第4話 ホルステン宮の御前会議――迫り来る超大国の影と、北の交易国家の悲哀
聖歴一〇五六年、十月十八日。
ナーロッパ北方に位置する交易国家、リューベック王国の王宮『水精宮(ホルステン宮)』。その重厚な大会議室には、王国の中枢を担う者たちが集結していた。内務・外務・軍務の三卿をはじめ、諸侯、上級官僚、そして陸海軍の将官たちが、円卓を囲んで重苦しい空気を漂わせている。
「ご苦労だった、諸卿。急な招集に応じてもらい感謝する」
静まり返った室内で最初に口を開いたのは、赤みがかった金髪を持つ十五歳の少年だった。
彼の名はアルベルト・ナガコト。リューベック王国の王太子にして、病床の父王に代わり国政を担う若き摂政である。
「すでに耳にしている者も多いだろうが、南東の超大国ロアーヌ帝国が国境付近で軍の動員を開始した。諜者の報告によれば、帝国北西部のピルイン公領およびメルケン侯領に、大規模な軍需物資の集積が確認されている。さらに、帝国大使からは私への直接の会談要請も届いた。これについて、諸卿の忌憚なき意見を聞きたい」
アルベルトが事実を淡々と告げると、内務省のトップである内務卿アメルン伯が皮肉げに口を開いた。
「外務省には、帝国から事前の要求や通達は来ていないのですかな?」
「来ておりません。おそらく摂政殿下と帝国大使が会談される席で、直接突きつけられるものと推測されますが……」
外務卿ラーセン侯が苦々しく答えると、内務卿は鼻で笑った。
「なるほど。ロアーヌ帝国外務省は、我が国の外務省など窓口にする価値もないと判断し、直接摂政殿下に要求を叩きつけるおつもりのようだ。我が外務省は完全に舐められているのか、それとも話が通じぬ無能の集まりだと思われているのか。どちらですかな?」
内務卿の露骨な挑発を外務卿自身は無視したが、背後に控える外務省の官僚たちは一斉に顔を赤くして睨みつけた。
「アメルン伯」
一触即発の空気を、アルベルトの氷のように冷たく、しかし威厳に満ちた声が断ち切った。
「この場は事態に対処するための会議だ。省庁間の縄張り争いや他省への侮辱的発言は、今後一切容認しない。心得よ」
「……御意」
アルベルトの叱責に、陸軍の将校たちや外務省の官僚たちが溜飲を下げる中、内務卿は不服そうな表情を隠そうともせずに頭を下げた。
アルベルトは円卓を見渡し、静かに続ける。
「諸卿も同様だ。我々は皆、リューベック王国という同じ船に乗っている。平時における主導権争いは統治の構造上避けられぬとしても、このような国難の折には一致団結して事に当たるべきではないかな?」
「殿下のおっしゃる通りです」
「まずは帝国の真意を見極めることが肝要かと」
重臣たちが次々に賛同の意を示し、会議は辛うじて正常な軌道へと戻った。
「帝国の狙いは明白でしょう」
議論の口火を切ったのは、アルベルトの傅役(教育係)にして、最大派閥を率いる軍務卿レーベン伯だった。
「外務省を飛び越えて直接殿下に会談を要求するなど、強烈な脅しにして、交渉を優位に進めるための布石。こちらが要求を拒めば、即座に侵攻するという無言の圧力に他なりません」
「おそらくそうでしょう」外務卿ラーセン侯が同意する。「帝国が北方を固めるのであれば、西のフラリン王国が、アストゥリウ内乱の平定に注力して東方に介入できない『今』を突いて仕掛けるしかない。帝国の当面の狙いは、我がリューベックを早期に事実上の属国として屈服させることでしょう」
「しかし、そうなれば我が国は西方交易に致命的な支障をきたしますぞ!」
内務卿が声を荒げた。その主張には、国を預かる者としての切実な響きがあった。
リューベックは交易国家である。巨大な港湾都市リュベルを中核とした物流と市場の支配こそが、超大国に比肩する経済力の源泉だ。もし帝国の属国となり、フラリン王国やその属国群との交易が断たれれば、国家経済は完全に立ち行かなくなる。
