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第6話 甘き毒(同盟)と帝国大使の微笑――『フリーランス割譲』に隠された血の簒奪

 聖歴一〇五六年、十月二十一日。午前十時。

 リューベック王宮『ホルステン宮』の応接間に姿を見せた摂政アルベルトを、ロアーヌ帝国大使ローン伯爵は慇懃な笑みで出迎えた。


「お久しぶりでございます、摂政殿下」

「ローン大使も。本日は遠路ご苦労様です」

 アルベルトがソファに腰を下ろすと、大使も向かいに座り、恭しく口を開く。


「国王陛下のご容体が優れないとのこと。殿下におかれましては、さぞ気苦労が絶えないことと存じます」

「非才の身には重すぎる責務ですが、有能な家臣たちに支えられ、何とか務めておりますよ」

 アルベルトは当たり障りのない笑みを返す。実際は、家臣同士の権力闘争のせいで王位など投げ出したい気分だったが、大国の使者の前で微塵も悟らせるわけにはいかない。


 穏やかな雑談が十分ほど続いた後、ローン大使の目がスッと細められた。

「さて……。現在、西のアストゥリウ王国では内紛が勃発し、フラリン王国が大規模な介入を行っております」

「ええ。簒奪王も困ったことをしてくれましたね」

 アルベルトの言葉に、大使は深く頷いた。

「もしフラリン王国がアストゥリウを平定すれば、巨大化した彼らが東へ進出してくるのは時間の問題。その隙に……」

「その隙に、緩衝地帯である我が国を帝国の勢力下に組み込み、北方のフラリン属国群を平定する。そういうことですね?」

「ご明察の通りです、殿下」


 アルベルトの率直な言葉に、大使は悪びれずに肯定した。

 フラリンとの国境には強固な要塞群があり、正面突破は帝国でも骨が折れる。北へ迂回するのは理にかなっている。しかし、リューベックとして素直に首を縦に振るわけにはいかない。

「帝国は具体的に、我が国へ何をお望みでしょう?」

「我が帝国との『同盟』、および『帝国軍の軍事通行権』です」


(やはり、それか)

 アルベルトは内心で舌打ちをした。要求を拒めば、八万の帝国軍が押し寄せてくる。

「……貴国の要望を受け入れた場合、我が国への見返りは?」

 ならば、どこまで譲歩を引き出せるか。アルベルトは冷徹な商人の顔に切り替えた。


「フリーランス王国全土の割譲。および、通商条約の改正による関税の大幅な引き下げ。この二点につきましては、すでに皇帝陛下と諸侯の承諾を得ております」

 大使の言葉に、アルベルトは一瞬耳を疑った。

「フリーランス全土だと……? あそこには巨大な金山がありますが、それも好きにして良いと?」

「無論です。口約束ではなく、同盟条約に明記しても構いません」

「……我が国が出せる兵力は八千に満たない。それでフラリン属国群最大の領土を貰えるなど、いささか条件が過分すぎる気がしますが」


 警戒を露わにする若き摂政に、大使はニヤリと笑った。

「属国群の平定は我が帝国軍が行いますゆえ、貴国には補給支援をお願いするだけです。ただし……」

 ローン大使は身を乗り出し、声を潜めた。

「破格の条件を提示する以上、一つだけ条件がございます。摂政殿下、王太子妃は『是非とも我が帝国から』迎えていただきたい」


(やはりな。美味すぎる餌には、猛毒の針が隠されている)

 アルベルトは表情を崩さず、冷ややかに問い返す。

「私は次期国王となる身。我が国も、どこの馬の骨とも分からぬ令嬢を王妃に迎えるわけにはいきませんが?」

「ご安心を。容姿端麗にして淑女の鑑。帝国の官僚も唸るほどの聡明さを持ち合わせた、まさに王妃にふさわしい女性です」

「それは重畳。で、家柄は?」

「はい。我々がご用意したのは、ピルイン選帝公のご令嬢、アリシア様でございます」


「……ピルイン選帝公だと!?」

 氷の摂政と呼ばれたアルベルトが、この時ばかりは息を呑んで絶句した。

 選帝公。それは皇帝の選出権を握り、独自の関税権や不逮捕特権すら持つ、帝国における文字通りの最高権力者だ。そんな大国の最高位の令嬢が、こんな小国に嫁いでくるなど、常識ではあり得ない。

