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第3話 執務室の暗闘――旧体制の父と、北を見据える氷の令嬢

 聖歴一〇五六年、十月五日。

 婚約破棄の騒動から約四ヶ月が経過した、秋の深まりを感じる頃。アリシアは父サイラスの書斎に呼び出されていた。


 重厚なオーク材の机越しに、サイラスは探るような視線を娘に向けながら口を開いた。

「アリシアよ。お前の新たな縁談の話がまとまりそうだ。まだ正式な決定ではないが、近く向こうの大使との交渉に入る」


 その言葉を聞き、アリシアは書斎の机に広げられたナーロッパ全土の羊皮紙の地図を一瞥し、静かに口を開いた。

「かしこまりました。このタイミングでの縁談……となれば、お相手はリューベック王国のアルベルト王太子殿下ですね?」


「ほお。何故そう思う?」

 サイラスは興味深そうに、そして試すような視線を娘に向ける。


「簡単な消去法ですわ。まず、帝国内の有力貴族には現在、私の相手となる適齢期の空きがありません。それに加えて、私は先の一件で『傷物』として忌避されております。となれば、必然的に相手は他国の王族か大貴族に限られます」


「なるほど。しかし、何故数ある国の中からリューベック王国だと思ったのだ?」

 父がカップに口をつけながら先を促す。


「西に目を向ければ明らかです」

 アリシアは白魚のような指先を伸ばし、地図の西方、アストゥリウ王国とフラリン王国の国境線をなぞった。

「フラリン王国がアストゥリウの内戦に武力干渉した以上、彼らがアストゥリウを事実上の属国として飲み込むのは時間の問題。後顧の憂いを断ったフラリンは、必ずや東方に進出し、我がロアーヌ帝国と戦端を開くはずです」


 アリシアも自身に用意されたカップを手に取り、思考を加速させる。

「ですが、フラリン・帝国間の国境には強固な要塞群が連なっており、正面からの侵攻は容易ではありません。ならば、フラリンがアストゥリウを完全に平定するまでのタイムラグを突き、帝国は北方の小国群を勢力下に収めて決戦に備えるはず。帝国の戦略がそう定まるのは必然です。そして――」

 アリシアの指先が、北方の要衝へと滑る。

「リューベック王国は、海路、陸路、河川のすべてが交差する北方の要衝にして、巨大な財力を有する交易国家。帝国が北方を抑えるなら、絶対に掌握せねばならない心臓部です」


 無論、帝国とリューベックとでは根本的な軍事力に大差がある。軍を用いて蹂躙することも可能だろう。だが、リューベックには莫大な財力がある。傭兵を大量に雇い入れて徹底抗戦されれば、帝国軍は思わぬ出血を強いられ、北伐の足並みが乱れる。そうなれば他国の介入さえ招きかねない。だからこそ、武力侵攻の前に『懐柔政策(政略結婚)』を仕掛けるのだ。


「……見事だ」

 サイラスは深い感嘆の息を吐き、苦笑を浮かべた。

「では、何故この縁談に、我がピルイン家からおまえを出すのかも分かっておるな?」


「これ以上、シュタデーン公の勢力拡大を許すわけにはいかないからでしょう。この北伐は、我々ピルイン家がなんとしても主導権を握らねばなりません。さもなくば、帝国北部の覇権は完全にシュタデーン家のものとなります」


 アリシアは父の称賛に小さく頷き、しかしすぐにその怜悧な翡翠色の瞳を地図の西方――アストゥリウ王国領へと向けた。

「とはいえ、気になる点が一点。リューベックを傘下に収める以前に……もし仮に、西のアストゥリウにて反乱軍を率いる『親殺しの簒奪者』フェリオルが、フラリン軍を打ち破るような事態が生じた場合はいかがなさるおつもりですか?」


