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放課後エーテル図鑑  作者: LaLaLa
1/3

第1章 水深1.2メートルの放課後

放課後には、授業のチャイムでは測れない時間があります。


 水深1.2メートルのプールの底から見上げた、少し歪んだ月。  教室には届かない76.5MHzの、小さな校内放送。

 理科準備室の窓辺で揺れる、アルコールランプの青い炎。


 この本に登場する六人は、クラスメイトでも、仲のいいグループでもありません。

 互いの名前を知らないまま、同じ校舎の別々の場所で、それぞれの放課後を過ごしています。


 夜のプール。  旧校舎の物理準備室。

 放課後の理科室。


 彼らが歩いたその場所に、ふと同じモチーフ——水面、ノイズ、炎、周波数——が現れたとき、ばらばらだった小さな物語は、線のように静かに重なっていきます。


 第1部では、高校時代の「放課後エーテル」を、三つのモチーフを軸に描きました。

 第2部では、卒業後の夜を舞台に、深夜ラジオ『放課後エーテル・レイディオ』を通して、その後の彼らの時間を少しだけ受信します。


 あなた自身の「放課後」や、もう言わなくなったはずの「また明日」を、どこか一カ所でも思い出しながら読んでいただけたら嬉しいです。

 金網をよじ登るときの音って、やけに大きく聞こえる。 ギシ、ギシ。

 夏の終わりの夜気はまだ湿っていて、指先にまとわりつく鉄の冷たさまで、やけに鮮明だった。


「早く、早く」 先に登りきったナギサが、反対側から小声で急かす。

 月明かりに縁どられたポニーテールが、金網の向こうでふわりと揺れた。


「急かすなって。こういうのは静かにだな……わっ」


 足をかけた部分がぎしりと鳴り、一瞬バランスを崩しそうになる。

 金網の向こうでは、ナギサが口元を押さえて笑いをこらえていた。


 どうにか頂点を越え、身体を反対側へと落とす。

 着地した瞬間、膝にわずかな衝撃が走り、スニーカーの底から伝わるコンクリートの硬さに、僕はようやく「学校の裏庭」に戻ってきたことを実感した。


 その瞬間、ツンとした匂いが鼻腔を刺した。


 ——塩素の匂い。


 昼間なら「体育の時間」「夏休みの補習」の象徴でしかない、あの日常的な匂い。 けれど真夜中に嗅ぐと、同じ匂いが、途端に悪いことの香りに変わる。

 鍵を壊したわけでもない。ただフェンスを乗り越えただけ。でも、この匂いが、「今の俺たちは校則の外側にいる」と告げていた。


「ほら、急がないと」


 ナギサが、手首を引く。

 校舎裏の細い通路を抜けると、視界が急に開けた。


 そこに、プールがある。


 四角く切り抜かれた夜空の下、巨大な水槽みたいに、水面が静かに広がっていた。 コンクリートで囲まれた灰色の箱の底にだけ、別の世界が溜まっている。

 その表面には、満月が浮かんでいた。


 プールサイドの照明は落ちているのに、月光だけでタイルの目地まで分かる。

 水面に反射した月は、ほんの少しの風と水の揺れで、ゆらゆらと形を変えていた。


「ね、言ったでしょ。今夜が一番綺麗だって」


 ナギサはローファーをつま先でひょいと脱ぎ、白いソックスのままプールサイドに腰を下ろした。

 そのまま、何のためらいもなく足を水に浸す。


「冷たくないの?」


 僕が思わず聞くと、彼女は首を振った。


「ぬるいよ。昼間の熱が、まだ底の方に残ってる」


 チャプ、と小さな音がして、水面の月が崩れた。 ナギサが足首を揺らすたび、月はゼリーみたいにぐにゃりと歪んで、また別の形に戻る。

 もしいいレンズがあったら、この砕けた月光と、水面のぷるぷるした質感、それから濡れたタイルに映る光まですべて、一枚の写真の中に閉じ込められるんだろう。


「ほら、リクも」


