第1章 水深1.2メートルの放課後
放課後には、授業のチャイムでは測れない時間があります。
水深1.2メートルのプールの底から見上げた、少し歪んだ月。 教室には届かない76.5MHzの、小さな校内放送。
理科準備室の窓辺で揺れる、アルコールランプの青い炎。
この本に登場する六人は、クラスメイトでも、仲のいいグループでもありません。
互いの名前を知らないまま、同じ校舎の別々の場所で、それぞれの放課後を過ごしています。
夜のプール。 旧校舎の物理準備室。
放課後の理科室。
彼らが歩いたその場所に、ふと同じモチーフ——水面、ノイズ、炎、周波数——が現れたとき、ばらばらだった小さな物語は、線のように静かに重なっていきます。
第1部では、高校時代の「放課後エーテル」を、三つのモチーフを軸に描きました。
第2部では、卒業後の夜を舞台に、深夜ラジオ『放課後エーテル・レイディオ』を通して、その後の彼らの時間を少しだけ受信します。
あなた自身の「放課後」や、もう言わなくなったはずの「また明日」を、どこか一カ所でも思い出しながら読んでいただけたら嬉しいです。
金網をよじ登るときの音って、やけに大きく聞こえる。 ギシ、ギシ。
夏の終わりの夜気はまだ湿っていて、指先にまとわりつく鉄の冷たさまで、やけに鮮明だった。
「早く、早く」 先に登りきったナギサが、反対側から小声で急かす。
月明かりに縁どられたポニーテールが、金網の向こうでふわりと揺れた。
「急かすなって。こういうのは静かにだな……わっ」
足をかけた部分がぎしりと鳴り、一瞬バランスを崩しそうになる。
金網の向こうでは、ナギサが口元を押さえて笑いをこらえていた。
どうにか頂点を越え、身体を反対側へと落とす。
着地した瞬間、膝にわずかな衝撃が走り、スニーカーの底から伝わるコンクリートの硬さに、僕はようやく「学校の裏庭」に戻ってきたことを実感した。
その瞬間、ツンとした匂いが鼻腔を刺した。
——塩素の匂い。
昼間なら「体育の時間」「夏休みの補習」の象徴でしかない、あの日常的な匂い。 けれど真夜中に嗅ぐと、同じ匂いが、途端に悪いことの香りに変わる。
鍵を壊したわけでもない。ただフェンスを乗り越えただけ。でも、この匂いが、「今の俺たちは校則の外側にいる」と告げていた。
「ほら、急がないと」
ナギサが、手首を引く。
校舎裏の細い通路を抜けると、視界が急に開けた。
そこに、プールがある。
四角く切り抜かれた夜空の下、巨大な水槽みたいに、水面が静かに広がっていた。 コンクリートで囲まれた灰色の箱の底にだけ、別の世界が溜まっている。
その表面には、満月が浮かんでいた。
プールサイドの照明は落ちているのに、月光だけでタイルの目地まで分かる。
水面に反射した月は、ほんの少しの風と水の揺れで、ゆらゆらと形を変えていた。
「ね、言ったでしょ。今夜が一番綺麗だって」
ナギサはローファーをつま先でひょいと脱ぎ、白いソックスのままプールサイドに腰を下ろした。
そのまま、何のためらいもなく足を水に浸す。
「冷たくないの?」
僕が思わず聞くと、彼女は首を振った。
「ぬるいよ。昼間の熱が、まだ底の方に残ってる」
チャプ、と小さな音がして、水面の月が崩れた。 ナギサが足首を揺らすたび、月はゼリーみたいにぐにゃりと歪んで、また別の形に戻る。
もしいいレンズがあったら、この砕けた月光と、水面のぷるぷるした質感、それから濡れたタイルに映る光まですべて、一枚の写真の中に閉じ込められるんだろう。
「ほら、リクも」
ナギサが空いているスペースを手のひらで叩く。 プールサイドのコンクリートは、昼の熱を吸ったまま冷めきっていない。
