クイーン
誠二が泥の中に消えてから、数ヶ月が経った。
湾岸の風は少しずつ冷たさを増していたが、タワーマンションの最上階、50階のラウンジから見える景色は、相変わらず残酷なまでに輝いている。
「新しい管理規約の草案です。柏木礼子のような『虚飾の寄生虫』が二度と現れないよう、収支の透明化と地権者の監督権限を大幅に強化しました」
綾香は、一之瀬の前に数枚のタブレットを置いた。
彼女は現在、このマンションの管理組合顧問、そして一之瀬が経営する不動産投資会社のパートナーとして、その辣腕を振るっている。
「完璧だ。……君が来てから、このマンションの資産価値はさらに上がったよ。住民たちは君のことを『伝説の地権者』と呼んで恐れているようだがね」
一之瀬が愉快そうに笑う。
綾香は表情を変えず、窓の外に広がる東京の夜景を見下ろした。
「恐れられるくらいが丁度いいんです。ここは、自立して生きる者のための城ですから」
一方、千葉の場末にある築40年の木造アパート。
誠二は、カビの臭いが充満する部屋で、カップ麺の残り汁を啜っていた。
会社は懲戒解雇。再就職先を探そうにも、綾香が業界に流した「徹底的にロジカルな不祥事報告書」のせいで、どこも門前払いだ。実家の父からは勘当され、不倫相手の美奈からは弁護士を通じて慰謝料の請求が届いている。
「……なんで、こうなったんだ……」
誠二は、ひび割れたスマホでSNSを開く。
そこには、かつての「女王」柏木礼子が、場外市場のパートタイマーとしてボロボロの格好で働いている隠し撮り画像が拡散されていた。
『【悲報】豊洲の女王、現在は時給1000円で魚を捌くwww』
かつて二人で笑い合った「【悲報】」という言葉が、今は自分たちの人生そのものを形容している。
誠二は嗚咽を漏らしながら、真っ暗な窓ガラスに映る、自分の市場価値ゼロの顔を凝視するしかなかった。
再び、タワマン最上階。
一之瀬が綾香の隣に立ち、彼女の細い肩に手を置いた。
「綾香。君はもう、低層階に留まる必要はない。この50階が、君の新しいホームだ」
一之瀬がポケットから取り出したのは、ダイヤの指輪ではない。
このタワー、そして新しく建設される次世代タワーの「全権を委譲する」という契約書だった。
一之瀬は、彼女の前に静かに膝をついた。
それは誠二が礼子に捧げたような卑屈なパシリのポーズではなく、一人の有能なプロフェッショナルへの、最大級の敬意。
「僕の隣で、この街を、君の好きなように作り変えてくれないか?」
綾香は一瞬だけ、柔らかな微笑を浮かべた。
そして、差し出された万年筆を手に取り、迷いなくサインする。
「ええ。……でも、高いわよ。私の『価値』は。」
窓の外では、無数の光が瞬いている。
その光の一つ一つが、誰かの欲望であり、誰かの敗北だ。
意志の強いヒロインは、もう誰にも跪かない。
東京の空の下、彼女はただ、自分の足で、自分の土地の上に立っている。
(完)




