表示調整
閉じる
挿絵表示切替ボタン
▼配色
▼行間
▼文字サイズ
▼メニューバー
×閉じる

ブックマークに追加しました

設定
0/400
設定を保存しました
エラーが発生しました
※文字以内
ブックマークを解除しました。

エラーが発生しました。

エラーの原因がわからない場合はヘルプセンターをご確認ください。

ブックマーク機能を使うにはログインしてください。
放課後エーテル図鑑  作者: LaLaLa
3/3

第3章 青い炎の放課後

終礼のチャイムが鳴っても、ホームルームはなかなか終わらなかった。


「文化祭のクラス企画、もうちょっと具体案出してほしいんだよね」


 担任が教卓の前で腕を組む。

 教室のあちこちから「模擬店?」「教室喫茶は?」といった声が飛ぶが、どれも決め手に欠けていた。


「レン、なんかない?」


 前の席から、学級委員の女子が振り返る。

 彼女の期待と、周りの「だよな」という空気が同時に押し寄せてくる。


「え、俺?」


「理科得意だし、なんかそういうの。

 実験ショーとかさ」


「実験って……」


 レンは教室を見渡した。 教科書通りの範囲なら、いくらでも案は出せる。

 でも、「盛り上がるかどうか」はまた別の話だ。


「爆発系はダメですよー」


 担任が軽く冗談を飛ばす。

 クラスがどっと笑う。


 こういうとき、「俺、別に頼りになるつもりないんだけどな」と思ってしまう自分がいる。 期待されるのは嫌いじゃない。

 でも、それに応え続けていると、そのうち「期待されること」自体が仕事みたいになってくる。


「じゃあ、理科室で炎色反応見せるとか。

 安全だし、見た目もそこそこ派手だし」


 結局、要求に合わせた無難な案を口にしてしまう。

 学級委員が「いいじゃん、それ!」「じゃあレン、詳しい案まとめといて」と嬉しそうに言う。


「……うん」


 頷いた瞬間、自分で自分をまた一段「まっとうな優等生」の枠に押し込んだ気がした。


 ホームルームが解散になると、クラスメイトたちは一斉に立ち上がる。


「カラオケ行こーぜ」「部活あるから無理ー」

 そんな会話を背中に受けながら、レンはゆっくりと鞄を持ち上げた。


「レン、理科室行くの?」


 ドアのところで、ユイが待っていた。

 文庫本を片手に、いつもの調子でこちらを見る。


「うん。

 炎色反応の準備、ちょっと見てこいってさ」


「真面目だね」


「そうしないと、“レンならやってくれる”って空気が止まらないから」


「あ、それはあるかも」


 ユイはくすっと笑う。


「じゃあ、私も行く。

 さっき借りたフラスコ返さなきゃだし」


 二人で廊下に出る。

 夕方の光が、窓ガラスをオレンジ色に染めていた。


「レンってさ」


「なに」


「“ちゃんとしてる時間”長くない?」


「……そうかも」


「でも、放課後の理科室にいるときだけ、ちょっと違う顔してるよ」


「そう?」


「そう」


 ユイはそれ以上言わず、先に歩き出した。

 レンはその背中を見ながら、自分で自分の顔を触ってみる。


 ちゃんとしてる顔。

 ちゃんとしてない顔。


 その境目がどこにあるのか、自分ではよく分からなかった。


 理科室に近づくにつれ、廊下の空気が少しだけひんやりとしてくる。

 扉の向こうには、ホルマリンと埃と夕日の粒子が溜まった、いつもの空間が待っていた。


 ——ここだけ、温度が違う。


 そう思いながら、レンは理科室のドアを開けた。


理科室には、時間割の隙間に取り残されたような空気が溜まっている。 ホルマリンの瓶。

 ラベルが黄ばんだ薬品。

 誰がいつ書いたのか分からない落書き付きの黒板。

 昼休みと放課後のあいだの短い時間、その全部が夕日の色を借りている。

 西側の窓から差し込む光が、実験台の上に斜めの帯を作り、その中で埃がゆっくりと舞っていた。

 レンは黒板消しを動かしながら、その埃をぼんやりと眺めていた。

 カツン、カツンと、チョークの粉が飛び散る音。

 今日の授業は、酸とアルカリ。

 黒板にはまだ、pHだの中和だのという文字の痕跡が、うっすらと残っている。

 まっとうな優等生、という評価は嫌いではない。

 面倒なトラブルに巻き込まれることもないし、先生から頼みごとをされるのも嫌いじゃない。

 ただ、こうして誰もいない理科室で、自分一人だけが「片付け」をしていると、ときどき自分が透明になったみたいな気分になる。