僕は彼女の隣に腰を下ろした。
ザラザラした感触が、体重を預けるとじんわりと太ももに伝わる。
目の前には、水深1.2メートルの世界。
底に引かれた青いラインが、水の揺らぎに合わせて生き物みたいにうねっている。
「——なあ、なんでわざわざ夜にプールなんだよ。昼間、授業で泳げばいいじゃん」
自分でフェンスを乗り越えておいて、今さらな質問だと分かっている。
ナギサは水面から目を離さずに、少しだけ笑った。
「昼間は、うるさいから」
「うるさい?」
「先生の笛の音とか、クラスの女子の黄色い声とか。
ここで『何メートル泳げた』とか『タイムがどう』とか、全部あたしたちの上に降ってくるじゃん」
彼女はつま先で、小さく水を蹴った。
砕けた月が、二つ三つにちぎれる。
「でも、夜はさ。ここで何しても、誰も数えてくれないでしょ。 何メートル泳いだかも、何秒潜ってたかも。
だから、ここだけ重力が違うみたいじゃない?」
その言葉を聞いた瞬間、僕はなんとなく理解した気がした。
フェンスの向こうの街明かりは、ここから見るとやけに遠い。 コンビニの看板も、車のヘッドライトも、小さな星みたいに瞬いている。
でも、水深1.2メートルのこの場所だけは、世界のどこよりも深くて、静かだった。
「重力……ね」
「うん。 昼間はさ、成績とか部活とか家庭とか、全部上から降ってくるじゃん。
ここにいると、それが全部、プールの底に沈んでくれればいいのにって思う」
ナギサは両手を後ろについて、夜空を見上げた。
首筋にかかる髪が月光に照らされて、ほんのりと光る。
僕は何も言わなかった。
言葉の代わりに、スニーカーを脱いで、靴下ごと足を水に入れる。
冷たい。
けれど、そこには確かに昼間の熱がまだ残っていて、ただの水以上の温度があった。
「ほらね。ぬるいでしょ」
「……まあ、悪くない」
二人でしばらく、砕けては繋がる月を眺めていた。 言葉はいらない。
塩素の匂いと水の音だけが、黙って僕らの共犯関係を肯定してくれているみたいだった。
校舎のどこかでは、多分まだ誰かが勉強している。 寮の窓にはちらほらと明かりが見える。
噂によれば、この学校には「夜に行くと時間の止まる階段」とか、「放課後だけ別の世界に繋がる理科室」とか、変な重力を持った場所がいくつもあるらしい。
そのどれも、僕にはどうでもよかった。
僕にとって必要なのは、このプールサイドだけだ。
「——おい、誰かいるのか?」
不意に、野太い声が夜を裂いた。
校舎の方から、鋭い光の筋が伸びてくる。
「えっ」
白いビームがプールサイドを乱暴になぎ払う。
さっきまで静かだった水面が、一瞬でざわりと色を変えた。
「やばっ、見回りだ!」
僕が立ち上がると同時に、ナギサも慌てて足を引き抜いた。
水滴が飛び散り、白いソックスが闇の中でくっきりと浮かび上がる。
「嘘、待って! ローファー!」
彼女はプールサイドに脱ぎ捨てたローファーを片手でわし掴みにする。
靴を履いてる暇なんてない。
「走れ!」
僕はナギサの手を引いて、プールサイドを駆け出した。 ペタ、ペタ、ペタ。
ナギサの濡れた靴下がコンクリートを叩く音が、夜気にやけに大きく響く。
フェンスの向こうから、懐中電灯の光が激しく揺れた。
金網を這う光が、追ってくる影みたいに見える。
心臓が破裂しそうだ。 恐怖——なのかもしれない。
けれど喉の奥から込み上げてくるのは、不謹慎なほどの笑いだった。
「はっ、はは……!」
笑いを噛み殺しながら、僕らは暗い通路を抜けて、再び校舎裏のフェンスへと向かう。