 ナギサが空いているスペースを手のひらで叩く。 プールサイドのコンクリートは、昼の熱を吸ったまま冷めきっていない。

 僕は彼女の隣に腰を下ろした。

 ザラザラした感触が、体重を預けるとじんわりと太ももに伝わる。


 目の前には、水深1.2メートルの世界。

 底に引かれた青いラインが、水の揺らぎに合わせて生き物みたいにうねっている。


「——なあ、なんでわざわざ夜にプールなんだよ。昼間、授業で泳げばいいじゃん」


 自分でフェンスを乗り越えておいて、今さらな質問だと分かっている。

 ナギサは水面から目を離さずに、少しだけ笑った。


「昼間は、うるさいから」


「うるさい?」


「先生の笛の音とか、クラスの女子の黄色い声とか。

 ここで『何メートル泳げた』とか『タイムがどう』とか、全部あたしたちの上に降ってくるじゃん」


 彼女はつま先で、小さく水を蹴った。

 砕けた月が、二つ三つにちぎれる。


「でも、夜はさ。ここで何しても、誰も数えてくれないでしょ。 何メートル泳いだかも、何秒潜ってたかも。

 だから、ここだけ重力が違うみたいじゃない?」


 その言葉を聞いた瞬間、僕はなんとなく理解した気がした。


 フェンスの向こうの街明かりは、ここから見るとやけに遠い。 コンビニの看板も、車のヘッドライトも、小さな星みたいに瞬いている。

 でも、水深1.2メートルのこの場所だけは、世界のどこよりも深くて、静かだった。


「重力……ね」


「うん。 昼間はさ、成績とか部活とか家庭とか、全部上から降ってくるじゃん。

 ここにいると、それが全部、プールの底に沈んでくれればいいのにって思う」


 ナギサは両手を後ろについて、夜空を見上げた。

 首筋にかかる髪が月光に照らされて、ほんのりと光る。


 僕は何も言わなかった。

 言葉の代わりに、スニーカーを脱いで、靴下ごと足を水に入れる。


 冷たい。

 けれど、そこには確かに昼間の熱がまだ残っていて、ただの水以上の温度があった。


「ほらね。ぬるいでしょ」


「……まあ、悪くない」


 二人でしばらく、砕けては繋がる月を眺めていた。 言葉はいらない。

 塩素の匂いと水の音だけが、黙って僕らの共犯関係を肯定してくれているみたいだった。


 校舎のどこかでは、多分まだ誰かが勉強している。 寮の窓にはちらほらと明かりが見える。

 噂によれば、この学校には「夜に行くと時間の止まる階段」とか、「放課後だけ別の世界に繋がる理科室」とか、変な重力を持った場所がいくつもあるらしい。

 そのどれも、僕にはどうでもよかった。

 僕にとって必要なのは、このプールサイドだけだ。


「——おい、誰かいるのか?」


 不意に、野太い声が夜を裂いた。

 校舎の方から、鋭い光の筋が伸びてくる。


「えっ」


 白いビームがプールサイドを乱暴になぎ払う。

 さっきまで静かだった水面が、一瞬でざわりと色を変えた。


「やばっ、見回りだ!」


 僕が立ち上がると同時に、ナギサも慌てて足を引き抜いた。

 水滴が飛び散り、白いソックスが闇の中でくっきりと浮かび上がる。


「嘘、待って! ローファー!」


 彼女はプールサイドに脱ぎ捨てたローファーを片手でわし掴みにする。

 靴を履いてる暇なんてない。


「走れ!」


 僕はナギサの手を引いて、プールサイドを駆け出した。 ペタ、ペタ、ペタ。

 ナギサの濡れた靴下がコンクリートを叩く音が、夜気にやけに大きく響く。


 フェンスの向こうから、懐中電灯の光が激しく揺れた。

 金網を這う光が、追ってくる影みたいに見える。


 心臓が破裂しそうだ。 恐怖——なのかもしれない。

 けれど喉の奥から込み上げてくるのは、不謹慎なほどの笑いだった。


「はっ、はは……!」


 笑いを噛み殺しながら、僕らは暗い通路を抜けて、再び校舎裏のフェンスへと向かう。

 ナギサのスカートが金網に引っかかりそうになるのも構わず、勢いのままよじ登る。


