨大な掌をゆっくりと開き、俺の前に差し出した。
「お前の城を、守ろう。……魔王レイン」
巨人の影が、俺の身体を包み込んだ。
四天王が、揃った。
ガルドスの剣、ティアラの雷、メイヴィスの幻夢、そしてボルグの盾。
ヴェルドラゴン城に、家族と呼べる刃が集まった。
だが、それは始まりに過ぎない。
城を整え、軍を動かし、人間界の目を開く。
「帰るぞ、ボルグ。お前の座は、城の最も脆く、最も重要な場所だ」
西の風が、再び強く吹き始めた。
その風の向こうで、境界の町へ向かう道が、白い傷跡のように伸びていた。




