亀裂の入った事情(1)
「俺、好きみたいなんです」
「貴女のことが。アロネさんのことが、好きだ」
「恋してる」
突然イリヤの耳と目に飛び込んできた情報は、鋭い刃物となって彼女の心をずたずたに裂いた。
足はその場に縫い止められたように動かない。血の気がさあと引くのが分かる。
先までのアドバイス欲しさのお茶会は脱線に脱線して、本筋の話は流されてしまったためお開きとなり、ゲイルの顔見たさに使用人の住まう一角に降りて行けば、何やら言い合う男女の声を聞いて――アロネとゲイルだとすぐ分かり、思わず柱の陰に隠れるように様子を窺っていた。
繰り広げられていたのはゲイルとアロネの不穏な雰囲気からの――告白シーン。
寝起き以上に働かない頭はゆっくりゲイルの言葉を断片的に反芻して噛み砕く。
『好きみたい』『好きだ』『恋している』
それらはイリヤが彼の口から自分に向けて聞きたかった口説き文句。
(――アロネのことを好きなのは分かってた)
それでも漠然と自分を選ぶだろうとどこかで思っていて、勝ち負けの問題ではないと理解しつつ、傲慢にも負けることはないと思っていた。
その意識しない自信が粉々に打ち砕かれた。
見たくないのに二人から目を離せない。
聞きたくないのに耳は小さな音でも拾おうとしている。
心臓がばくばくとめったやたらに打ち鳴らされ痛いほど。それが煩いせいで会話が上手く聞き取れない。
アロネは断っているのだろうか、困った表情をしている。何だか泣きそうにも見えた。
と、同時に生成りのシーツがばさばさとその場に落ちて、手の空いたゲイルは代わりにアロネを力強く抱き締めていた。
――痛い、辛い、ねえどうして?
私を見て?
私も辛いの、ねえ、お願い、こっちを見て。
お願い、私を抱き締めて。 そんな女じゃなく、私を見て。
「……っ」
今過った酷いモノは酷い頭痛と目眩に似た気分の悪さをイリヤにもたらした。
「……アロネを、そんな風に……思ったことなんて――」
ない?
――本当に?
自問自答する度に、息をするのが辛くなる。動悸が激しく胸が痛い。
ゲイルに抱かれているアロネが羨ましくて妬ましい。
自分ではなくアロネを抱くゲイルが格好良くて憎らしい。
「何で……私じゃないの……」
イリヤはふらふらとしながらもその場から離れ、何とか自室に戻った。
そうして居室の出窓に凭れるようにして片肘付き行儀悪く長い脚を組んで、そこに顎を乗せていた。
我に返れば、雨雲と霧で煙る山々をぼんやりと眺めていたことに苦笑いを浮かべる。
イリヤは今一人きり、ひとりぼっち。
眺めはただですら灰色なのに、それすらも色を失くし褪せて見える。
もう鳴っていないはずの、あのどこか物悲しい金属音があちこちから響いている気がする。
いつからなのか分からないけれど、頬が涙で流れて濡れていた。
目元は温かいのに頬に流れるそれは冷たい。
拭いもせずにひたすら景色を眺めていた。
ずっとゲイルとアロネの様子が頭の中で繰り返されていて苦しい。
ゲイルがアロネを抱き締めたからといって、二人が上手く行ったとは限らない。
(こんなことなら、伝えてしまえば良かった。私はこの気持ちを告げてすらいないのに、終わってしまう)
狡い。ずるい、ズルい。
私の方が先に好きになったのに。
それこそ、子供の頃から。初恋だったのに。
私の方が綺麗って皆言うのに。
私はまだ身体も処女でまっさらで――。
「……だから、何よ。女としての魅力がナイって事じゃない……!」
イリヤは泣きながら呟く。
処女かどうか、そんなものはアロネを下に見ていい要因じゃない。
アロネがどうでも、イリヤが貶めていいことにはならない。
むしろその逆。
子供を二人も産んだ実績のあるアロネは、きっと男性から見てとても色気があって魅力的なのだろう。
いつまでも少女めいた、くびれはあっても凹凸の薄い自分にはきっと性的な魅力がないのだ、とイリヤは嘆息した。
それがあれば。
「……初夜くらいは手を出しに来たかもしれないわね……だとしてもこちらから御免だけど」
それがあれば。
「今頃引く手数多だったかもしれないのに……遊ぶ相手に困らなかったかも……」
悪女ぶっても、実際に行動に起こすことはないのがイリヤの真面目なところだが、今の彼女は自暴自棄な考えに陥っていた。
これで夜会や夜の観劇にでも誘われていれば、喜んで付いていってしまったかもしれない。
「……っ、ふ……ううっ」
自分の愚かしい考えが空しく、更に泣いていることで余計に悲しくなる。
上げそうになる声を必死で抑えた。
静かに、ただ静かに声を抑えて姿勢も崩さず、前を見据えたまま涙を流していた。
アロネを羨む気持ちも、僻む気持ちも、嫉妬も全てが嫌だ。
ゲイルに直接自分の気持ちを伝えてフラれたわけではないが、彼の心にはアロネしかいないことも分からされてしまった。
ゲイルと同じようにイリヤではない女を抱き締めていたカイユ。
イリヤを見ようともしないダナレイ。
初めて恋したゲイル。
彼らはそれぞれ何もかも違うのに、三人ともイリヤを見てくれなかった、女としての興味を持ってくれない男たち。
イリヤはカイユに対して恋する気持ちは持てなかったが、夫となる人なのだからと尊重してきたつもりだった。だから自分を妻として扱うつもりがあると思って他の女に恋したことを知っても許した。
それなのに。
イリヤに何の相談もなく逃げた。
次に宛がわれたダナレイには真心を捧げている人がいると最初から知っていた。
王命だから逆らえない、領民ひいては国民が大事だと言いながら、流されるまま結婚した。
相手がそのつもりならこちらもと、子供じみた当てこすりでイリヤだけが無駄に意地に意地を張った八年。
再会したゲイルは幼い初恋の想い出の人。
最初は生きていたことがただ嬉しかった。
あの日の輝きが消え、襤褸を身に纏った物乞いの様相に正直言えばがっかりした。
けれどもきちんとすれば、元の、あの頃の面影のあるゲイルその人で。
少年のように笑う顔に、優しく細まる目に、頼りなげな身体になってそこはかとなく陰のある雰囲気に、一瞬で心をやられた。
アロネを庇うような言葉に傷付いたのも、アロネと
会わせたくないのも、改めて彼に恋をしたからこその嫉妬と分かって。
それでも、それでもきっとイリヤを見てくれるだろうと根拠なく信じて、覆された。
窓の向こうの重苦しい黒灰色の雲は変わらず立ち込めたまま、山々に覆い被さっていた。
知らず流れていた涙はいつの間にか乾いている。
「――私、ゲイルのことが好きなの。彼と共にいられるなら離婚してもいいと思ってる。アロネには……ううん。誰にも渡したくない……渡さない」
誰にともなく呟いたイリヤの目に、す、と仄暗い光が宿る。
「知らなかったのよね、アロネは。だから私の邪魔をしたわけじゃ、ないよね? 私に譲ってくれるよね?」
まるでアロネが窓の向こうにいるように問いかけてみる。当然返事が返ってくることはない。
――うろろろん。
虚ろなあの音が彼女の頭の中で何度も何度も鳴り響き続けていた。
※イリヤの八年=ダナレイとの婚約期間含む年数