ナギサのスカートが金網に引っかかりそうになるのも構わず、勢いのままよじ登る。
「早く!」
「わかってる!」
向こう側から差し伸べられたナギサの手を掴み、体を引き上げる。
二人まとめて、夜の闇へと転がり落ちた。
土と草の匂いが混ざり合う、学校裏の路地。
そこはさっきまでの塩素の匂いとは別の、少し現実寄りの空気が流れていた。
僕らは、しばらく何も言えずに走り続けた。
校舎の影が途切れ、街灯の下までたどり着いたところで、ようやく足を止める。
「はぁ、はぁ、はぁ……!」
二人の白い息が、街灯の下で重なり合う。
ナギサが膝に手をつき、顔を上げた。 髪はボサボサで、白いソックスは泥だらけで真っ黒だ。
息を切らしながら、その姿を見ていたら、どうしようもなく可笑しくなった。
「……最悪、びしょ濡れじゃん」
僕が吹き出すと、ナギサも一拍置いてから、声を上げて笑い出した。
「お前が足なんか入れるからだろ」
「誘ったのリクでしょ、フェンス越えようって」
笑いながら、ナギサは片足を持ち上げて見せる。
ぐっしょりと濡れた靴下から、水滴がぽたぽたとアスファルトに落ちた。
足の裏がずっと冷たい。 水と泥が混ざった感触が、じわじわと体温を奪っていく。
気持ち悪い、と言えば気持ち悪い。
でも、僕はそれを不快だと思えなかった。
——この冷たさが、今夜あそこに月が沈んでた証拠だ。
そう思ったら、少しだけ誇らしくなった。
誰も知らない。 見回りの先生だって、きっと忘れる。
でも、僕の足の裏には、まだ水深1.2メートルの重力が貼り付いている。
街灯の下で、ナギサがふいに空を見上げた。
「ねえ、リク」
「ん?」
「また行こうね。あのプール」
その横顔には、悪びれた様子も、反省の色もなかった。
ただ、あの水面をもう一度見たいっていう子どもみたいな欲望だけが、素直に浮かんでいた。
「……ああ」
僕は簡単に頷いてしまう。
やめとこうよ、とか、危ないから、とか、そういう大人っぽい言葉は、一つも浮かばなかった。
どうせ明日になれば、また昼の重力が戻ってくる。 成績とか、部活とか、進路希望調査とか。
それならせめて、今夜くらいは——
水深1.2メートルの月を、僕らだけのものだと信じていたかった。
翌朝、目ざましのアラームが鳴るより先に、足の裏の違和感で目が覚めた。
布団の中でつま先を動かすと、皮膚がつっぱる。 かかとと指の腹に、うっすらとした筋肉痛と、擦り傷のざらつき。
夜のプールからここまで走った距離が、正確に刻まれていた。
カーテンの隙間から差し込む光は、やけに白かった。
真夜中のプールの青と、街灯のオレンジが頭の中でまだ混ざっているせいかもしれない。
布団をめくると、ベッドの足元にはぐしゃぐしゃのビニール袋が転がっていた。 中には、洗面台で雑にすすいだだけの濡れた靴下が入っている。
まだうっすらと塩素の匂いがした。
——夢じゃない。
それだけ分かれば、十分だった。
*
「顔、眠そう」
午前のHRが終わるなり、前の席から振り向いたケンタが言った。
彼はいつも通り、元気そうで、いつも通り、うるさかった。
「夜更かしでもしてた?」
「ちょっとな」
適当に返す。
ケンタはそれ以上詮索せず、代わりに「英表の小テストやばくね?」と話題を変えた。
教室の窓からは、いつも通りの校庭が見える。 サッカー部が走り、野球部が声を張り上げ、女子たちが廊下で笑っている。
昨日の夜、フェンスの向こうに見えた街灯の光と、今見えている太陽光は、同じ場所を照らしているはずなのに、まるで別の世界みたいだった。
ナギサは、まだ来ていなかった。
