第27話 【試金石への完璧な逆襲――世界最高権威の「自爆」を予見する、極上の知略戦】
聖歴一〇五六年、十一月二十二日。
前夜のヒリヒリとした緊張感の余韻を残したまま迎えた、ホルステン宮殿の昼食室。午前の政務を終えたアルベルトは、アリシアと向かい合って席に着いていた。
交易によって莫大な富を蓄積しているリューベック王国らしく、小国ながらも食卓に並ぶ皿は洗練されていた。だが、給仕たちが一通り下がり、室内に二人だけの静寂が訪れたその時、それまで優雅にカトラリーを動かしていたアリシアが、ふと手を止めた。
その蒼穹の瞳が、真っ直ぐにアルベルトを見つめ返す。
「……アルベルト殿下。一つ、お尋ねしたい事があるのですが、宜しいでしょうか?」
彼女の真剣な眼差しと、どこか芯の通った透明な響きを持つ声音に、アルベルトは内心で僅かに身構えた。しかし、氷の摂政と称される男がそれを表に出すはずもない。アルベルトは表情一つ変えず、静かに先を促した。
「何でしょう?」
「殿下は……政務や軍務など、本来は殿方が担うべき国政の場に、女性が口を出すことについて、どう思われますか?」
「……は?」
あまりにも唐突で、かつこの旧体制の貴族社会においては異端とも言える質問に、アルベルトは一瞬だけ言葉を失った。しかし、アリシアの射貫くような視線を受け止め、すぐにリューベックの最高権力者としての理性を引き戻す。
「そうですね。古い貴族の常識や一般論に照らし合わせるならば、それは問題視されるでしょう。……しかし、私自身は構わないと思っています。超大国ロアーヌや大国フラリンならともかく、我がリューベックのような小国には、有益な意見の出所を性別や出自で選り好みしている余裕など微塵もありませんので」
使えるものは何でも使う。それが、常に薄氷を踏む思いで国を預かってきたアルベルトの、冷徹な現実主義が生み出した本音であった。(ただし、それが程度を弁えない浅薄な口出しであれば、早々に黙ってもらいたいが)という辛辣な本心を胸の奥に隠しながら、アルベルトは目の前の少女の反応を窺った。
その答えを聞いた瞬間――。
アリシアの口元が、微かに、しかし確実に緩んだ。まるで、長い間仕掛けられていた罠を完璧にすり抜け、自ら主導権を握った捕食者のように。
「……なるほど。小国の現実に基づいた、至極明晰なお答えですわね、アルベルト殿下」
彼女の表情から、昨晩まで張り付いていた「無知でお飾りの花嫁」という分厚い仮面が、音を立てて崩れ落ちていく。その氷の面差しの奥で、燦然と輝く底知れぬ知性が一気に表舞台へと引き摺り出された。
「先ほどのお尋ね……これは、私から殿下への『返答』でもありますわ。殿下が昨晩から仕掛けられていた不躾な探りに対し、いつまでも無意味な腹の探り合いを続けるのは不毛ですから、こちらから答えを差し上げに参りました」
「……そこまで、お見通しでしたか」
流流に露骨すぎたか、とアルベルトは内心で苦笑を浮かべた。自らの非を認めて肩をすくめる王太子に対し、アリシアはさらに上品で、どこか挑発的な笑みを深める。
「ええ、少々お顔に出すぎでしたわ。その辺の、着飾ることや夜会にしか興味のない凡庸な令嬢が相手ならば、一生気づかれなかったかもしれませんが」
アルベルトは、彼女の言葉の不遜さに眉をひそめるよりも先に、奇妙な感心の念を抱いていた。(言葉選びこそプライドが高そうに見えるが……これは私への忠告であり、同時に信頼の表明か。私が露骨だったという事実を、これほど正確に突いてくるとは)
「もう一つ、その質問をした理由があります」
アリシアはさらに言葉を重ねる。
「殿下がどのような結婚相手を……いえ、どのような『妃』を望んでおられるのか、確認したかったのです。殿下のお望みに合わせるつもりでしたので。……今回の縁談がもし破談となれば、私は実家によって修道院へ幽閉される運命にあります。選帝公家の娘が下級貴族や有力商人に嫁ぐことを、父サイラスが許すはずもありませんからね。私は、これでも贅沢を言える立場ではないのですわ」
「なるほど……」
アルベルトは深く頷き、顎に右手を当てた。格下のケハルディン侯爵家から婚約を破棄され、小国とは言え王妃になれる最後の好機をも潰したとなれば、公爵家が彼女を世間から隠すために修道院へ送り込むというのは、貴族社会の論理として極めて自然な流れだった。(老齢の大貴族の後妻ならまだ需要はあるだろうが、この聡明な令嬢がそれを拒んだのかもしれないな)と、アルベルトは胸中で計算を弾く。