「早く!」


「わかってる!」


 向こう側から差し伸べられたナギサの手を掴み、体を引き上げる。

 二人まとめて、夜の闇へと転がり落ちた。


 土と草の匂いが混ざり合う、学校裏の路地。

 そこはさっきまでの塩素の匂いとは別の、少し現実寄りの空気が流れていた。


 僕らは、しばらく何も言えずに走り続けた。

 校舎の影が途切れ、街灯の下までたどり着いたところで、ようやく足を止める。


「はぁ、はぁ、はぁ……!」


 二人の白い息が、街灯の下で重なり合う。


 ナギサが膝に手をつき、顔を上げた。 髪はボサボサで、白いソックスは泥だらけで真っ黒だ。

 息を切らしながら、その姿を見ていたら、どうしようもなく可笑しくなった。


「……最悪、びしょ濡れじゃん」


 僕が吹き出すと、ナギサも一拍置いてから、声を上げて笑い出した。


「お前が足なんか入れるからだろ」


「誘ったのリクでしょ、フェンス越えようって」


 笑いながら、ナギサは片足を持ち上げて見せる。

 ぐっしょりと濡れた靴下から、水滴がぽたぽたとアスファルトに落ちた。


 足の裏がずっと冷たい。 水と泥が混ざった感触が、じわじわと体温を奪っていく。

 気持ち悪い、と言えば気持ち悪い。

 でも、僕はそれを不快だと思えなかった。


 ——この冷たさが、今夜あそこに月が沈んでた証拠だ。


 そう思ったら、少しだけ誇らしくなった。


 誰も知らない。 見回りの先生だって、きっと忘れる。

 でも、僕の足の裏には、まだ水深1.2メートルの重力が貼り付いている。


 街灯の下で、ナギサがふいに空を見上げた。


「ねえ、リク」


「ん?」


「また行こうね。あのプール」


 その横顔には、悪びれた様子も、反省の色もなかった。

 ただ、あの水面をもう一度見たいっていう子どもみたいな欲望だけが、素直に浮かんでいた。


「……ああ」


 僕は簡単に頷いてしまう。

 やめとこうよ、とか、危ないから、とか、そういう大人っぽい言葉は、一つも浮かばなかった。


 どうせ明日になれば、また昼の重力が戻ってくる。 成績とか、部活とか、進路希望調査とか。

 それならせめて、今夜くらいは——


 水深1.2メートルの月を、僕らだけのものだと信じていたかった。


翌朝、目ざましのアラームが鳴るより先に、足の裏の違和感で目が覚めた。


 布団の中でつま先を動かすと、皮膚がつっぱる。 かかとと指の腹に、うっすらとした筋肉痛と、擦り傷のざらつき。

 夜のプールからここまで走った距離が、正確に刻まれていた。


 カーテンの隙間から差し込む光は、やけに白かった。

 真夜中のプールの青と、街灯のオレンジが頭の中でまだ混ざっているせいかもしれない。


 布団をめくると、ベッドの足元にはぐしゃぐしゃのビニール袋が転がっていた。 中には、洗面台で雑にすすいだだけの濡れた靴下が入っている。

 まだうっすらと塩素の匂いがした。


 ——夢じゃない。


 それだけ分かれば、十分だった。


     *


「顔、眠そう」


 午前のHRが終わるなり、前の席から振り向いたケンタが言った。

 彼はいつも通り、元気そうで、いつも通り、うるさかった。


「夜更かしでもしてた?」


「ちょっとな」


 適当に返す。

 ケンタはそれ以上詮索せず、代わりに「英表の小テストやばくね?」と話題を変えた。


 教室の窓からは、いつも通りの校庭が見える。 サッカー部が走り、野球部が声を張り上げ、女子たちが廊下で笑っている。

 昨日の夜、フェンスの向こうに見えた街灯の光と、今見えている太陽光は、同じ場所を照らしているはずなのに、まるで別の世界みたいだった。


 ナギサは、まだ来ていなかった。


 ホームルームの出欠は「欠席」の欄に小さな丸がつけられ、その上に担任のボールペンが妙に丁寧に名前をなぞった。


