第5話 氷の摂政の束の間の休息――幼馴染の侍従武官と、嵐の前のティータイム
聖歴一〇五六年、十月二十日。
分厚い防音扉に守られた王宮の執務室で、アルベルトは山積みの書類から顔を上げ、背後に立つ銀髪の従者に尋ねた。
「エミリア、帝国大使との会談は確か明日だったよな?」
「ええ。明日の朝十時に、ローン伯爵との会談が入っているわ」
エミリアと呼ばれた女性従者は、一切の敬語を省いた親しげな口調で答えた。
彼女は、アルベルトの傅役である軍務卿レーベン伯の娘だ。血こそ繋がっていないが、幼い頃から兄妹のように育った気心の知れた幼馴染である。公の場では決して許されないが、こうして二人きりの密室においてのみ、アルベルトは彼女の砕けた態度を許していた。
「めんどくさ……」
アルベルトは深々と溜息をつき、再び羽ペンを走らせる。
目を通すべき書類は膨大だ。処理しても処理しても、時間はいくらあっても足りない。
(兄上が健在なら、こんな苦労しなくて済んだんだけどな)
五年前、前王太子であった兄が病死したことで、アルベルトの運命は狂った。望みもしない王太子に据えられ、父王が倒れた後は、未成年でありながら摂政として国政を一手に担わされている。
「はあ……摂政なんかじゃなくて、王立図書館の司書にでもなりたかった! そうすれば、気兼ねなく娼館にも通えたのに!」
激務から逃避するようなアルベルトの魂の叫びに、エミリアは冷ややかな目を向けた。
「無理よ、諦めなさい。ローズベルト殿下が健在でも、貴方は次期王弟。直系の男児が少ない以上、どのみち自由は制限されていたわよ」
「身も蓋もないな……」
書類仕事がある程度片付くと、エミリアが淹れてくれた紅茶でアルベルトは一服した。
ふと、昨日から頭の隅に引っかかっていた懸念が口をついて出る。
「そろそろ、俺も婚姻のことを考えなきゃいけないのか」
「いきなりどうしたの? 父上(軍務卿)に何か言われた?」
エミリアが首を傾げる。
「昨日、軍務卿から直々に言われたよ。『そろそろお世継ぎのこともお考えください』とね。リューベックの重臣としては、そう言うしかないんだろうけど……」
アルベルトは苦笑した。
現在、ナガコト王家の直系はアルベルトと妹のシャルロット王女しかいない。聖教会の教義が根付くこの社会は絶対的な男性優位であり、女王の誕生は他国の干渉や国内の混乱を招くため極力避けたいのが本音だ。だからこそ、重臣たちはアルベルトに一刻も早く「直系の男児」を作らせたがっている。
「まあ、俺は幼少期に病弱だったから、急かされるのは分かる。……だが、軍務卿(お前の親父)の場合は別の思惑があるからな」
「父上は基本的に、自家の権勢拡大しか考えていませんからね」
エミリアは自分の父親のことだというのに、他人事のように肩をすくめた。
軍務卿レーベン伯の狙いは明白だ。娘のエミリアをアルベルトの正妃とし、あわよくば孫を産ませて次期王太子とする。そうなれば、彼は「王の外祖父(外戚)」として、リューベック王国の実権を完全に握ることができる。
「レーベン伯の思い通りには、事を進めたくないんだよな」
アルベルトが率直にぼやくと、エミリアはからかうような笑みを浮かべた。
「あら。摂政殿下は、私ではご不満ですか?」
「エミリアは十分美人だと思うけど、付き合いが長すぎて、そういう事をしたいと全く思わないんだよな」
身も蓋もないアルベルトの回答だったが、それが本心だった。国家に必要とあらば閨を共にすることも厭わないが、それでも幼馴染の彼女に欲情することはまずない。
「それもあるのでしょうけど……本当は、レーベン家にこれ以上力をつけさせないため、というのもあるわよね?」
エミリアの鋭い指摘に、アルベルトは小さく笑った。
「御明察。よく分かったね」
「付き合いが長いですからね。アルベルト様が何を考えているかなんて、だいたいは予想がつきますわ」
後見人であるレーベン伯の力が強まれば、アルベルト自身も政治を動かしやすくなる。しかし、特定の派閥が強くなりすぎれば、いずれ王家は完全に傀儡にされる。その派閥の均衡を保つのが、摂政たる自分の役目だった。
「とは言え、このまま状況が進めば、お前を王妃として迎える可能性が一番高いんだよな……」
アルベルトは頭を掻きながら呟き、冷めた紅茶を飲み干した。
「……まあいい。今は明日の帝国大使だ。あの理不尽な超大国が、どんな難癖をつけてくるか」
残った報告書を手に取る彼の瞳から、十五歳の少年のような甘さが消え、再び『氷の摂政』の冷徹な光が宿った。
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