第2章 76.5MHzの放課後
六時間目の終わりを告げるチャイムは、救いの音というより「今日もよく耐えました」の合図みたいだった。
「マジでこの課題エグくない?」「てかさー、文化祭の出し物どうする?」
「浅倉、お前物理得意なんだろ、なんかアイデア出せよ」
黒板消しを片付けていたところに、クラスメイトの声が飛んでくる。
カイトはチョークの粉で白くなった手をズボンで軽く払った。
「物理得意=出し物アイデア製造機じゃないから」
「またそういう冷たいこと言うー」
軽口のつもりだと分かっている。 誰も、本気で彼を責めているわけじゃない。
でも、教室の空気は、時々ノイズの塊にしか感じられないことがあった。
「浅倉くんさあ、放課後、委員会来れる?」
今度は前の席から、学級委員の女子が顔を出す。
「え、何の?」
「文化祭の係決め、もう一回やり直しなんだって。
準備手伝ってくれそうな人リストに、勝手に入れといたから」
「勝手に、って……」
「頼りになるってことだよ。悪い意味じゃないから」
そう言って笑ってくれる好意は分かる。
分かるけれど、その「頼りになる」が重りみたいに肩に乗ってくる。
「ごめん、今日は無理。
先生に頼まれて、物理準備室の片付け手伝いがあるから」
半分は本当で、半分は嘘だ。 先生に言えば、「じゃあついでにこれも頼むよ」と軽く言ってくれる程度の関係はある。
でも、それ以上は説明したくなかった。
「そっかー。じゃあまた今度お願いね」
「うん」
教室がざわざわと片付けモードに入っていく。 友達同士でコンビニに行く約束をする声。
部活に向かう部員たちの「早く行こうぜ」という足音。
その全部が、薄い壁一枚分の距離を置いて、カイトの耳に届いていた。
机の中から自分の鞄を引き抜く。
教科書とノートを適当に突っ込みながら、ふと窓の外を見ると、旧校舎の屋上が視界の端に入った。
立入禁止の札。
誰もいないはずのフェンス。
今日も、そこには何も起きていないように見えた。
(……ノイズキャンセリング)
心の中でそう呟いて、カイトは教室を出た。
向かう先は、いつもの物理準備室。
廊下は放課後特有の、どこか緩んだ雰囲気に満ちている。 誰かが走る音、どこかの教室から聞こえる笑い声、吹奏楽部のチューニング。
全部を背中側に置き去りにしながら、カイトは準備室のドアノブに手をかけた。
ガララ……と引き戸を開けると、いつもの匂いが迎えてくれる。
はんだごてと、古い紙と、少し湿った木の匂い。
ここだけ、教室とは別の周波数で動いているみたいだった。
「ただいま、と」
誰もいないのに、カイトは小さく呟いた。
机の上には、自作の鉱石ラジオが鎮座している。
クラスのノイズから逃げてくるたびに、この小さな装置が「避難所」の入り口になってくれる。
電源を入れれば、世界は一度ホワイトノイズにリセットされる。
「さて、今日の収穫は——」
椅子に腰を下ろし、イヤホンを手に取る。
カイトはダイヤルに指をかけた。
このあと、ノイズの裂け目から、あの歌声が飛び込んでくる。
放課後の物理準備室には、いつも同じ匂いがする。
はんだごての焦げた匂いと、古い教科書の紙の匂いと、誰かがこぼしたまま忘れたコーヒーの残り香。
教室の喧騒からドア一枚隔てただけで、世界はこんなにも静かになる。
カチッ、とスイッチを入れる音さえ、ここではちゃんと聞こえた。
カイトは机の上の鉱石ラジオに向かって、慎重にダイヤルを回した。 ゲルマニウムダイオードは、ぎりぎり中古のパーツ屋で手に入れたものだ。
フェライトコアに巻いたコイルは、自分で何度も巻き直した。
イヤホンを片耳だけに差し込む。
ザーーーーッ……というホワイトノイズが、鼓膜を撫でた。
「……今日も、ノイズまみれか」
窓の外には、夕立の名残りがしつこく張り付いている。 さっきまでのゲリラ豪雨は止んだが、校庭はまだ濡れていて、グラウンドの水たまりが空を映していた。
遠くでサッカー部が。廊下では誰かが笑っている。
全部まとめて、「ノイズ」としてラジオの向こう側に押し込めたかった。
ダイヤルをゆっくりと回す。 ニュース、演歌、どこかの通販番組、外国語の放送。
狙っているのは、どれでもない。
(……校内、拾えないかな)
この鉱石ラジオの構造上、受信できる範囲はせいぜい半径数百メートル。 つまり、ほぼ学校の敷地内だ。
もし、どこかの教室で誰かが勝手にラジオ送信とかやってたら――なんて、現実味のない妄想を何度もしている。
ザーーッ、ピ……ガガッ。
ノイズの海を泳ぎながら、カイトはイヤホンを少し押し込んだ。 ヘッドホンじゃなくて、古い片耳イヤホンなのがかえって都合がいい。