「内務卿閣下の懸念はもっともですが、フラリン王国が動けない現状で、あの帝国と正面から戦って勝ち目はあるのですか?」
諸侯の一人が反論すると、たちまち「その通りだ」「勝ち目のない戦は避けるべきだ」と、恭順を促す声が会議室を支配し始めた。
アルベルトは騒ぎ立てる諸侯を一瞥し、軍務の長へ視線を向けた。
「厳しい戦いになることは百も承知だが……軍務卿、実際のところはどうだ?」
「はっ。すでに陸海軍の将官らと軍議を重ねておりますが……結論から申し上げますと」
軍務卿レーベン伯は、苦渋に満ちた顔で首を振った。
「帝国と単独で戦えば、我が国に勝ち目は万に一つもありません。防衛の目処を立てるには、ナーロッパ北方のフラリン属国群、およびデーン王国からの本格的な軍事介入が絶対条件となります」
(……フラリン属国群はともかく、デーン王国の介入は厳しいか。嫌なタイミングで仕掛けてきたものだ)
アルベルトは内心で冷たく分析した。
フラリン王国の属国群(フリーランス王国など)にとって、緩衝地帯であるリューベックが帝国に呑まれることは直接的な脅威となる。そのため、彼らは本気で支援に動く可能性が高い。
しかし、北方の覇者たるデーン王国は違う。当面、帝国が狙うのは対フラリンの国境線であり、デーンは直接の脅威に晒されない。むしろ帝国とフラリンを削り合わせるために静観する手すらある。何より、デーン国王スヴェン一世は高齢で後継者問題を抱えており、大国との戦争に踏み切る余裕などないはずだ。
(交渉で時間を稼ぎつつ、同時に戦の準備を整える。……フラリン陣営への根回しも急務だな)
アルベルトが頭の中で最善手を組み上げている間にも、円卓では「恭順派」と「交易死守派(親フラリン派)」による不毛な口論が続いていた。
「皆、少し落ち着け。ロアーヌ帝国はまだ要求を伝えてきたわけではない。『属国化』というのは、あくまで我々の最悪を想定した推測に過ぎないのだぞ」
アルベルトの言葉に、熱くなっていた重臣たちはハッとして口を噤んだ。宣戦布告ではなく、まずは会談なのだ。
「帝国大使の話を聞かねば何も始まらぬ。だが、最悪の事態にも備えておく必要がある。外務卿」
「はっ」
ラーセン侯が姿勢を正す。
「我が国に駐在するフラリン大使に事態を急報し、フラリン王国本国への支援要請を打診せよ。属国群に個別に当たるより、宗主国を通す方が確実で早い。同時に、デーン王国――特に南部のユグド半島諸侯への非公式な根回しも進めておけ」
「御意」
外務卿が恭しく頭を下げると、アルベルトは残る者たちを見据えた。
「軍務卿、ならびに諸侯は直ちに軍の動員準備に入り、不測の事態に備えよ。内務卿は軍需物資の集積を急げ。無用に終わる可能性もあるが、備えぬわけにはいかない」
「「御意」」
会議室に重厚な返答が響き渡る。
「では、本日の会議はこれまでとする。各自、速やかに取り掛かれ」
重臣たちが足早に退室していく中、アルベルトは深く息を吐き、重い背もたれに身を預けた。
その時、彼の幼馴染であり絶対的な腹心である侍従武官のエミリア・レーベンが、足音もなく傍らに進み出た。
アルベルト様。お疲れのところ申し訳ありませんが、追加の報告を。……国境付近のピルイン公領にて、帝国の常備軍の一部が『演習』の名目で展開を始めたとのことです。明らかに、二十一日の会談を見据えた示威行為かと」
「懐柔か、あるいは軍事力による平定か……。向こうの腹は決まっているというわけだ」
アルベルトは目を閉じ、指先でこめかみを押さえた。
「我々に残された道は、綱渡りの交渉しかないか。……窓を叩く風が、いよいよ冷たくなってきたな」
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