番外編 一ノ瀬の視点
45階、住人専用ラウンジ。
私は端の席で、滑稽なショーを眺めていた。
「礼子さん、お待たせしました! クリュッグの'08、最高の状態で冷えてます!」
中堅商社勤務の柏木誠二が、48階の「女王」柏木礼子の前で片膝をつき、恭しくシャンパンを注いでいる。
あれは8万円のボトルだ。彼が背伸びして買ったその酒は、妻である綾香さんが代々守ってきた「土地の配当」から出ていることを、私は知っている。
(……救いようのない無能だ)
私は誠二から視線を外し、その数メートル先で一人、ノートPCに向かう綾香さんに注目した。
彼女の手元には、ラウンジが提供する無料のコーヒーがある。
「佐藤。彼女がコーヒーを口にするタイミングを計れ」
隣に控える秘書の佐藤が、困惑しながら時計を見た。
「……一口目まで、3分12秒です。それが何か?」
「ラウンジのサーバーから注がれた直後の温度は95度。陶器のカップに移り、この室温で放置されれば、3分12秒後には正確に**『88度』**になる」
私は手元のタブレットに表示された、ある「伝説のレポート」を指し示した。
それは、かつて不動産市場を震撼させた匿名コンサルタント『A』が執筆したものだ。その巻末の余談には、こう記されていた。
『思考が最も明晰になるのは、88度のコーヒーを口にした瞬間である』
「まさか……。あの伝説の『A』が、あのような地味な主婦のはずが……」
「見ていろ。彼女が今、画面に入力している数式。あれは資産価値の減価償却を予測するものではない。**『ゴミ(不良債権)を処分した後の、純利益の最大化』**を計算しているんだ」
その時、誠二が大きな声を上げた。
「おい、綾香! お前もいつまでもそんな安物のコーヒー飲んでないで、こっち来て礼子さんに挨拶しろよ! 地権者の癖に愛想がねえんだよ!」
ラウンジに失笑が漏れる。
だが、綾香さんは眉一つ動かさない。
彼女は正確に3分12秒が経過したその瞬間、カップを口に運び、一口だけ含んだ。
そして、迷いなくエンターキーを叩く。
その指先には、夫への情愛も、女王への嫉妬もない。
ただ、**「清算完了」**という冷徹なロジックだけが宿っていた。
私は席を立ち、誠二の横を通り過ぎた。
彼は「一之瀬さん、お疲れ様です!」と揉み手で寄ってきたが、私は一瞥もせず、綾香さんのテーブルの前で足を止めた。
「……88度。完璧な温度管理ですね、A」
彼女が初めて、PCから顔を上げた。
周囲が静まり返る。一之瀬が、低層階の「地味な嫁」に話しかけたからだ。
「……一之瀬さん。勝手に人の思考プロトコルを覗き見るのは、マナー違反ですよ」
「失礼。だが、その計算式……残り3%の誤差は、あの『パシリの男』が持ち出すであろう共有財産の隠し口座分かな?」
彼女は不敵に、そしてこの日初めて、美しい微笑を浮かべた。
「いいえ。……それは、私が彼を『社会的に抹殺した後に支払わせる、慰謝料の端数』よ」
その瞬間、私は確信した。
この女を敵に回してはいけない。
そして、この知性を独占できるなら、50階の全資産を投げ打っても安いものだと。
私は背後で呆然と立ち尽くす誠二を振り返ることなく、彼女にだけ聞こえる声で告げた。
「掃除が終わったら、50階へ。……88度の豆を、用意しておきましょう」