 黒板を拭き終えると、レンは黒板消しをパンパンと叩いた。

 白い粉が少しだけ空中に舞う。

 窓からの光が、それを星みたいに光らせた。

 ふと、視界の端に、使い終わったアルコールランプが映る。

 実験台の隅。

 ガラスのビーカーと試験管立ての影。

 そこに、小さな透明のランプがぽつんと置き去りにされていた。

 先生に見つかったら怒られるかもしれない。

 「火の始末は必ず教師が確認すること」――理科室ルールの最初の一文だ。

 でも、放課後は、規則と現実の間に少しだけ隙間ができる時間だ。

 レンはランプを手に取った。

 ガラス越しに見えるアルコールは、ほとんど減っていない。

 芯は焦げて黒くなっているけれど、まだ十分に火を吸い上げそうだった。

 引き出しからマッチを一本取り出す。

 シュッ。

 火薬の匂いが鼻をかすめる。

 赤い火が一瞬だけ強く光って、それから少し落ち着く。

 指先をわずかに傾けて、芯に火を移した。

 最初は頼りないオレンジ色。

 しばらくすると、炎の根元が透き通った青に変わる。

「……綺麗だな」

 思わず口をついた言葉は、自分に向けた独り言だった。

 教室の照明はまだついている。

 それでも、アルコールランプの青い炎は、その明るさとは別の層で、空気を染めていく。

 ビーカーのガラス肌に、青い光が歪んで映り込んでいる。

 ガラスに触れるとひんやりと冷たいのに、その数センチ上の空気だけが、生き物みたいに温かい。

「綺麗だね」

 突然の声に、レンは肩を跳ねさせた。

 振り向くと、ユイが隣の実験台に腰掛けていた。

 いつの間に入ってきたのか、ドアの開く音はまったく聞こえなかった。

 窓際に座る彼女の髪の輪郭が、夕日に縁どられている。

 空気中を舞う埃が、スローモーションのようにキラキラと光っていた。

 SONYあたりのレンズを持ってきたら、この場面だけで一冊の写真集が作れそうだ。

「ユイか。びっくりした」

「ごめん。ノックしたんだけど、気づいてなかった」

 彼女は文庫本を膝の上に置いた。

 カバー越しに、タイトルは見えない。

「火、つけたんだ」

「……まあ、ちょっと」

 レンはバツが悪そうにランプを見る。

「先生に見つかったら怒られるかな?」

「多分、怒られるね」

 ユイはあっさりと言って、ちょこんと青い炎の向こう側に移動した。

「でも、怒られるくらいのこと、一個ぐらいしてもいいんじゃない?」

「ユイは、そういうの得意そうだな」

「どういう意味?」

「いや……」

 うまく誤魔化せなかった自覚はある。

 ユイは口元だけで笑って、アルコールランプをじっと見つめた。

「ねえ、レン」

「うん」

「青い火って、なんかエーテルっぽくない?」

「エーテル?」

「昔の人が信じてた、“空間を満たしてる見えない物質”みたいなやつ。

 今は存在しないって分かってるけどさ。

 なんか、こういうの見ると、まだどこかにあるんじゃないかって思っちゃう」

 ユイは指先を炎の近くまで持っていく。

 ぎりぎりのところで止めて、掌を上下に動かした。

「ここは熱い。

 ここは、ちょっと温かい。

 ここは、何もないみたいに冷たい。

 同じ空気なのに、場所が変わるだけで違うの、面白くない?」

 レンは、自分も手を伸ばしてみる。

 炎のすぐ横は、じりじりと焦げそうなほど熱い。

 少し上に行くと、ふんわりとした温かさだけが残る。

 さらに上は、何もなかったみたいにひんやりとしている。

「……たしかに」

 青い炎が、ビーカーの曲面に二重三重に映り込んでいる。

 ガラスの歪みのせいで、同じ炎がいくつも揺れているように見えた。

「学校ってさ」

 ユイがふいに言った。

「一日の大半が“正しい温度”でできてる気がする」

「正しい温度?」

「うん。

 朝のHR、授業、昼休み、掃除。

 全部、『これくらいの熱で過ごすのが正しい』って決められてるみたいな感じ」

 レンは苦笑した。

「まあ、分かる」

「でもさ、放課後の理科室とか、夜の廊下とか。

 ちょっとだけ温度がずれる場所ってあるじゃん。

 ここみたいに」

 ユイはアルコールランプを顎で指した。

「ここだけ、他と違う空気が溜まってる感じ。

 私、そういう場所、けっこう好きなんだよね」

 レンは、さっきまで黒板を拭きながら感じていたことを、彼女に言葉で先回りされた気がした。

「レンは?」

