第26話 【月光の下で交わされる二つの論理――底知れぬ深淵を覗く男と、感情を否定する劇薬の令嬢】
華やかでありながら、ひどく神経をすり減らす晩餐会であった。
自室に戻ったアルベルトは、小さく息を吐きながら上着を脱いだ。すかさず背後に控えていた従者のエミリアが進み出て、それを受け取る。
「お疲れ様でございました、殿下。……それで、ロアーヌ帝国から参られた新たな婚約者殿の印象は、いかがでしたか?」
気心の知れた側近の問いかけに、アルベルトは椅子に深く腰を下ろし、ワインで微かに熱を持ったこめかみを指先で揉みほぐした。
「……息を呑んだよ。今まで見た事がないほどの、絶世の美人だった」
アルベルトの率直すぎる賞賛に、エミリアは少しだけ目を丸くした。氷の摂政と呼ばれる主君が、手放しで女性の容姿を褒めるなど珍しいことだったからだ。
「では、素晴らしいご縁でしたね」
「いや。……だが、あの令嬢はあまりに隙がなく、完璧すぎた。あれでは、かえって気が引ける」
アルベルトは天井を仰ぎ、先ほどの晩餐会の記憶を辿る。
「探りを入れてみたのだ。帝国で勢力を拡大しているケハルディン侯爵家の話題から、彼女の元婚約者に関する情報や感情を引き出そうとした」
アルベルトの声には、僅かな悔しさが滲んでいる。
「だが見事に躱された。表情一つ変えず、『刺繍ばかりしていました』『ご縁がなかった』と儚げな微笑みで切り返してきた。……しかもその直後には、ごく自然に話題を郷土料理へと転換させてきた。あの咄嗟の対応力と場の空気を読むセンス、間違いなく只者じゃない」
エミリアはアルベルトの苛立ちを察しつつも、慎重に言葉を選ぶ。
「では……やはり何か致命的な欠陥が?」
「おそらくは違う。むしろその逆だ」
アルベルトは冷徹な眼差しで断言した。
「あの底知れぬ聡明さ。あのように完璧な受け答えができる令嬢が、格下の男から瑕疵をつけられるはずがない。となれば、原因は彼女自身の性格や頭の悪さではなく……もっと大きな、マクロな政治的事情があったと見るべきだろう」
例えば――。
アルベルトの鋭い視線が虚空を捉える。その脳裏には、帝国の複雑怪奇な政争地図が広がっていた。
「あのケハルディン侯爵家は、シュタデーン公家とも縁戚関係にあったはずだ。ここ数年の帝国情勢を見る限り、急速に勢力を拡大するシュタデーン公と、選帝公家の間で微妙な緊張関係が生じている可能性がある。その権力争いの煽りを受け、政治的な駒として婚約を破棄されたという仮説も成り立つな」
エミリアが小さく息を呑む音が聞こえた。主君が一度の晩餐会から、それほど深くまで読み解いていたとは。
「いずれにせよだ」
アルベルトは冷たい決意と共に、拳を軽く握りしめた。
「『彼女自身の欠陥ではない』とすれば……この結婚には、帝国における我がリューベックの立場を有利に操るための、別の重大な意義が出てくる。……引き続き、彼女の『裏』を探り続けなければならないな」
主君の鋭敏な推理と揺るぎない意志を聞き届けながら、エミリアは密かに思った。
(……殿下はあの美貌の令嬢に、ご自身が思っている以上に、関心を惹かれているようでございますね)
だが、その感情の正体について、賢明な従者は静かに口を噤んだ。
氷の摂政と、完璧な淑女の仮面を纏った天才令嬢。経済力だけはあるものの軍事基盤の薄いこの小国において、二人の間に、水面下の静かなる知略戦が幕を開けようとしていた。
*
一方で、ホルステン宮殿の客室へと戻ったアリシアもまた、重い礼装を解き、深い安堵の吐息を漏らしていた。
侍女のクリスが手際よくドレスの紐を解きながら、期待と不安の混じった面持ちで口を開く。
「……お嬢様。それで、アルベルト殿下の印象は、いかがでございましたか?」
鏡越しに自分を見つめるクリスに対し、アリシアは解かれた金髪を指先で弄りながら、淡々と答えた。