だが、そんな憐憫はすぐに消し飛んだ。目の前に座る少女の佇まいが、あまりにも堂々としており、およそ「修道院へ追いやられる哀れな身の上」には見えなかったからだ。
アルベルトの冷徹な眼差しに、獰猛な光が宿る。
「……面白い。ならば、アリシア嬢。君のその本物の『識見』とやらを、私に試させてもらおうか」
アルベルトは身を乗り出し、このナーロッパの命運を分ける最大の難題を、十五歳の令嬢へと突きつけた。
「旧フラリン王国を電撃的に呑み込み、急速な台頭を見せる『簒奪王』フェリオルに対し、我が国やロアーヌ帝国は、どのような対策を取るべきだと見る?」
常人ならば言葉に詰まり、大局を見失う政治の深淵。しかしアリシアは、まるで最初からその盤面を上空から見下ろしていたかのように、淀みなく答えを紡ぎ始めた。
「フェリオル王を確実に打倒する好機は、『今』しかありません。ロアーヌ帝国はただちに全軍を動員し、決戦を挑むべきでした。……ですが、我が故郷である帝国の上層部は、おそらく『勢力均衡』などという生温い愚策を取るに違いありませんわ」
「愚策、ですか。しかし、フラリン王国という肥沃な大国を手に入れた以上、アストゥリウ王国の国力は単純な数字の上ではロアーヌ帝国を凌駕します。それならば、帝国が周囲の異教徒や異端と手を組んででも力の結集を図り、戦備を整えるというのも、防衛策としては間違っていないと思いますが……まあ、教皇庁との対立をどう対処するかという、新たな致命的リスクは発生しますけれど」
アルベルトの反論に対し、アリシアは白くて美しい指先を顎に添え、フッと鼻で笑った。
「確かに、フラリンを手に入れたアストゥリウの国力は、紙の上の計算では帝国を上回るでしょう。ですが殿下、思い出してください。フェリオル王は、先のラーンベルク戦を迎えるまで、アストゥリウ王国全土すら完全に平定していた訳ではないのです」
アリシアの蒼穹の瞳が、獲物を狙うハンターのように鋭く光る。
「フェリオル王に降伏したザマー教の諸国、未だ牙を隠しているアストゥリウ諸侯の大半、そして征服されたばかりの旧フラリン諸侯。彼らのすべてが、いつ爆発してもおかしくない不穏分子です。それを力ずくで従わせているのはフェリオル王の『武威』のみであり、それを支えているのが彼の絶対的直属軍――精鋭『黒旗軍』に他なりません。言い換えれば、黒旗軍さえすり潰すことができれば、あの簒奪王の政権は内部から容易に崩壊します」
アリシアは一息つくと、アルベルトに決定的な事実を突きつけた。
「そしてその黒旗軍は、アストゥリウ内戦、ラーンベルクでの激戦、さらには今回のフラリン本土への電撃侵攻により、兵も糧食も大きく消耗しているのです。今、彼らの回復を待つために『勢力均衡』などという時間を与えることこそが、最大の愚策。牙が最も鈍っている今こそ、叩き潰す唯一の機会ですわ」
「……なるほど。黒旗軍の消耗を狙うか」
アルベルトは絶句した。彼女の提示した情勢分析は、リューベックの諜報網が命がけで集めた情報と寸分違わず、かつその結論は極めて好戦的で合理的だった。最低でも彼女の意見を聞き、この知性を我が国に留めておくことは、リューベックにとって測り知れない国益になると確信した。
「アリシア嬢の言うことは至極尤もだ。しかし、帝国がその好機を逃し、勢力均衡策に傾けば、いずれ教皇庁との間に決定的な対立を生む。アストゥリウだけでなく、世界の信仰の中枢である教皇庁ともやり合うとなれば、帝国すら苦戦は免れない」
アルベルトがそう告げると、アリシアは優雅に首を横に振った。
「いいえ、殿下。対立が起きる前に、教皇庁はアストゥリウ王国と事を構えることになります。……そしてフェリオル王は、おそらく教皇庁が牙を剥いてくることを、自ら『心待ち』にしていますわ」
「……何だと? 簒奪王が、教皇庁との戦いを望んでいるだと……?」
アルベルトは内心で激しく動揺した。常識的に考えて、テンプレ教を奉る国家の王が、世界最高権威である教皇庁と好き好んで戦いたがるはずがない。