ホームルームの出欠は「欠席」の欄に小さな丸がつけられ、その上に担任のボールペンが妙に丁寧に名前をなぞった。
「ナギサ、また?」
後ろの席の女子が小声で言う。
「最近、多くない?」
「保健室行ったとかじゃね?」
ヒソヒソとした声が、黒板の前と後ろを行ったり来たりする。
僕はノートを開いたまま、ペン先でページの端をぐるぐると丸くなぞっていた。
——夜、あんなに元気だったくせに。
そう思った自分に、少しだけ驚いた。
*
休み時間、廊下に出ると、湿った風が吹き抜けた。 体育館のほうから、笛の音が聞こえる。
ここが「昼の学校」であることを、改めて思い知らされる。
校舎の向こう側、フェンスの向こうにあるプールは、当然見えない。 見えないけれど、あの水面は今ごろ、陽射しを浴びてぎらぎらと光っているのだろう。
生徒たちが泳ぎ、先生がタイムを測り、誰かが水深1.2メートルの底まで潜っている。
——同じプールなのに。
夜のあの静けさと、昼のざわめきが、どうしても同じ場所だとは思えなかった。
「リクー、飯行こーぜ」
ケンタが肩を叩く。 購買のパンは争奪戦だから、早く行かないと売り切れる。
それは分かっているのに、足が自然と別の方向に向かっていた。
「先行ってて。ちょっと保健室寄ってくる」
「あ? 具合悪いの?」
「いや、ちょっと……」
曖昧に濁して、ケンタと別れる。
廊下の角を曲がりながら、心臓が少しだけ早くなった。
別に、何ができるわけでもない。
ただ、「ナギサが本当に休んでるだけなのか」を確かめたかった。
*
保健室の前まで行って、ドアノブに手をかける。 中からは、静かな気配しかしない。
ノックを一回、軽く叩いた。
「はーい」
中から聞こえたのは、保健の先生の声だった。
ドアを開けると、白衣姿の先生が書類に目を落としている。
「あれ、リクくん? どうしたの」
「えっと……具合悪くなったわけじゃないんですけど」
言いながら、自分でも意味の分からないことを言っているなと思う。
先生はメガネの奥の目を細めた。
「誰か、見舞い?」
「ナギサっていますか。二組の」
先生は首を横に振った。
「今日は来てないよ。朝からお休みだって連絡あったから」
「そう、ですか」
喉の奥に、小さな塊ができた気がした。
それは心配か、それとも別の感情か、自分でも判然としない。
礼を言って、保健室を出る。
廊下に出た瞬間、足元で何かがきしりと鳴った気がした。
——ギシ、ギシ。
金網を登るときの、あの感触がフラッシュバックする。 昨日の夜、自分の足で超えた線。
そこから先にナギサを連れ出したのは、間違いなく僕だった。
ナギサが休んでいる理由と、昨夜のプールに因果関係があると決めつけるのは、きっと傲慢だ。
でも、完全に無関係だと言い切れるほど、僕は鈍感でもなかった。
*
その日の放課後、空は少しだけ曇っていた。
夏の終わりと秋の始まりが、どっちつかずのまま校舎の上を通り過ぎていく。
ケンタたちは部活に行き、教室には人がまばらになった。
僕は教室の窓から、校庭の向こうをぼんやりと眺めていた。
プールは見えない。
ただ、フェンスの上にかすかに光る金属の縁だけが、視界の片隅で主張している。
——また行こうね。あのプール。
ナギサの声が、耳の奥で何度も反響した。
「あれ、帰んないの?」
不意に、背後から声がした。
振り返ると、鞄を肩にかけたナギサが教室の入り口に立っていた。
「お前……」
思わず立ち上がる。 髪はいつもより雑に結ばれ、制服のネクタイは少しゆがんでいる。
そんなところだけ見ても、今日の彼女が「いつものナギサ」ではないことが分かった。
「休んでたんじゃ」
