彼には彼の事情(1)
――王命が下った。
己の未来を決定する報せに、二十七歳となったダナレイは手負いの獣のように唸ってそれを握りつぶした。
その憤怒は彼の美貌を台無しにしなかった。むしろ凄味を増すものだったが、残念ながらここは彼の執務室であり、彼に見惚れるような女性は一人もいなかった。
書状をここでびりびりに破り捨てたとしても意味はない。
苛立ちのまま激しく執務机を殴り付ける。
彼の付き人は顔色を失くし、書類を乗せていたトレイを差し出した姿勢そのまま突っ立っていた。わずかでも身動ぎしてしまえば、その怒りが己に向かいそうで恐ろしかったのだ。
「……クソッ! クソックソッ!!」
口からは彼の佇まいに似つかわしくない言葉が溢れ出ていた。
普段なら柔らかく垂れ、色気を醸し出す眦は怒りでつり上がってしまっている。
机の一番上の抽斗を引いたダナレイは崩れ落ちるようにそれを抱え屈み込んだ。
抽斗には知り合った頃に描かれた彼女の肖像画、彼女から贈られた愛の詞が書かれたカード、折に触れ届けられた細々とした物たち――遠く離れた場所で偶にしか逢えない愛しい人の代わりだった。
落ち込んだ時や辛い時、これらを抽斗から出して眺めるのがダナレイの慰めであり、癒しだ。
だが、無情な王命のせいでその力を感じることが出来ない。
「……フィオーレ、君を迎えたかったのに……」
ぼたぼたりと熱いものが彼の瞳から零れ落ちる。
それを見た付き人は、見てはいけないものを見てしまったと悟られない内に慌てて部屋から下がっていった。
* * * * *
若かりし頃、ダナレイは父親のガニムと共にある領地に視察に来ていた。ガニムが彼を連れ回しているのは後継者教育のためだ。
どの領地で何があり、どの代官と仕事をしているか。顔を合わせておかないと後々困ることもある。
だが、十四歳となった彼はこの時不平不満が一杯で内心悪態を吐いていた。
自分は領主の息子で、領民たちは「坊っちゃま」とか「次期領主さま」と持て囃している。だというのに王都修学院の入学希望が叶わなかったため、いたく機嫌を損ねていた。
ガニムは修学院について良い顔はしなかった。
だがダナレイに甘い父親だ。これまでダナレイがねだって叶えられなかったことはなかったから、彼は毎日のように入学をねだった。
そのガニムは突然修学院に興味を持った息子に困惑していた。入学には身分が足りないのだと諭しても、いまいちピンと来ていない様子に顔を顰める。
仕方がないので、家庭教師と相談し、もっと納得出来そうな内容で修学院を諦めさせることにした。
問い合わせてみたものの「領主の後継者であるから」という理由で入学許可を貰えなかったとガニムなら伝えられたダナレイは到底納得出来ない。
だが、修学院に入るために「後継者になりたくない」とは流石のダナレイも言えなかった。
後継者だからこそ他人からちやほやされるくらいは理解していたからだ。
家庭教師の一人、作法などの教師であるミーナには常々煩くうんざりを超えて無になるほど言われている。だが、自分より上がいるなんて信じられないとダナレイは思っていた。
国を治める王がいることは知っている。だが、知っているだけだ。聞くところによるとどうしようもない奴らしい。
数年前に戦があったという。あった、と言っても本格的に軍隊が出て各地から兵が徴収される前に終わってしまった。ダナレイの領地は国の南側にあるが、戦があったのは西側の遠い国境地であったし、父親も母親も何も変わらなかったからか実感はない。
聞けばずいぶん長い間続いた戦だという。
終戦にはどこかの国の姫が活躍し、我が国の王子は足を引っ張ったのだったか、台無しにしたのだったか――ダナレイは教師から教えられていたが、興味が持てず忘れていた。
とにかくしょうもない奴、というのがダナレイによる王子への評価だった。
ダナレイは領地を治めているし(まだ父親が領主で)、国は領地と領主なくして回らない(領民を忘れている)。と、いうことはダナレイが偉い。ダナレイがいなければ王子は王都王城でふんぞり返っていられないのだから。
ダナレイの聞いたのは王太子の話だったが、彼にとっては王子も王太子も、王すらも一緒くただ。
彼に中途半端な知識が備わったのは、この二ヶ月ほど前に隣領の領主の娘の結婚を祝うための宴に招かれた際のこと。
その娘婿は王都の出身。
