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第7話 ラーンベルク夜襲戦(上)

 聖歴一〇五六年、十月二十二日。

 月が分厚い雲に隠れ、広野は底知れぬ闇に覆われていた。

 高地に布陣するフラリン軍の本営は無数のかがり火に照らされていたが、そこに戦場特有の緊張感は微塵もない。陣中らしからぬ、ひどく浮ついた腐臭が漂っている。


 無理もない。フラリン軍本隊の将兵の大半は、早々に勝利を確信し、近隣の都市や村へ略奪に出かけていた。陣中に残る者たちも、略奪品を片手に酒を煽り、連行してきた女たちを集団で犯して嬌声を上げている。

 本来それを窘めるべき国王や将軍たちすらも、自らの天幕に女を引き込んでいた。絶対的な数の暴力(六万)と、「敵主力が要塞に引きこもっている」という安心感が、軍の規律を完全に腐らせていたのだ。


 その高地に向かって、暗闇の中を無数の男たちが這うように進んでいた。

 闇に溶け込む漆黒の甲冑を纏った一団――フェリオル直属の精鋭『黒旗軍』である。

 軍事行動において極めて困難とされる「夜間の無音行軍」でありながら、指揮官はおろか一兵卒に至るまで、誰一人として私語や足音を立てない。その異常なまでの静寂こそが、給与を与えられ過酷な訓練を積んだ『完全常備軍』としての、厳正な規律と狂気的な練度を証明していた。


 黒い縦隊の中央。ひときわ屈強な騎士たちに守られながら、馬を進める青年がいた。

 兜からこぼれる少し長い紫髪を夜風になびかせる彼こそが、アストゥリウの簒奪王、フェリオル・オーギューストである。


「フェリオル陛下」

 一人の騎士が青年の前で下馬し、音もなく片膝をついた。

「黒色猟騎兵大隊より報告。敵が放った斥候はすべて我々が処理いたしました。……本営近辺にもかかわらず、敵はろくに見張りを立てておりません。捕らえた敵兵の話によれば、『フラリン軍に怯えた人質の小倅は、王宮で震え上がっている』と……あっ」

 報告した騎士の顔がサッと青ざめた。敵の言葉をありのままに伝え、敬愛する主君への不敬な罵倒を口にしてしまったことに気づいたのだ。

「ご、ご無礼を……!」


 うろたえる騎士に、フェリオルは優しげな微笑を向けた。

「よい。確かに我はかつて、人質としてフラリンに差し出されていた身だ。……しかし」

 その微笑が、冷酷な捕食者のそれへと変わる。

「今夜、フラリンの大軍はその『人質の小倅』に粉砕されることになる」


 間髪入れず、フェリオルは死神のように命を下した。

「リカルド・アノー。そなたの軍団五千を率いて、南側からの先陣を務めよ」

「御意!」

 武人の名誉を与えられ、リカルドと呼ばれた若い軍団長が凶暴な笑みを浮かべて頷く。

「残る三千は我が直率する。展開を終え次第、アノー軍団の角笛を合図に突撃だ。……今より、一切の略奪を禁じる」


 紫髪の青年は、将兵から戦う動機を奪うに等しい命令を下した。

 この時代の軍隊は、寄せ集めの傭兵や平民が主である。彼らの士気を維持する唯一の報酬が「戦勝後の略奪」だった。それを禁じるのは、通常の軍であれば崩壊を意味する。

 にもかかわらず、ただの一人も不平を漏らす者はおらず、黒旗軍の兵士たちはむしろ静かな闘志をみなぎらせていた。立身出世を夢見る彼らが、どれほどこの若き王のカリスマに心服しているかが窺える。


 フェリオルは、馬上でゆっくりと剣を抜き、高々と掲げた。

「よいか。我らの狙いはただ一つ。フラリン軍を撃滅し、フラリン国王の首を獲ることだ」

 紫色の瞳が、苛烈な光を放つ。

「我が命に背く者は、いかなる武功を立てようと罪人として処刑する!」

 そう言い放ち、フェリオルが剣を振り下ろそうとした、その瞬間だった。


 空を厚く覆っていた雲が唐突に切れ、月光が広野を照らし出した。

 いかなる自然の悪戯か。天から差し込んだ一条の光は、フェリオルの振り下ろした剣先――すなわちフラリン軍本営への道を、くっきりと照らし出していた。


 まるでテンプレ教の神が、「侵略者を打ち払え」と告げているかのように。

 アストゥリウの兵たちは、その神々しい光景に息を呑んだ。


 父と兄を殺して王位を奪い、教皇から破門されたフェリオルは、神など微塵も信じていない男だ。だが、この絶好の舞台装置を見逃すほど、彼は無能ではなかった。

「見よ! テンプレ神は我々に進路を示された!」

 フェリオルの張りのある声が、夜気に響き渡る。

「神の導きに従い、勝利の道を進め!!」


 漆黒の軍勢に、狂熱の陶酔が走った。

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