「ナギサ、また?」


 後ろの席の女子が小声で言う。


「最近、多くない?」


「保健室行ったとかじゃね?」


 ヒソヒソとした声が、黒板の前と後ろを行ったり来たりする。

 僕はノートを開いたまま、ペン先でページの端をぐるぐると丸くなぞっていた。


 ——夜、あんなに元気だったくせに。


 そう思った自分に、少しだけ驚いた。


     *


 休み時間、廊下に出ると、湿った風が吹き抜けた。 体育館のほうから、笛の音が聞こえる。

 ここが「昼の学校」であることを、改めて思い知らされる。


 校舎の向こう側、フェンスの向こうにあるプールは、当然見えない。 見えないけれど、あの水面は今ごろ、陽射しを浴びてぎらぎらと光っているのだろう。

 生徒たちが泳ぎ、先生がタイムを測り、誰かが水深1.2メートルの底まで潜っている。


 ——同じプールなのに。


 夜のあの静けさと、昼のざわめきが、どうしても同じ場所だとは思えなかった。


「リクー、飯行こーぜ」


 ケンタが肩を叩く。 購買のパンは争奪戦だから、早く行かないと売り切れる。

 それは分かっているのに、足が自然と別の方向に向かっていた。


「先行ってて。ちょっと保健室寄ってくる」


「あ? 具合悪いの?」


「いや、ちょっと……」


 曖昧に濁して、ケンタと別れる。

 廊下の角を曲がりながら、心臓が少しだけ早くなった。


 別に、何ができるわけでもない。

 ただ、「ナギサが本当に休んでるだけなのか」を確かめたかった。


     *


 保健室の前まで行って、ドアノブに手をかける。 中からは、静かな気配しかしない。

 ノックを一回、軽く叩いた。


「はーい」


 中から聞こえたのは、保健の先生の声だった。

 ドアを開けると、白衣姿の先生が書類に目を落としている。


「あれ、リクくん? どうしたの」


「えっと……具合悪くなったわけじゃないんですけど」


 言いながら、自分でも意味の分からないことを言っているなと思う。

 先生はメガネの奥の目を細めた。


「誰か、見舞い?」


「ナギサっていますか。二組の」


 先生は首を横に振った。


「今日は来てないよ。朝からお休みだって連絡あったから」


「そう、ですか」


 喉の奥に、小さな塊ができた気がした。

 それは心配か、それとも別の感情か、自分でも判然としない。


 礼を言って、保健室を出る。

 廊下に出た瞬間、足元で何かがきしりと鳴った気がした。


 ——ギシ、ギシ。


 金網を登るときの、あの感触がフラッシュバックする。 昨日の夜、自分の足で超えた線。

 そこから先にナギサを連れ出したのは、間違いなく僕だった。


 ナギサが休んでいる理由と、昨夜のプールに因果関係があると決めつけるのは、きっと傲慢だ。

 でも、完全に無関係だと言い切れるほど、僕は鈍感でもなかった。


     *


 その日の放課後、空は少しだけ曇っていた。

 夏の終わりと秋の始まりが、どっちつかずのまま校舎の上を通り過ぎていく。


 ケンタたちは部活に行き、教室には人がまばらになった。

 僕は教室の窓から、校庭の向こうをぼんやりと眺めていた。


 プールは見えない。

 ただ、フェンスの上にかすかに光る金属の縁だけが、視界の片隅で主張している。


 ——また行こうね。あのプール。


 ナギサの声が、耳の奥で何度も反響した。


「あれ、帰んないの?」


 不意に、背後から声がした。

 振り返ると、鞄を肩にかけたナギサが教室の入り口に立っていた。


「お前……」


 思わず立ち上がる。 髪はいつもより雑に結ばれ、制服のネクタイは少しゆがんでいる。

 そんなところだけ見ても、今日の彼女が「いつものナギサ」ではないことが分かった。


「休んでたんじゃ」


「午後から来た。午前中は、家の手伝い」


 さらりと言って、ナギサは窓の外に目をやる。


