第15話 幻夢メイヴィス
朝の食堂を満たしていたのは、パチパチと微細に弾ける雷電の余韻だった。
ティアラが持参した雷竜の卵――その青みがかった殻から滑り出た濃厚な黄身が、熱した黒鉄のプレートの上で激しい音を立てて爆ぜ、オゾン臭を孕んだ黄白色の煙を立ち上らせている。
「魔王レイン。雷竜の卵は滋養に富み、体内の魔力循環を劇的に促す。さあ、熱いうちに胃へ流し込め!」
ティアラが俺の左隣の席――昨日まで一脚の空白だった場所に腰を下ろし、鋭い角をパチパチと鳴らしながら皿を差し出す。
その所作には、自らの意志で選んだ主への、誇らしげな自負が滲んでいた。
俺は木製スプーンを動かし、卵の濃厚でねっとりとした熱量を舌の上で受け止める。
舌に絡みつくような重い油分と、特有のピリピリとした電気的な感覚が喉を通過していく。
胃の奥に染み渡るその熱が、次の目的地への道程を冷たく想起させた。
「……美味いな」
「当然だ、我らが竜の恵みだからな!」
ティアラの誇らしげな言葉に、右隣で黙々とスープを運ぶガルドスが、小さく目を細める。
城の朝食がかつてない熱量と音を帯びる中、俺の思考はすでに、東の果てに広がる無音の死界へと向いていた。
東の『忘却の砂海』。
そこは、歩を進めるたびに足元から「意味」が零れ落ちていくような、奇妙な認知的砂漠だった。
灰色の砂は極めて細かく、靴底が沈み込むたびに「サァ……サァ……」と不自然に長い摩擦の余音を残して崩れる。
風が吹いても砂煙は舞わず、まるで重力そのものがこの灰色の粒子を地表へ強く縛り付けているかのようだった。
一歩進むごとに、ふくらはぎの筋肉が砂に力を奪われ、鉛のように重くなっていく。
砂を踏みしめる乾いた音が、脳裏で過去の誰かの嘲笑や、俺を「勇者」の枠に縛り付けようとした神官たちの祈りの声に翻訳されかける。
「主よ。この砂海は、知覚の境界線を狂わせます。踏みしめる砂の音が、脳裏で過去の誰かの声に翻訳される。……お気をつけを」
ガルドスの低い忠告が、乾いた大気に吸い込まれてすぐに消える。
一歩。
砂を踏む。
耳の奥で、カサカサと乾いた紙をめくるような音が響いた。
視界の端、灰色の砂丘の頂に、一人の女の影が揺れる。
「レイン様……」
セラフィナ。
かつて俺の隣に立っていた聖女の姿。
しかし、その顔のパーツは不鮮明で、まるで水に濡れたインクのように滲んでいる。
彼女の口元が動いているが、そこから発せられるべき声の帯域だけが、周囲の無音に完全に遮断されていた。
声が聞こえない。
彼女がそこに「いない」という事実だけが、心臓を冷たい指でなぞるように、強烈な不在の引力となって俺の歩みを引き止めようとする。
「……幻夢か」
俺は目を逸らさず、ただその不完全な輪郭を睨みつけた。
見つめるうちに、彼女の影はパラパラと本のページが千切れて飛ぶように、灰色の砂粒へと還っていった。
不在を描くことで、逆説的に過去の未練がそこにあることを証明する砂。
俺は両足の筋肉に力を込め、砂の抵抗を撥ね退けて前へと進んだ。
砂海の最深部、風の通り道に、不釣り合いな石造りの書庫がそびえ立っていた。
入り口の古びた木扉は半開きになっており、隙間からかすかな紙の焦げるような匂いが漂い出ている。
「よくぞ、この物語の空白に辿り着いたね」
扉が完全に開かれ、そこから現れたのは、床に届くほどの銀髪を揺らす細身の女だった。
紫色の瞳は、世界の終わりを何度も見届けたような、乾いた冷淡な光を宿している。
「幻夢メイヴィス」
「そう、私の名前。……でも、この世界における私の『記述』は、とても薄いけれどね」
メイヴィスは悪戯っぽく微笑み、俺たちを書庫の中へと手招きした。
内部は、天井まで届く本棚で埋め尽くされている。
しかし、棚に並ぶ無数の書物を手に取ると、その奇妙さに指先が強張った。
本の背表紙にはタイトルがある。
だが、ページを開くと、そこには文字が一切存在しない。
ただ、中央部分が四角くくり抜かれていたり、数ページおきに紙自体が引きちぎられていたりする。
「ここは『書かれなかった歴史』の墓場だよ、魔王様」
メイヴィスが、くり抜かれた本のページに紫の視線を落とす。
「かつて、私も何者かの記憶にあった。でも、書き換えられた。余白に追いやられ、存在の輪郭を薄くされていった。今の私は、ほとんどが幻影。触れてもすり抜けるような、忘れ去られたもの」
彼女の指先が、本棚の背表紙を撫でる。
そこには、かすかに「メイヴィス」という文字があったが、すぐに消えていく。
「私の幻術は、かつて人間たちの国を幾度も救った。だが、奴らは言ったのだよ。──幻を操る者は、現実の忠義を欺く『裏切り者』だとな。そうして私は偽者として排除され、この余白の砂海へ追いやられた」
メイヴィスは自嘲するように笑ったが、その指先は本棚の木目をきつく撫で、わずかに爪痕を残していた。
「抜け出す方法はあるのか」
「あるとしたら、あなたの手でこの余白を埋めること。お前がその奪う手で、偽者とされた俺たちの場所を創り出してくれるなら、私の記述もまた、本物になるかもしれないね」
メイヴィスは俺の前に立ち、その白く冷たい手を差し伸べた。
彼女の指先は、まるで現実の肉体を持たないかのように、かすかに透けて見えた。
「――だけど、魔王様。私の力を借りる前に、一つだけ試させて」
次の瞬間、メイヴィスの姿が消えた。
視界の端で、銀髪の残像が三方向に同時に現れる。
背後から、かすかな風切り音。
「《皮膚硬化》――いや、ない」
咄嗟に右腕を上げ、腕を盾にする。
鋭い痛みが走り、白い袖が裂け、皮膚に細い傷が生まれた。
幻夢の刃。
実体のないはずの刃が、俺を信じた通りに傷つける。
「幻を信じた者が、現実として傷つく。面白いでしょう?」
メイヴィスの声が、左右の残像から同時に聞こえる。
「目は信用するな。皮膚の感覚を、空気の流れを、魔力の圧を頼れ」
俺は目を閉じた。
風の流れを読む。
《疾風脚》で研ぎ澄まされた脚の感覚が、微細な空気の乱れを捉える。
――左前方。
一歩、ずれている。
「《ドミネイト》」
右手を伸ばし、虚空を掴む。
指先に、冷たい首筋の感触が返ってきた。
「……見つけたな」
メイヴィスの姿が、一本の銀髪の線から実体へと戻る。
俺の指が、彼女の喉の前で止まっていた。
「四天王の第三席。我が魔王軍に、その知識と幻夢の力を貸せ」
俺がその手を取った瞬間、本のページが激しくめくれる音が書庫全体に響き渡り、灰色の砂風が足元を吹き抜けた。
手のひらに残ったのは、実体を持たないはずの幻夢の、しかし確かにそこに存在する氷のような冷たさだった。
四天王の第三の座が、埋まった。
あと一人。
西方の砦に、鉄壁と呼ばれる存在がいるはずだ。
「メイヴィス、帰るぞ。お前の本は、これから書き足していく」