もう片方の耳で、現実の音もちゃんと拾えるからだ。
先生の説教、クラスの噂話、誰かの足音。
それらが、このイヤホンを通じて、全部「同じ質のノイズ」になってくれたらいいのにと思う。
今日も特に収穫はない。
そう判断して、電源を切ろうとした、そのときだった。
ノイズの裂け目から、ふいに「音」が滑り込んできた。
『~~♪』
かすかなメロディ。
最初はただのハム音かと思ったが、よく聞くと、それは紛れもなく「歌」だった。
カイトは息を止めた。 指先でダイヤルをミリ単位で調整する。
ザーーーーが少しだけ後ろに下がり、旋律が手前に浮かび上がる。
歌っているのは、プロの歌手じゃない。 アカペラ。ギターもバンドもない。
それでも、驚くほど芯の通った声だった。
『——壊してしまえ、全部! 優等生の仮面なんて!』
イヤホン越しなのに、鼓膜が震えた。 声は少し掠れていて、ところどころ音程は荒い。
でもその「不安定さ」が、逆に異様なまでのリアルさを伴っていた。
(……ロック?)
歌詞は、よくある失恋でも前向きソングでもない。
世界と、自分と、自分に貼り付いた「優等生」というラベルに向かって、中指を立てるような言葉ばかりだった。
『お行儀よく笑えって言うな!
黒板の前で死んだふりをするのは、もう飽きた!』
叫びに近いフレーズ。 けれどただの怒鳴り声ではなく、そこにはちゃんとリズムと抑揚があった。
誰かの心の底から湧き上がったノイズを、そのままメロディに変えたような不器用なロック。
(……どこだ?)
カイトは窓の方を振り向いた。
音の出どころはラジオのはずなのに、なぜか教室の外から直接聞こえているようにも感じる。
準備室の窓は、旧校舎の方を向いている。 見慣れたコンクリートの箱。
その屋上に、影がひとつ見えた。
制服のスカート。 フェンスに寄りかかった細いシルエット。
片手を口元に当てて、空に向かって叫ぶように歌っている女子生徒。
「……嘘だろ」
心臓が、イヤホンの音に合わせて早くなる。
雨はまだ、細かい霧のように降っている。 旧校舎の屋上には、学校指定の立ち入り禁止の札がある。
それでもそこに立つ彼女は、まるでそれが「自分のステージ」だと言わんばかりに、フェンスを背にして空を睨みつけていた。
ミナミだった。
クラスで一番目立たない、図書委員の佐伯ミナミ。
いつもは図書室のカウンターで淡々と貸し出し処理をしている、真面目で優しそうな優等生。
その彼女が、今、空に向かって世界を罵倒している。
『聞こえてるか、教室!
本当の声は、ここにある!』
ラジオ越しの声が爆音になった。
鉱石ラジオのボロい回路には不釣り合いなほど、クリアな叫びだった。
(マジ、かよ)
カイトは震える手でボリュームを上げた。 イヤホンを深く押し込む。
ノイズが完全に消え、彼女の声だけが世界のすべてになった。
旧校舎の屋上で、ミナミがふとこちらを振り返った気がした。 距離にしておよそ百メートル。
その間には雨のカーテンとガラス窓がある。
それでも、一瞬だけ視線が交差した。
カイトはヘッドホン――もとい片耳イヤホンを握りしめた。 受信してしまった。
誰にも聞かれたくなかったはずの、彼女の本当の周波数を。
それは、秘密の共犯関係が始まる音だった。
*
曲が終わると同時に、ダイヤルの感度がふっと緩んだ。
ノイズが一気に押し寄せ、現実の雨音と混ざり合う。
カイトはイヤホンを外し、窓の方に駆け寄った。 旧校舎の屋上には、もう誰の姿もない。
フェンスだけが、濡れた空を切り取っている。
準備室の引き戸が、そのとき、ガララ……と重たい音を立てて開いた。
振り向くと、そこに立っていたのは、ずぶ濡れの制服を着たミナミだった。
黒髪から滴る雨が、床に小さな水たまりを作っている。 シャツはところどころ肌に張り付き、スカートの裾は重そうに腿にまとわりついていた。
息は少し荒い。
肩が上下するたびに、胸元の名札が揺れる。
いつもの「図書委員の大人しい顔」ではなかった。
睨みつけるような、野生動物みたいな瞳。
「……聞いてたんでしょ」
声は少し掠れていた。
さっきまで叫んでいたせいだ。
「ああ」
カイトは椅子から半分立ち上がり、ヘッドホン――いや、イヤホンを首にかけたまま、正直に答えた。
「全部、聞こえたよ」
ミナミは唇を噛む。 しばらく何も言わず、準備室の床に視線を落としていた。
濡れたローファーが、小さく軋む。
「笑えばいいじゃない」
ようやく口を開いた彼女は、吐き捨てるように言った。
「優等生が裏でロックなんてやってるって。 クラスのみんなに言いふらせば?