ダナレイが年頃だからだろう、修学院に入るのか聞いてきた。彼はそれがどのような所なのか知らないので娘婿に聞いた。祝杯に酔っていたのかついでに王太子はろくでもない奴だ、とダナレイに聞いてもないのに教えたのも彼だ。
修学院は家庭教師から教わることと同じように学ぶ学舎だが、年頃の多感な少年たちの楽しみを覚える場でもあるのだという。
夜に寮を抜け出し、友人らと共に飲み明かし酒臭さに気付かれないように講義を受けたり、街娘たちと日替わりでその日限りの恋を楽しんだり。
ダナレイには歳の近い付き人や使用人はいても、友人というのはいなかった。それに彼があまりにも楽しげに懐かしそうに友人たちと思い出に浸っているので、羨ましく感じたことが大きい。
が、結局、修学院は諦めるしかなかった。
酒を飲み明かすほど飲みたいとは思えないし、街娘なら本邸のある領都に遊べる相手はいくらでもいる。
きっと本当は大したことのない場所に違いない、と負け惜しみが強かった。
そして確かにダナレイはモテた。両親よりも美丈夫と名高かった母方の祖父の血が強く出たお陰で、とっくのとうに初体験は済んでいる。
祖父譲りの甘く垂れた目や鮮やかな赤毛に高い鼻は人目を引くのに十分だし、子供ながらに色気があると女性からの誘いは引く手数多だった。
そんな彼の父親のガニムは馬車の中で居眠りをしている。
眠っている父の顔には深い皺が刻まれていて、髪も白いものが混じっているし、額の辺りはてらてらとした光沢があり生え際は後退していた。
普段から見てはいるが、まじまじとじっくり顔を見たのは久し振りのことだったので、ダナレイは彼がこんなに老けてしまっていることに幾らかショックを受けた。
ダナレイは元々両親の遅くに出来た子供で、いわゆる末っ子長男というものだ。多分に漏れず大層甘やかされて育ってきた。
ガニムの老けた顔が未来の己のそれとは違っていますように、と嘆息しつつ願った後に窓の外を窺う。
今向かっている領地の別邸は、王都から大事な客人を預かっていて、その人が滞在しているのだという。
時期を聞けば、おそらく一生涯この地から出ることはないだろうという答えだった。
王都よりその客人を訪ねて来る人がいること、客人と密な付き合いをする必要はないが、その存在と姿だけは知っておくように挨拶に行くとのことだった。
どんなに頼まれても領地の外には出さないこと、客人の滞在に関わる費用はダナレイの家持ちではないが請求には必ず太守を通すことなど、ガニムは幾つかの注意点を挙げた。
そして一番しつこく約束させられたのは、客人に会ったことを母親に秘密にするようにとのことだった。
それにはダナレイも思わず眉を顰めて、
「客人はもしかして父さまの愛人か妾なんですか?」
と聞いてしまったのは悪くないだろう。
ガニムはだらだらと額に脂汗を滲ませながら、とんでもないことを言うな、とダナレイを叱責した。
「……ですが、先程の言い方だとそんな風に聞こえました」
「私などの妾ではない。だが、嫌がるからな。お前の母も知ってはいるのだが……」
客人の名はフィオーレ。ダナレイよりも五歳ほど歳上の女性だという。
彼女は事情があって恋人と引き離された。本当ならば結婚も済ませていたのに、白紙になってしまった。
その相手は隔月または月に数日、忍んでこの領地にやって来て彼女との逢瀬を愉しんでいる。
そこまで説明して、ダナレイをちらりと見やる。
この時の彼にはそんな話はどうでもよかった。
その興味なさげな様子に、ガニムは心の中で安堵するも、まだ分からないぞと気合いを入れ直す。
何せこれから会う相手は曰く付きの魔性だ。
不安で仕方なかった。
(噂によれば、西の国境地を守る領主の子供たちは二人を除いて皆死んだ。あの女を巡って殺しあったと聞いた。そこに王太子殿下も関わっていたという。戦の支援をした国との約束を反古にし、その後王太子妃殿下を娶ったというのに殿下は彼女を手離そうとはせん。確かに可愛らしい娘ではあったが、そんなにか? 私の好みでないだけかもしれんが、そこまで執着するに値する女に見えん。だがもし、ダナレイがあれに魅了されてしまったら不味いことになる……かと言って、伝えないわけにも会わせないわけにもいかん……あの女にはこの地で封じると決められているのだから)
この地へ来たと知った妻の悋気を思い出し、額をますますテカらせる脂汗を手巾で拭い、彼はゆっくり目を閉じた。昨夜から寝不足だが、気分が落ち着かず眠れそうにない。
――面倒なことを背負わされてしまったが、自分ごときに否やは言えぬ。