「保健室、行ったでしょ」


 心臓が一瞬止まった。

 彼女が笑う。


「先生に『リクくんが様子見に来たよ』って言われた」


「……チクるなよ、そういうの」


「別にいいじゃん。ありがと」


 ナギサは教室の真ん中まで歩いてきて、僕の隣の席に腰を下ろした。

 誰もいない教室に、椅子の軋む音がやけに大きく響く。


「ねえ」


「ん」


「昨日のこと、怒ってる?」


 ナギサは机の上に顎を乗せるようにして、こちらを見上げてきた。


「怒ってる? なんで」


「無理やり付き合わせたかなって。夜のプール」


「無理やりなのは、お前のほうだろ。俺がフェンス越えようって言ったのは事実だけど」


「じゃあ、半々ってことで」


 彼女は口元だけで笑った。

 その笑い方は、昨夜プールサイドで月を砕いていたときと同じだった。


「……足、大丈夫?」


 思わずそう聞いていた。

 ナギサは片足を少し持ち上げる。


「ちょっと筋肉痛。リクのせいで全力疾走させられたから」


「あれは先生のせいだろ」


「そうだね。先生のせいだ。

 でも、あの感覚、久しぶりだった」


「感覚?」


「なんかさ。 怒られるかもしれないことやってるときって、心臓が変な風に動くじゃん。

 怖いのに、楽しい。楽しいのに、ちょっとだけ泣きそう」


 ナギサは窓の外を見た。

 その視線の先には、やっぱり見えないプールがあるのだろう。


「昼の学校は、全部『正解』が決まってるからさ。 テストの点とか、委員会とか、進路希望とか。

 プールのタイムまで、数字で表にされる」


 彼女は机の上に指でラインを描いた。

 昨日見た、プールの底の青いラインのように。


「夜のプールには、タイム表ないでしょ。 何メートル泳いでも、誰も数えてくれない。

だから、あそこではちょっとだけ、あたしの重力が軽くなる」


 一拍おいて、こちらを見る。


「リクは、どうだった?」


 僕は少し考えてから答えた。


「足が、冷たかった」


「……感想、それ?」


「最後まで聞けよ。 気持ち悪いくらい冷たくて、泥と水が混ざっててさ。

 でも、その冷たさが『今夜あそこに月があった』って証拠になるから、悪くなかった」


 ナギサは一瞬きょとんとして、それから吹き出した。


「なにそれ。詩人?」


「違う。変な体育会系よりマシだろ」


「うん、マシ」


 彼女は笑いながら、真面目な顔に戻る。


「ねえ、リク」


「なんだよ」


「やっぱり、また行こうね。 あのプール。

 今度は、ちゃんと行く前に体力温存しとくからさ」


 僕は窓の外を見た。 夕方の光が、校舎の壁をオレンジ色に染めている。

 昼の重力が少しずつ弱まって、夜の重力にバトンタッチする時間帯。


 ——また行こうね。


 昨夜、街灯の下で聞いた言葉と同じだった。

 でも今、この教室で聞くその言葉は、少し違う意味を帯びている気がした。


「……ああ」


 結局、僕はまた簡単に頷いてしまう。


 危ないとか、見つかったらどうするとか、そういう現実的な考えは、確かに頭のどこかにある。

 それでも、ナギサの言う「重力の軽くなる場所」を否定することはできなかった。


 教室の時計が、カチリと一分進んだ。

 その音に合わせて、廊下の向こうから部活の号令が聞こえてくる。


 昼と夜の境目にいる僕らは、きっとまだ、どっちの重力にも馴染みきれていない。

 でもそれでいいのかもしれない。


 夜のプールから数日後、体育の時間に、またあのプールに行くことになった。


「男子も女子も、しっかり準備運動しろー。

 今日はタイム測るぞー!」


 体育教師の声が、空に向かって突き刺さる。

 真昼の太陽は容赦なく照りつけていて、コンクリートがじんわりと熱を持っていた。


 塩素の匂いは、あの夜と同じはずなのに、温度が違うだけで別物に感じる。

