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亀裂の入った事情(2)



 アロネは血の気が引く思いでイリヤの部屋の前に立ち竦んでいた。


 あの、扉の向こうの恐ろしく冷えた声は果たしてイリヤのものなのか――。

 彼女の声真似をした全くの別人であってほしい。自然と胸の前で握りしめた手は微かに震えている。


 だが残念なことに、あれはイリヤに間違いない。

 そうなる理由がアロネには心当たりがありすぎた。


 つい、数時間前。


 ゲイルからこれ以上ないほどに分かりやすい告白をされたアロネはほんの、ほんの一時だけ。

 されるがままに彼の腕を受け入れてしまった。


 その時、柱の陰にイリヤの姿が見えたように思う。

 瞬間色々と過る。


 ゲイルが彼女の幼い日の初恋だとは聞かされていたし、再会した現在のゲイルに知人友人以上の好意を抱いていることも分かっていたつもりだった。


 彼女の焦がれるような視線やゲイルと何となく二人になりたがる態度。

 そのどれもにそうだろうな、という確信のようなものがあった。

 彼は主人が想う相手。付き人としても最低。


 それなのに。


 ゲイルの腕の力と胸の、人の温もりの心地よさに身を任せてしまった。


 アロネに純情ぶっているつもりはない。

 確かに恋愛経験は? と聞かれれば首を傾げるだろうけれど、他人から向けられる好意に気付かないほど鈍感でもないと思っている。


 だからこそゲイルから告げられた「好き」は真っ直ぐアロネに届いた。


 若い頃から食堂で給仕をしている、それが既婚者であっても、知り合いの妻であっても口説いてくる者はいる。

 けれど、そういう(やから)は殆どが冷やかしだのからかいだので、町の男でも旅の男でも心の奥にある後腐れのない関係をあわよくば求めているだけだとよく分かっていた。


 下卑た直接的な言葉をかけられるだけでなく、すれ違いざま尻を叩かれたり、胸を触られたり腕を引っ張られたりすることも毎日で、それをどれだけ客に不快にさせずあしらえるかにも心を砕いていた。


 町の食堂どころか、平民のいる場所なんてどこもそんなものだ。

 アロネは欲情をぶつけられることに慣れていても恋情を持たれたことはない。


 それが。


 夫にすら言われなかった言葉。

 アロネに抱いてくれていたかすら今では分からないその気持ちに女としての自分が満たされた気がしたのだ。


 ゲイルは嫌悪感のある相手ではない。

 しかも彼に抱き締められたのは二度目。


 そんなに長い時間ではなかったけれど、逃がさないように力の入った腕の中はそれとは真逆に優しく、とても心地よかった。


 すぐにゲイルはシーツを拾い上げ、照れたように微笑って「じゃあまた、後で」と逃げるように浴室へと足早に去っていった。


 それをぼんやりと見送ったアロネだが、今日突然休みになったシャルとノーラの代わりに仕事がある。


 放り出してイリヤの元へ行かねばという気持ちは抑えた。


 見ていたのか見ていなかったのか。


 もし見られていたら何を言っても言い訳のような気がしたし、そもそも何をどう言えばいいのか分からない。


「初恋の人を奪ってしまってごめんなさい」


 まさかそんな相手の心を踏みにじるようなことを言えるはずが――言うはずもない。


 仕事をしていても、ゲイルとイリヤの事ばかり考えていて手が捗らなかった。

 無意味な溜め息ばかりが零れて落ちていく。


 残っていたはずの熱はとっくに冷えて消えてしまっていて、あのふわふわと浮いたような心地は戻っては来なかった。


 それに、ゲイルが返事はいらないと言っていたけれど、本当に不要というわけではないだろうということも頭を悩ませた。

 

 あの時アロネはすぐ断るつもりでいた。


 彼の気持ちは本当に嬉しかったけれど、アロネには正しく(・・・)気持ちを返せる自信がない。


 夫に愛されず、子供も愛せず――いや、愛していたはずだ。


 我が子を愛していたならどうして無理にでも連れていかなかったのだろう、諦めてしまえたのだろう――アロネが選択したことなのに、結局行き着く先は同じ場所を回るだけで抜け出せていない。


 それにゲイルの気持ちもどうせ今だけ。

 この特殊な状況――山奥の邸で自分を受け入れ、嫌がらずに接した奇特な女に興味が引かれただけ。

 そんな風に彼の告白(想い)を否定した。


 イリヤの存在。


 アロネにとって彼女は『夢の世界のおひめさま』であり『可愛い我が娘』でもあり『ほっとけない妹』でもある。

 そうと自覚している部分としていない部分はあるものの。


 自分の行き場のなかったモノを存分に与えられる存在のイリヤは正しく彼女の主人だ。

 そのイリヤが白といえば黒いものでも白く見えるほどに心酔しているアロネにとって、イリヤがゲイルを想っているかもしれないという現実はかなり彼女を打ちのめす。


 アロネはあの時見えた一瞬に、イリヤの呆然とした表情があったように思う。


 あの時すぐにゲイルを振り払って、断っていれば良かった。


 ――でももしイリヤが見ていなかったら?


 イリヤが見ていたかもしれないと思っていても振り払わなかったのはなぜ――?


 経験はなくとも十分歳を重ねたアロネには分かっている。


 触れられて嫌じゃない、気持ちが嬉しい。自分の中に答えは出ていた。

 

 並ぶ二人に、ちく、ちくと小さな痛みを覚えていたのはアロネの気のせいなどではなかった。そこに気付いてしまいたくなかった。


 けれども逆に、ゲイルとイリヤが二人並んだ姿は本当にしっくり(・・・・)きていた。

 最初からそうであるように、正解に思える。自分が彼の隣にあるよりよほど。


 だが、それはイリヤの隣がダナレイであってもそう。


 ダナレイは見た目だけは良い男で、ゲイルとはまた違った男としての魅力があるとアロネは一応認めている。


 それは個人的な好き嫌いではなく、見た目が良いか悪いかの話で、ダナレイは当然市井には絶対いないレベルの良い男だ。顔面だけで言えば。

 ただ、ダナレイの問題点はそのおかしな性格とイリヤを蔑ろにしているところ。これが大きいからイリヤの隣がダナレイであってほしくはない。


 とにかくおひめさまであるイリヤの隣は、劣っていない男であれば誰でも対になる。アロネの中では。

 

 それは本当にイリヤ自身を見てきてそう思っているのか――。


 ろろろろん、とどこかで聞いた昏い音が頭の中で響く。


「……やめよう、とりあえずシャルさんを呼ばなくちゃ……」


 ぐるぐると色々な事が頭の中で回る。


 こんなことになってしまったのはきっとゲイルのせい。


 ――あの時あんなところであんな事を言わなければ、アロネを抱き締めたりしなければ。


 いいや、全部アロネのせい。


 ――そもそもアロネが付き人になんてなったことが間違っている。イリヤがその気になればこの立場はあっさりとなかったことになる。


(もう、顔すら見てもらえないかもしれない)


 アロネはその場で立ち止まり何度か小さく(かぶり)を振ると、重い足を引きずるようにして使用人の住まう一角へと向かっていった。








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