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第2話 執務室の暗闘――旧体制の父と、北を見据える氷の令嬢

 聖歴一〇五六年、六月十八日。

 婚約破棄の翌日、アリシアが自室で読書をしていると、父サイラスから呼び出しがあった。

 時計を見ると十時を回った頃だった。

 おそらく昨日の一件だろうとあたりをつけ、彼女は父の執務室へと赴いた。

 重厚なマホガニーの扉を開けると、待ち構えていた父サイラスは分かりやすく激昂していた。


「この馬鹿娘が! 一体どう責任を取るつもりだ!? ピルイン家の顔に泥を塗られたのだぞ!」


 怒声が室内の空気を震わせる。サイラス・ピルイン。帝国三公の一翼を担うこの男は、その武勇と苛烈な性格で知られている。アリシアは己のこれまでの行いを反省し、ひたすら後悔しているような『殊勝な令嬢』の態度を装い、無言で父の怒りをやり過ごした。

 反論しない娘を見て少し毒気を抜かれたのか、サイラスは大きくため息をつき、分厚い拳を執務机に叩きつけた。


「まあ良い。ケハルディン侯のあの阿呆どもには報復せねばならん。場合によっては、我が自ら兵を率いて領地ごと踏み潰してくれるわ!」

 その武力至上主義の極みのような発言に、アリシアは内心で(やはりそう来たか)と嘆息しつつ、静かに口を開いた。

「それは、お止めになった方が宜しいかと存じます」


「なんだと? そなた、この父に意見するか?」

 サイラスの赤銅色の顔がさらに紅潮し、額の青筋がくっきりと浮き上がった。鍛え上げられた巨躯から発せられる威圧感は、並の人間であれば容易く萎縮してしまうほどのものであった。しかし、アリシアは微塵も臆することなく、父の怒号を受け止めた。


「ケハルディンの領地を踏み潰す。それは容易いことのように思われるかもしれません。ですが、その背後にはシュタデーン選帝公の影がちらついております」

 アリシアは淡々とした口調で続けた。それはまるで盤上の戦況を読み上げるかのような冷静さであった。

「シュタデーン家は、すでに東方のベルガ王国を事実上その手に収め、さらにはモスク王国、ナビア王国と非公式に協調し、ポトランド王国の分割を着々と進めて領地を急速に拡大しております。誰の目から見ても、今もっとも勢いのある陣営。まともにぶつかれば、こちらが――」


「シュタデーンが糸を引いていることぐらい分かっておる!」

 サイラスは苛立たしげに言葉を遮った。

「だが、奴らは東部で未だに大きな火種を抱えている! こちらに全力を割けるはずがないのだ!」


 (まだそんなことを言うとは……よほど頭に血が上っているのかしら)

 アリシアは内心で嘆息した。サイラスは有能だが、己の願望が混じった古い情報に縋っている。

「父上。シュタデーン公は、すでに東部を当面安定させたのだと思われます。でなければ、中央にちょっかいをかけてくるはずがありません。まだ東部が混乱しているというのは、あちらが流した偽情報でしょう。直ちに優秀な諜者を放ち、探りを入れるべきかと存じます」


 アリシアの容赦のない指摘に、サイラスの勢いが鈍った。

「そんな馬鹿なことが……いや、あり得ない話ではない、か」

 理性の声が勝ったのか、サイラスは分厚い手で顎を撫でた。武力による報復は短期的な快楽にしかならず、長期的にはピルイン家の地位を危うくする。

「しかし、ならば本格的にハーベンブルク公と共同歩調を取らねばなるまいか」


「ハーベンブルク公と手を組む機会を得られた現状は、シュタデーン公の影響力拡大を抑えるという点において、私がケハルディン家に嫁ぐよりもはるかに効果的と愚考いたします」

 アリシアは迷いなく答えた。


「……良かろう。確かにシュタデーンを野放しにするわけにはいかん。だが貴様」

 サイラスは再び鋭い視線をアリシアに向けた。

「貴様のせいでピルイン家の面子が潰されたということを忘れるなよ。貴様はこの件で『傷物』となった。次の『使い道』……新たな縁談が決まるまでは屋敷の奥で息を潜めておれ。不用意な行動は許さん」


 その言葉には、政略の道具としての価値が損なわれたことへの不満と、次なる取引材料としての冷徹な計算が込められていた。

(私が婚約者の心を繋ぎ止められなかったのは事実。けれど、シュタデーン公に付け入る隙を与え、その蠢動を見逃していたお父様にも責任はおありでしょうに)

 アリシアは内心で反論したが、それを口にすることはなかった。表面上は従順を装って小さく頭を下げる。


「承知いたしました。ですがお父様、もし『次の使い道』が見つからぬ時は……修道院にでも参りますわ。世俗の煩わしさとは無縁の場所の方が、この身には相応しいかもしれませんので」

 その言葉には明らかな棘と、皮肉の響きが含まれていた。サイラスは鼻白んだ表情を見せたものの、それ以上は追及しなかった。もはや話すべきことは全て終わったと言わんばかりに、彼は鷹揚に手を振ってアリシアに退席を促した。


 執務室を辞去し、薄暗い石造りの廊下を歩きながら、アリシアは冷ややかに目を細めた。

(ハーベンブルク公との協調は上手くいくでしょうが、果たして古いやり方で、あのシュタデーンの狼の牙を防ぎきれるかしら。……見物ですわね)

 感情は捨て置き、ただこの厳しい帝国政治の荒波を生き抜くための最適解を導き出す。思考はすでに、まだ見ぬ次なる盤面へと向かっていた。


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