 笛の音と歓声と水しぶきが混ざり合って、プールサイドは一種の戦場みたいだった。


「おーい、リク! ぼさっとしてんじゃねえ、並べー!」


 ケンタに背中を叩かれて、我に返る。

 男子列の後ろに並びながら、リクは視線だけを水面に落とした。


 そこには、夜に見たのと同じ青いラインが、白昼の光の中でうねっていた。

 でも、水深1.2メートルの底から見上げてくるのは、砕けた月ではなく、真っ白な太陽だけだ。


「次、二年一組女子ー!」


 先生の声に続いて、女子の列が前に進む。

 水泳帽をかぶったナギサが、ちらりとこちらを見た。


 ゴーグル越しでも分かる、ニヤリとした笑い。


「リクー、見てなよー!」


 スタート台に乗るときだけ、こっそりと口パクでそう言った気がした。


 ピッ、と笛が鳴る。


 白い水しぶきが一斉に上がる。

 ナギサの姿はすぐに水中に消えたが、すぐにまた水面から現れ、真面目にクロールを刻み始めた。


「佐伯、意外と速いな」


「いつもサボってるくせに」


 プールサイドの先生が、ストップウォッチを見ながら笑う。

 クラスメイトたちも、「おー」「やるじゃん」と口々に言った。


 ナギサは、25メートルを泳ぎ切ってプールの端に手をつくと、大きく息を吐いた。 ゴーグルを額にずらし、髪から水を振り払う。

 先生からタイムを告げられると、「ふーん」と興味なさそうに返事をして、こっちを見た。


 たった一瞬。

 でも、その目は「ね?」と問いかけてきていた。


 ——あたし、本気出したらこんなもんだよ。


 そんな顔。


 リクは、思わず笑ってしまった。


 次は男子の番だ。 スタート台に乗ると、足の裏に昼のコンクリートの熱が伝わってくる。

 夜はあんなに冷たかったのに、と少しだけ不思議になる。


 ピッ。


 合図とともに飛び込む。 水が全身を包み込む瞬間、耳の中で世界が反転する。

 水中で見上げた空は、真っ青だった。


 息継ぎのたびに見えるナギサの横顔。

 プールサイドに上がると、彼女はタオルで髪を拭きながら軽く親指を立ててみせた。


「ナイスジャンプ」


「お前のタイムには負ける」


「当たり前でしょ。

 夜は足だけだったけど、昼はちゃんと飛び込んだもん」


 ナギサはそう言って、プールの水面をちらっと見た。


「ねえ、やっぱりさ」


「ん?」


「夜と昼で、同じプールでも重力違うよね」


 リクは思わず吹き出した。


「まだ言うか、それ」


「だって、本当だもん。

 昼のプールには、先生の笛とか、タイムとか、いろんな重りがぶら下がってるけどさ」


 ナギサは指で水面をちょんと突いた。

 小さな波紋が広がる。


「夜のプールは、ちょっとだけ身軽になれる。

 それを知ってるってだけで、昼の重さもギリギリ耐えられる気がしない?」


 リクは返事をしなかった。

 代わりに、水面に映った太陽をじっと見つめる。


 あの夜、ここには月が沈んでいた。

 誰も知らない1.2メートルの深さに、二人だけの重力が生まれていた。


 今ここにあるのは、クラス全員で共有する「体育のプール」だ。

 それでも、ほんの少しだけ、底に沈んだままの月の残り香があるような気がした。


「よーし、次はリレー行くぞー!」


 先生の声が現実を引き戻す。

 ナギサは肩をすくめて列に戻っていく。


 リクは深呼吸を一つして、もう一度プールに向き直った。


 昼の重力は重い。

 タイムも、順位も、日焼けの跡も、全部きっちりと記録される。


 だけど、足の裏のどこかにはまだ、あの夜の冷たさが残っていた。

 それがある限り、昼のプールも、完全に「ただの授業」にはならない気がした。

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