「失礼ですが、分家の養女などではないのですか?」

「間違いなく、サイラス公の直系の娘でございます」


 大使の確信に満ちた声に、アルベルトの脳内で警鐘が鳴り響いた。

 こんな劇薬を受け入れれば、国がどうなるか分からない。だが、拒否すれば帝国軍が攻めてくる。

「……これは国の大事。私の一存では決めかねます。重臣たちと協議の上、三日後(二十四日)に改めてご返答したい」

「承知いたしました。では、三日後の同時刻にまたお伺いいたします」

 ローン大使が恭しく頭を下げ、重苦しい会談は幕を閉じた。


 * * *


 同時刻。外務省・外務卿執務室。


「……予定通り、帝国大使は摂政殿下に『婚姻』を突きつけている頃でしょうか」

 補佐官の言葉に、外務卿ラーセン侯は薄く笑って頷いた。

「帝国外務省が我々を通さず、直接殿下に会談を申し入れたのだ。間違いないだろう」


 事の始まりは、半年前にピルイン公の令嬢アリシアが婚約破棄されたという情報だった。

 ラーセン侯は、密かにピルイン公の側近に接触し、「我が国の若き王太子は独身である」と吹き込み続けた。結果として、北方進出を狙う帝国の思惑と合致し、このあり得ない縁談は現実の物となった。


「しかし閣下。帝国外務省を差し置いてピルイン公と直接交渉したため、帝国の面子をひどく潰す結果になりましたが……」

「だからこそ、連中は我が国の外務省わたしを無視し、殿下へ直接圧力をかけて意趣返しをしてきたのだろう。構わんよ、小事だ」

 ラーセン侯が独断でこんな危険な橋を渡った理由は、ただ一つ。

 軍務卿レーベン伯の『外戚化』の阻止である。

 アルベルトの幼馴染であるエミリアが王妃になれば、レーベン伯の権力は手がつけられなくなる。反レーベン伯派には対抗馬となる令嬢がおらず、他国から迎えるしかなかったのだ。


(ピルイン公は現在、シュタデーン公との権力闘争の真っ最中だ。令嬢を寄越したところで、我が国の内政に深く干渉してくる余裕はない。まさに無害な神輿だ)

 ラーセン侯は、自身の描いた完璧な盤面に酔いしれていた。

 もちろん、この工作は摂政アルベルトにも秘密裏に行っている。バレれば失脚は免れない。

「だが、これで最大の危機は去った。あの成り上がり(軍務卿)に、これ以上国政を壟断させるわけにはいかんからな」

 外務卿は、自らの勝利を確信し、冷たくほくそ笑んだ。


 * * *


 同日、夜。アルベルトの執務室。


 アルベルトは、侍従武官のエミリア・レーベンが淹れた温かい香草茶を前に、深くため息をついていた。

「選帝公の令嬢……。あり得ない条件だ。帝国の乗っ取りの意図もあるだろうが、我が国の内側から手引きした者がいるとしか思えん」

 アルベルトの言葉に、エミリアは静かに頷く。

「おそらく、外務卿ラーセン侯でしょう。私の実家(レーベン家)が殿下の外戚となることを阻止するために、帝国の猛毒をあえて招き入れた。……軍務卿(父)が知れば猛反発するはずです」

「身内同士で足の引っ張り合いをしている場合ではないというのに……」

 頭を抱えるアルベルトに対し、エミリアはその場に静かに跪いた。

「実家や他省がどう動こうと、私だけは殿下の剣であり、盾です。あの『帝国の劇薬』がこの国にやってきた時は、私が何に代えても殿下をお守りいたします」

「……頼りにしているぞ、エミリア」

 迫り来る帝国の圧力と、味方であるはずの重臣たちの暗闘。若き摂政の夜は、果てしなく重く、そして孤独であった。

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