第1話 婚約破棄の夜会――冷徹なる令嬢は盤上の駒を嗤う
聖歴一〇五六年、六月十七日。
ナーロッパ中央に覇を唱える超大国、ロアーヌ帝国の皇帝ハインリヒ三世の六十七歳を祝う夜会において、事件は起きた。
豪奢なシャンデリアの光が降り注ぐ広間の中央。アリシアの婚約者であるケハルディン侯嫡男、ロベルト・ケハルディンは、隣に見目麗しいご令嬢を侍らせていたのである。
アリシアから見て、ロベルトはそこまで優秀な男ではないと評価していたが、まさかここまで愚かだとは思っていなかった。公の場で婚約者――それも帝国三公の筆頭格であるピルイン選帝公の令嬢であるアリシアを蔑ろにするなど、政治的に見れば正気の沙汰ではない。
彼がワイマー伯爵家のリリーナ嬢と関係を持っていることは、アリシアも薄々察してはいた。だが、それでも公の場でこのような暴挙に出るとは予想外だった。
アリシアの視線に気づいたのか、ロベルトはリリーナ嬢を腕に絡めたまま、勝ち誇ったような足取りでこちらへ向かって歩き始める。
「アリシア、紹介しよう。リリーナ嬢だ」
リリーナ嬢はアリシアの近くに来ると、さらにロベルトへ身を寄せるようにした。豊かな胸元を、これ見よがしに男の腕に押しつけている。その媚態はひどくあざといものだったが、アリシアは(ああやって彼の自尊心を満たし、心を掴んだのか)と、まるでチェスの盤面でも見るかのように、他人事として冷徹に観察していた。
「君の相手をしている暇はない。今日をもって、アリシア嬢との婚約は破棄させてもらう」
「アリシアよ。君との婚約は白紙に戻す。私はリリーナ嬢を選んだのだ!」
ロベルトの声は広間に響き渡り、周囲の喧騒が一瞬にして静寂に変わった。衆人環視の中での宣言。これほどまでの無礼を働くということは、すでに彼の中で退路は断たれているのだろう。あるいは、背後にいるであろうシュタデーン派からの確固たる支援があるという自信の表れか。いずれにしても、愚かな選択であることには違いない。
アリシアはわずかに眉を動かしただけだった。内心では、目の前で繰り広げられる茶番劇に対する軽蔑と、この事態が帝国北方の勢力均衡に与える影響についての冷静な分析が渦巻いていた。
(さて、どうしたものか。父上は激怒されるだろうな。あの御仁は武を好みすぎる)
思考は既に戦略レベルに達している。ロベルト一人の愚行ならば問題は少ない。しかし、その背後にあるのは北東部の雄、シュタデーン選帝公家だ。彼らが本腰を入れて動き始めたとなれば、これは由々しき事態である。
「理由を聞かせてもらえるかしら? それなりの覚悟があってのことでしょう?」
アリシアの声は氷のように冷たく澄んでいた。感情の欠片もなく、ただ事実確認を求めているだけだ。
「理由だと! 聞くまでもあるまい! 君のその氷のような性格、そして男を立てようとしない傲慢さだ! 女というのはもっと謙虚で、美しく咲く薔薇のように愛でられていればよいのだ! だが君はどうだ? いつも仮面のような顔をして、私に対して敬意の欠片も見せぬ!」
唾を飛ばさんばかりに捲し立てるロベルト。その瞳には怒りと共に歪んだ優越感が宿っていた。自らの選択が正しいと信じ込み、相手を貶めることで正当化しようとしている典型的な愚者の姿だった。
「それに比べてリリーナは! 真の淑女とはこういうものだ。常に柔らかな微笑みを忘れず、私の傍らで可憐に咲いている。彼女の美しさこそが真の価値なのだ!」
そう言ってロベルトは、今度は両腕でリリーナ嬢の華奢な体を強く抱き寄せた。リリーナ嬢は嬉しそうに頬を染め、潤んだ瞳でロベルトを見上げている。その演技は完璧で、周囲からは
「おお……」
といった溜息にも似た声が漏れた。まるで悲劇のヒロインとその騎士を演じているかのようだ。
アリシアは、そんな二人の様子を冷めた目で観察していた。
(なるほど。そういう筋書きか。私が冷酷非道な悪役で、彼女が虐げられる乙女というわけね。舞台劇なら確かに受けそうだ)
彼女の思考は依然として盤上の駒を見定めるそれであった。ロベルトという駒は敵方に落ちた。そしてその隣にいるリリーナ嬢もまた重要な駒。その価値と影響力を正確に測る必要があった。
「それで? ケハルディン侯爵家としては、この破談がどのような利益をもたらすと考えているのです? まさか、侯爵やそちらのワイマー伯爵が、帝国三公たるピルイン家との同盟を反故にすることを許しはしないでしょう?」
アリシアの問いは鋭かった。カマをかけたのだ。これはロベルトだけでなく、この場に集う全ての貴族に対して投げかけられている質問でもあった。
ロベルトはアリシアの冷静な切り返しに一瞬言葉を詰まらせたが、すぐに勝ち誇ったように顔を歪ませた。
「思い違いも甚だしいな! すでに父上からは婚約破棄の許可を得ている! そしてこの夜会前にワイマー伯にもご挨拶にうかがったが、私とリリーナ嬢の関係を祝福してくださったぞ!」
(……ビンゴね)
アリシアは内心で冷笑した。ロベルト本人は恋愛の勝利だと勘違いしているようだが、ケハルディン侯は何の後ろ盾もなく選帝公に喧嘩を売るほど愚かではない。ワイマー伯の背後にいるシュタデーン選帝公と、すでに裏で話がついている動かぬ証拠だった。
彼を立派な当主にするため、陰で欠点を補い、支えるための努力をしてきた己の年月は何だったのか。そんな徒労感と落胆が一瞬だけ胸を過ったが、アリシアはすぐにピルイン公令嬢としての思考に切り替えた。
「そうですか。では、もう結構です」
アリシアは静かにそう告げると、スカートの裾を翻し、ロベルトに背を向けた。「正式にケハルディン侯から、我が父へ婚約破棄の通告を送ってください」
「待て! このまま黙って帰れると思うなよ! 君の横柄な態度には我慢ならん!」
背後から響く罵声に対し、アリシアは一度だけ振り返り、氷よりも冷たい眼差しを向けた。
「あなたこそ、ご自分の行動がどういう結果を招くのか、よくよくお考えになることです。……いずれ、この場にいる皆さまにも、今回の愚挙の責任の一端が及ぶかもしれませんわ」
その言葉は警告であり、同時に帝国北方全域への宣戦布告でもあった。夜会の参加者たちは固唾を飲んで成り行きを見守っている。急ぎ足で会場を抜け出す者たちの姿も見えた。事の重大さに気づき、自派閥の長へ報告に走るのだろう。
アリシアはもう何も言うことはないとばかりに踵を返し、静かに会場を後にした。
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