「俺?」

「うん。

 クラスでは“まっとうな優等生”やってるレンは、こういう温度差、好き?」

 からかうような響きがあるのに、目は真剣だった。

「……嫌いじゃない」

 レンは少しだけ考えてから答えた。

「なんか、ちゃんとしてる時間ってさ。

 誰かに見られてる前提で動かなきゃいけない気がするんだよね」

「見られてる前提」

「点数とか、態度とか。

 『レンならできるでしょ』って期待とか。

 そういうのが全部、監視カメラみたいに天井からぶら下がってる感じ」

 ユイは「ふーん」と相槌を打つ。

「でも、理科室のこの時間だけは、監視カメラが電源落ちてる感じがする。

 だから、多分、俺もこういう温度差の場所が好きなんだと思う」

「じゃあ、同罪だね」

 ユイは小さく笑った。

「ここ、放課後のエーテル溜まりってことで」

「なんだよ、その中二病ワード」

「いいじゃん。

 誰もいない理科室でアルコールランプつけてる時点で、十分中二だよ」

 言われてみれば、その通りだった。

     *

 窓の外は、いつの間にか黄金色から深い群青色へと変わっていた。

 埃も、もう光っていない。

「そろそろ、行かなくちゃ」

 レンの声が、薄暗い理科室に吸い込まれていく。

 ユイは文庫本を閉じ、小さく頷いた。

「火、消すね」

 レンはアルコールランプの横に置かれていた、白い陶器の蓋を手に取った。

 この蓋を被せれば、今日の秘密は終わる。

 名残惜しいけれど、永遠に燃やし続けることはできない。

 横からそっと近づける。

 青い炎が、蓋の影に怯えるように一瞬だけ揺れた。

 カポッ。

 乾いた音がして、世界から色がひとつ消えた。

 さっきまで熱を持っていた空間が、急にただの「暗い教室」に戻る。

 鼻の奥に、燃え尽きた芯の焦げた匂いがツンと残った。

「……暗いね」

 ユイがぽつりと言う。

「うん。でも、目が慣れるよ」

 レンはスイッチを押して、蛍光灯をつける。

 白い光が一斉に灯り、そこら中のガラスと金属が、何事もなかった顔で光り始める。

 二人は荷物を持ち、理科室の重い引き戸を閉めた。

 ガラガラという音が、誰もいない廊下に大きく反響する。

 昇降口までの長い廊下。

 窓ガラスには、外の空が薄い紺色で貼り付いている。

 並んで歩く二人の距離は、来るときよりも少しだけ近い気がした。

 腕が触れるほどではないけれど、お互い、半歩だけ相手側に寄っている。

 言葉は交わさない。

 けれど、二人の網膜の奥には、さっきまでの青い炎の残像が、まだ熱を持って焼き付いていた。

「ねえ」

 ユイが、廊下の途中で口を開いた。

「こないださ。先生、職員室で怒ってた」

「何を?」

「夜、誰かがプールで騒いでたって。

 見回りの先生が見つけられなかったらしいけど、フェンス越えた跡があったって」

 レンは目を瞬いた。

「へえ。そんなやついるんだ」

「いるんだよ、ここにも。

 教科書通りじゃない温度の場所を探してる人たち」

 ユイは楽しそうに笑った。

「夜のプールも、放課後の理科室も。

 多分どっちも、エーテルが濃い場所なんだよ」

「なんだよ、それ」

「褒め言葉」

 昇降口の前で、二人は立ち止まる。

 外の空気は少しひんやりしていて、まだ夏の名残を引きずっている。

「じゃあ、また明日」

 ユイが言う。

「うん、また明日」

 その言葉は、いつもより少しだけ、約束の響きを含んでいた。

 レンは校門へ向かいながら、ポケットの中のライターを指で確かめた。

 使わなかった予備の火種。

 それを持っているという事実だけが、なんとなく心強かった。

 明日になれば、また「まっとうな優等生」の温度で一日を過ごすことになる。

 でも、放課後の理科室には、エーテルと青い炎が待っている。

 それだけで、少しだけ前を向いて歩ける気がした。

評価をするにはログインしてください。
ブックマークに追加
ブックマーク機能を使うにはログインしてください。
― 新着の感想 ―
このエピソードに感想はまだ書かれていません。
感想一覧
+注意+

特に記載なき場合、掲載されている作品はすべてフィクションであり実在の人物・団体等とは一切関係ありません。
特に記載なき場合、掲載されている作品の著作権は作者にあります(一部作品除く)。
作者以外の方による作品の引用を超える無断転載は禁止しており、行った場合、著作権法の違反となります。

↑ページトップへ