 アリシアの問いかけに、サイラスは不愉快そうに鼻で笑った。

「あの狂犬のことか? ふん! 何をたわけたことを。現在、フラリン王国とフェリオルの賊軍とでは兵力差で言えば三倍近い開きがあるのだぞ! 三倍だ! そのような圧倒的な戦力差を覆すなど、常識的に考えて不可能。あれは身の程を弁えずに秩序を乱す、ただの匹夫に過ぎん。夢物語を語るのも大概にせよ」


 サイラスはそう切り捨てると、手元のカップを呷った。

 中身は南方の異教徒の地で生産され、密貿易商人を通じてのみ取引される希少な黒い水――『コーヒー』だ。選帝公家の並外れた財力と、教義の建前よりも実利を優先する北方の気風を象徴するようなその冷めた液体を喉に流し込むと、サイラスは話を戻すべく咳払いを一つした。


 アリシアはその嘲笑に何も答えず、ただ静かに地図を見つめていた。

(父上は『賊』と蔑むが、彼はすでに旧体制を実力で打ち砕いた事実上の『アストゥリウ王』。忌むべき簒奪者……いいえ、この停滞した歴史を強引に推し進める、恐るべき破壊者にして変革者)

 確かに、兵力差という旧来の『常識』からすれば、フェリオルの勝利は限りなくゼロに近いだろう。だが、その常識すらも、あの怪物には通用しないのではないか。

 そんな一抹の不安――あるいは、新時代を切り開く嵐に対する仄かな敬意が、彼女の胸中に静かに芽生えていた。


「……ともかくだ」

 サイラスは話を戻すと、アリシアをまっすぐに見据えた。その瞳には、大貴族当主としての冷徹な厳しさが宿っていた。

「リューベックに嫁いだ後はな。政治や軍事の話に決して口を出すな。それが貴族の女というものだ。おまえの役割はただひとつ。リューベック王家との間に世継ぎを産み、アルベルトの妻として奥向きをしっかりと統治すること。それだけだ。妙な知恵は不要。分をわきまえよ」


 それは命令であり、呪いであった。

(選帝公の娘として、夫となる人を支えるため、血の滲むような努力で政治や軍事を学んできたというのに。結局はただの『子供を産む道具』として扱われるだけなのですね)

 アリシアは胸の内で湧き上がる言いようのない悔しさを必死に押し殺した。これまで磨き上げてきた知識も洞察力も、結局は「女の分際で口を挟むな」という旧体制の壁の前では無力なのか。その屈辱感と虚脱感は凄まじいものがあった。


 だが、アリシアは決して弱さを露呈しなかった。表情は氷のように冷たく整えられたまま、ゆっくりと頭を垂れる。

「承知いたしました。お父様の仰せのままに致します」


 その言葉は完璧な臣従の意思表示であった。しかし、彼女の内心には冷たい決意が静かに燃え上がっていた。

(……今はこの檻に甘んじましょう。ですがいつか必ず、私は私の足で立ちます。そのためには、北の大地で何ができるか。よく見て、よく考えておかねば……)

 リューベック王国への輿入れは遠い北への旅路。そこでは新しい風が吹くかもしれない。アリシアはその未知なる風の中にこそ、活路があるかもしれないと密かに期待を寄せ始めていた。


「承知いたしました。ですがお父様、もし『次の使い道』が見つからぬ時は……修道院にでも参りますわ。世俗の煩わしさとは無縁の場所の方が、この身には相応しいかもしれませんので」

 アリシアが平然と付け加えた皮肉に、サイラスは鼻白んだ表情を見せたものの、もはや興味を失ったように机上の書類へと視線を落とした。

「左様か。心得ておくのだぞ。では下がれ」


 執務室を辞去し、薄暗い廊下を歩きながら、アリシアは北を見据えた。

(ハーベンブルク公との協調は上手くいくでしょうが、果たして古いやり方で、あのシュタデーンの牙や、西から吹く嵐を防ぎきれるかしら。……見物ですわね)

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