『図書委員の佐伯が、屋上で中二病こじらせてました』って」
捨て鉢な笑みを浮かべ、踵を返そうとする。
その足を止めたのは、カイトの一言だった。
「最高だったよ」
ミナミの肩が、小さく震えた。
ゆっくりと振り返る。
「え?」
「最高だった」
カイトは鉱石ラジオのダイヤルを指で撫でた。
まだほんのりと温もりが残っている金属。
「歪んだ声も、叫び声も。
このボロいラジオには、今までで一番クリアに届いた」
ミナミは、困ったように笑った。
怒った顔と泣きそうな顔とが、うまく混ざらないような表情。
「……何それ。皮肉?」
「本気」
カイトは立ち上がり、机の上の紙を一枚掴んだ。
さっきまで物理のレポートを書いていた裏紙だ。
そこに、ペンで数字を書き殴る。
「これ」
紙をミナミに差し出す。
彼女は警戒しながら受け取り、そこに書かれた文字を読む。
『76.5MHz —— Kaito’s Lab』
「……何、これ」
「俺専用の周波数。
まだ実験段階だけど、校内でしか飛ばない、超ローカルな電波」
カイトは窓の外を指さす。
「さっきの屋上からの声、多分、ここ経由で拾ったんだと思う。
このラジオ、教科書に載ってる理屈だけじゃ説明つかないくらい、たまに変なもの拾うからさ」
ミナミは紙とラジオを交互に見た。
「また叫びたくなったら」
カイトは続ける。
「ここにチューニングしてよ。
いつでも待機してるから」
ミナミの喉が、小さく動いた。
濡れた前髪から一筋の水滴が落ちて、紙の端を濡らす。
「……何それ。公開処刑の予約?」
「逆。
ここは、君のノイズを音楽として受信する場所にする」
カイトは少しだけ笑った。
「この世界はノイズだらけだ。 先生の説教も、クラスの噂話も、チャイムの音も。
でも、君のノイズだけは、俺にとって『音楽』だった」
ミナミはしばらく黙っていた。
やがて、ふっと肩の力を抜く。
「……そんなこと言ってくれたの、初めてだよ」
「そりゃそうだろ。
屋上であんな叫び方する図書委員、見たことないし」
「もう! そこは忘れて!」
ミナミは顔を真っ赤にして、紙でカイトの胸をぽかぽかと叩いた。
その様子が可笑しくて、カイトは思わず笑ってしまう。
彼女も、自分で自分の姿を想像したのか、すぐに苦笑いに変わった。
「……分かった」
ミナミは紙を大事そうに折りたたみ、スカートのポケットにしまう。
「また叫びたくなったら、ここに合わせる。 でも、その時はちゃんと調整してよ。
ノイズまみれで下手に届いたら、さすがに恥ずかしいから」
「了解。常時チューニングしておきます、佐伯さん」
「ミナミでいい」
彼女は、少しだけ照れたように言った。
「……了解。ミナミ」
カイトはわざとらしく咳払いをして、右手をおでこに当てる。
「感度良好。管制塔より」
ミナミは一瞬きょとんとしたあと、吹き出した。
「なにそれ」
「パイロットとかがそう言うらしい。
俺、地上でアンテナいじるだけだけど」
「……いいね、それ」
彼女は濡れた前髪を指でかき上げながら、真面目な顔で頷いた。
「こっちからも言わせて」
ミナミは胸に手を当て、ほんの少し姿勢を正す。
「こちら、ミナミ。
76.5MHz、感度良好。ノイズキャンセリング、お願いね、管制塔」
カイトは笑った。
準備室の空気が、少しだけ軽くなる。
窓の外では、雨が小降りになり、雲の隙間から夕日が差し込んでいた。 旧校舎の壁が、オレンジ色に濡れている。
屋上のフェンスは、さっきの叫び声など何も知らない顔で、いつも通りの場所に立っていた。
この学校には、プールで月を沈めてるバカもいれば、空に向かって叫んでる優等生もいる。
——たぶん、俺も、その一部なんだ。
カイトはそう思いながら、再び鉱石ラジオに手を伸ばした。
76.5MHzのダイヤルは、さっきよりも少しだけ、確かな感触で指先に応えた。