「そうね。今の所は……悪くないわ。少なくとも、話の通じない愚か者ではなさそうよ」
その言葉には感情の起伏が一切なく、まるで公文書に淡々と判を捺したかのような平坦さがあった。
クリスが少し眉をひそめながら、不満げに言葉を継ぐ。
「ですがお嬢様! 殿方は晩餐会であのような不躾な探りを! 私の耳にもしっかりと聞こえましたよ。『ケハルディン侯爵家の新たな動き』などと……まるで何か欠陥でも探しているかのような! リューベックの王太子殿下といえども、選帝公家に対してあまりに無礼ではありませんか!?」
若い侍女は主人の名誉が傷つけられたと思い込み、憤慨するように熱心に訴えかけた。
だがアリシアは背を向けたまま、梳かした髪を揺らしもせず言葉を返す。
「……それがどうしたと言うの?」
「えっ?」
「アルベルト殿下にとっては、先方も突然決まった縁談だと聞いているわ。事前の情報収集が充分にできておらず、どうしても私のような『突然現れた花嫁候補』について、ある程度の事情把握は必要でしょう。特に彼はこの国を背負う『摂政』よ。国を預かる身として、情報不足というリスクを放置することはできないわ」
アリシアの理路整然とした言葉は冷たく、感情の入る余地がなかった。
「ならばあの殿下の行為は、不躾どころか、むしろ統治者として至極合理的な判断と言えるわ。『花嫁候補』に致命的な瑕疵があれば、困るのは国を率いる彼自身だもの」
まるで、己の人格ではなく『政治の駒』としての機能を確認されたのだと、当然のように割り切る言葉。
クリスは呆気にとられた表情で口をぽかんと開けた。主の理屈は理解できるものの、あまりにも冷徹すぎて納得がいかない。侍女はなおも必死に食い下がった。
「で、でもお嬢様! このご縁談だって、何かの運命かもしれませんわ。せめて……その、好きになれそうかどうかとか、そういうお気持ちみたいなものは……」
その問いに、アリシアは漸く振り返った。
月光を浴びて磨かれた宝石のように美しい顔立ちが、クリスを真っ直ぐに見つめる。だがその蒼穹の瞳は凍てつき、温度をまったく感じさせなかった。
「……何を言っているの、クリス」
一拍の間を置き、アリシアは窓際に寄りかかりながら、静かに、だが断固とした声音で言った。
「王侯貴族の結婚は――『政治』そのものよ」
彼女の視線が、眼下に広がる王都リュベルの街並みへと移る。夜景には商館の明かりや造船所の篝火が灯り、この小国が驚異的な水運と交易によって蓄積してきた、莫大な富が暗闇の中に浮かび上がっていた。
「そこに個人的な愛情や、感情などという脆弱なものを持ち込む余地はどこにもないわ。互いがそれぞれの国家に対する義務を果たし、互いに最大の利益をもたらし合う。それだけで十分ではないかしら」
アリシアは軽くため息をつくと、小さく肩をすくめた。
「そもそも、私たち二人とも……愛なんていう不確かな感情にうつつを抜かしている暇など、最初から持ち合わせてはいないのでしょう?」
それはまるで、自分の人生を遠くから眺める他人事のように聞こえた。
クリスは侍女として主の辛辣さには慣れ親しんでいたものの、あまりにも達観し、冷めきったその言葉に、今度こそかける言葉を失った。
沈黙の中で、静かに夜は更けていく。
豪華な調度品が並ぶ客室の窓際で、アリシアは一人、リュベルの灯りを見つめ続けていた。
(……さて。この結婚が一体どういう形で進むか。そしてあの氷の摂政が、私という存在をどこまで読み解いてみせるか)
氷のような美貌の奥で、その鋭敏な知性は絶え間なく回転している。彼女の胸には恋慕の情など一片もなく、ただ、来るべき「義務」をどう履行し、リューベックという国をどう動かしていくかという打算のみが、仄暗い夜の底で静かに渦巻いていた。
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