「午後から来た。午前中は、家の手伝い」
さらりと言って、ナギサは窓の外に目をやる。
「保健室、行ったでしょ」
心臓が一瞬止まった。
彼女が笑う。
「先生に『リクくんが様子見に来たよ』って言われた」
「……チクるなよ、そういうの」
「別にいいじゃん。ありがと」
ナギサは教室の真ん中まで歩いてきて、僕の隣の席に腰を下ろした。
誰もいない教室に、椅子の軋む音がやけに大きく響く。
「ねえ」
「ん」
「昨日のこと、怒ってる?」
ナギサは机の上に顎を乗せるようにして、こちらを見上げてきた。
「怒ってる? なんで」
「無理やり付き合わせたかなって。夜のプール」
「無理やりなのは、お前のほうだろ。俺がフェンス越えようって言ったのは事実だけど」
「じゃあ、半々ってことで」
彼女は口元だけで笑った。
その笑い方は、昨夜プールサイドで月を砕いていたときと同じだった。
「……足、大丈夫?」
思わずそう聞いていた。
ナギサは片足を少し持ち上げる。
「ちょっと筋肉痛。リクのせいで全力疾走させられたから」
「あれは先生のせいだろ」
「そうだね。先生のせいだ。
でも、あの感覚、久しぶりだった」
「感覚?」
「なんかさ。 怒られるかもしれないことやってるときって、心臓が変な風に動くじゃん。
怖いのに、楽しい。楽しいのに、ちょっとだけ泣きそう」
ナギサは窓の外を見た。
その視線の先には、やっぱり見えないプールがあるのだろう。
「昼の学校は、全部『正解』が決まってるからさ。 テストの点とか、委員会とか、進路希望とか。
プールのタイムまで、数字で表にされる」
彼女は机の上に指でラインを描いた。
昨日見た、プールの底の青いラインのように。
「夜のプールには、タイム表ないでしょ。 何メートル泳いでも、誰も数えてくれない。
だから、あそこではちょっとだけ、あたしの重力が軽くなる」
一拍おいて、こちらを見る。
「リクは、どうだった?」
僕は少し考えてから答えた。
「足が、冷たかった」
「……感想、それ?」
「最後まで聞けよ。 気持ち悪いくらい冷たくて、泥と水が混ざっててさ。
でも、その冷たさが『今夜あそこに月があった』って証拠になるから、悪くなかった」
ナギサは一瞬きょとんとして、それから吹き出した。
「なにそれ。詩人?」
「違う。変な体育会系よりマシだろ」
「うん、マシ」
彼女は笑いながら、真面目な顔に戻る。
「ねえ、リク」
「なんだよ」
「やっぱり、また行こうね。 あのプール。
今度は、ちゃんと行く前に体力温存しとくからさ」
僕は窓の外を見た。 夕方の光が、校舎の壁をオレンジ色に染めている。
昼の重力が少しずつ弱まって、夜の重力にバトンタッチする時間帯。
——また行こうね。
昨夜、街灯の下で聞いた言葉と同じだった。
でも今、この教室で聞くその言葉は、少し違う意味を帯びている気がした。
「……ああ」
結局、僕はまた簡単に頷いてしまう。
危ないとか、見つかったらどうするとか、そういう現実的な考えは、確かに頭のどこかにある。
それでも、ナギサの言う「重力の軽くなる場所」を否定することはできなかった。
教室の時計が、カチリと一分進んだ。
その音に合わせて、廊下の向こうから部活の号令が聞こえてくる。
昼と夜の境目にいる僕らは、きっとまだ、どっちの重力にも馴染みきれていない。
でもそれでいいのかもしれない。
夜のプールから数日後、体育の時間に、またあのプールに行くことになった。
「男子も女子も、しっかり準備運動しろー。
今日はタイム測るぞー!」
体育教師の声が、空に向かって突き刺さる。
真昼の太陽は容赦なく照りつけていて、コンクリートがじんわりと熱を持っていた。
塩素の匂いは、あの夜と同じはずなのに、温度が違うだけで別物に感じる。
笛の音と歓声と水しぶきが混ざり合って、プールサイドは一種の戦場みたいだった。
「おーい、リク! ぼさっとしてんじゃねえ、並べー!」
ケンタに背中を叩かれて、我に返る。
男子列の後ろに並びながら、リクは視線だけを水面に落とした。
そこには、夜に見たのと同じ青いラインが、白昼の光の中でうねっていた。
でも、水深1.2メートルの底から見上げてくるのは、砕けた月ではなく、真っ白な太陽だけだ。
「次、二年一組女子ー!」
先生の声に続いて、女子の列が前に進む。
水泳帽をかぶったナギサが、ちらりとこちらを見た。
ゴーグル越しでも分かる、ニヤリとした笑い。
「リクー、見てなよー!」
スタート台に乗るときだけ、こっそりと口パクでそう言った気がした。
ピッ、と笛が鳴る。
白い水しぶきが一斉に上がる。
ナギサの姿はすぐに水中に消えたが、すぐにまた水面から現れ、真面目にクロールを刻み始めた。
「佐伯、意外と速いな」
「いつもサボってるくせに」
プールサイドの先生が、ストップウォッチを見ながら笑う。
クラスメイトたちも、「おー」「やるじゃん」と口々に言った。
ナギサは、25メートルを泳ぎ切ってプールの端に手をつくと、大きく息を吐いた。 ゴーグルを額にずらし、髪から水を振り払う。
先生からタイムを告げられると、「ふーん」と興味なさそうに返事をして、こっちを見た。
たった一瞬。
でも、その目は「ね?」と問いかけてきていた。
——あたし、本気出したらこんなもんだよ。
そんな顔。
リクは、思わず笑ってしまった。
次は男子の番だ。 スタート台に乗ると、足の裏に昼のコンクリートの熱が伝わってくる。
夜はあんなに冷たかったのに、と少しだけ不思議になる。
ピッ。
合図とともに飛び込む。 水が全身を包み込む瞬間、耳の中で世界が反転する。
水中で見上げた空は、真っ青だった。
息継ぎのたびに見えるナギサの横顔。
プールサイドに上がると、彼女はタオルで髪を拭きながら軽く親指を立ててみせた。
「ナイスジャンプ」
「お前のタイムには負ける」
「当たり前でしょ。
夜は足だけだったけど、昼はちゃんと飛び込んだもん」
ナギサはそう言って、プールの水面をちらっと見た。
「ねえ、やっぱりさ」
「ん?」
「夜と昼で、同じプールでも重力違うよね」
リクは思わず吹き出した。
「まだ言うか、それ」
「だって、本当だもん。
昼のプールには、先生の笛とか、タイムとか、いろんな重りがぶら下がってるけどさ」
ナギサは指で水面をちょんと突いた。
小さな波紋が広がる。
「夜のプールは、ちょっとだけ身軽になれる。
それを知ってるってだけで、昼の重さもギリギリ耐えられる気がしない?」
リクは返事をしなかった。
代わりに、水面に映った太陽をじっと見つめる。
あの夜、ここには月が沈んでいた。
誰も知らない1.2メートルの深さに、二人だけの重力が生まれていた。
今ここにあるのは、クラス全員で共有する「体育のプール」だ。
それでも、ほんの少しだけ、底に沈んだままの月の残り香があるような気がした。
「よーし、次はリレー行くぞー!」
先生の声が現実を引き戻す。
ナギサは肩をすくめて列に戻っていく。
リクは深呼吸を一つして、もう一度プールに向き直った。
昼の重力は重い。
タイムも、順位も、日焼けの跡も、全部きっちりと記録される。
だけど、足の裏のどこかにはまだ、あの夜の冷たさが残っていた。
それがある限り、昼のプールも、完全に「ただの授業」にはならない気がした。