教皇庁が簒奪王に使者を派遣しようとしていることはアルベルトも掴んでいる。だがそれは、征服した異教徒の国を改宗させない代わりに、巨額の寄付(賄賂)を要求するいつもの宗教政治だ。フェリオルも「今後改宗を視野に入れます」と方便を並べ、金を掴ませて問題を先送りにするのが定石のはずだった。教皇庁と正面衝突しても、簒奪王には何の得もない。それが、ナーロッパの王侯貴族に共通する「常識」だったからだ。
「金を渡して問題を先送りにすれば、教皇庁の矛先はロアーヌ帝国へと向かう。それが分かっているのに、なぜ簒奪王は教皇庁と事を構えるというのだ? 彼には何の得もないはずだが」
「ありますわよ」
アリシアはゾッとするほど美しい微笑を浮かべた。
「世界最高権威である教皇の不条理な要求を撥ね退け、属国であるザマー教諸国の信教を、身を挺して守り抜いた。……その事実こそが、それら異教徒の属国から、絶対的な『信用と忠誠』を勝ち取るための最高の布石となります」
「……っ!」
「フェリオル王が属国たちの盤石な支持を取り付ければ、彼は後顧の憂いなく、全軍を東方――すなわちロアーヌ帝国への全力侵攻へ向けることができるようになります。たとえ背後で反発するアストゥリウ諸侯が挙兵したとて、忠誠を誓った属国たちの戦力を以て容易に平定できる。まあ、教皇庁と敵対しなかったたとしてて、その属国を隠れ蓑にすれば、南のアフリ大陸のザマー教国家との莫大な交易ルートを独占し続けることも可能ではありますが……」
アリシアは(これでも私の想像に過ぎないと仰るの?)と、流し目でアルベルトを捉えた。
「確かに、筋は通っている。……だが、教皇庁と決定的に戦う道を選べば、教会から『破門』される。その全否定の呪いを冒してまで、王が教皇との争いを選ぶだろうか?」
アルベルトの至極当然の疑問に対し、アリシアは首を横に振り、この世界の前提を覆すような一言を放った。
「恐れながら殿下。破門を下すのは『教会』でもなければ、ましてや『神姫』でもありません。……あれは、ただの『教皇』という一人の政治家が下す宣告に過ぎませんわ」
「だから、教皇庁から破門されるということは、テンプレ教会そのものとの絶縁を意味するのではないのか?」
「ええ、現状のシステムではそうですわね。……では、例えばフェリオル王が、アストゥリウ領内の教会組織を教皇庁から政治的に完全に切り離し、自らが宗教の首班となって『自分は引き続きテンプレ教の正当な信者である』と国内の教会に認めさせたら、どうなりますか?」
アルベルトの脳天に、凄まじい衝撃が走った。国家による教会の支配――「国家教会主義」の創設。それが実現すれば、教皇に破門されたとて、アストゥリウの国民にとっては破門の効力を持たなくなる。当然、教皇庁は激怒し凄惨な宗教戦争となるだろうが、簒奪王がそもそも教皇庁との決戦を望んでいるのなら、それは障害にすらならない。
だが、アルベルトはその策に潜む現実的な欠陥を指摘した。
「……しかし、果たして都合良く教皇庁から独立しようとする神官が現れるだろうか? 教皇庁の権威を恐れぬ者など、そうはいないはずだ」
「殿下のおっしゃることは分かりますわ」
アリシアの人形のように整った美しい顔には、絶対の自信があふれていた。
「ですが、父や兄を惨殺してまで王位を奪ったあの簒奪王の圧力の前に、アストゥリウの高位神官たちが命を賭して逆らえましょうか? 従わぬ強硬派を武威で粛清すれば、席を欲しがる欲深い神官などいくらでも湧いて出ます。そもそも……テンプレ教の神官たちが皆一様に教皇庁に忠実なのであれば、ナロテン派、ブス派、チーレム派、カルバンといった異端諸派が、この世に誕生しているはずがありませんわ」
アルベルトは息を呑んだ。その通りだ。神官全員が教皇庁に忠実なら、歴史上、異端の乱立など起きているはずがない。フェリオルの武威を以てすれば、アストゥリウ国内の教会を強引に掌握することなど十分に可能だ。
「確かに、可能性はある。……だが、それは簒奪王にとっても致命的な『賭け』だ。もし、教皇が自らの権威ではなく、最期の一線である『神姫』の名を用いて彼を破門すれば、その国家教会などという詭弁は一瞬で破綻する。神姫の言葉は絶対だ。どんな神官も国民も逆らえない。フラリンという富を手に入れた今、フェリオル王がそこまでの大博打に出るとは思えんが」
「私でも、そんな危ない賭けには出ませんわ。……ですが、フェリオル王は確実にその賭けに乗ります。なぜなら、見返りが大きすぎる上に、教皇側もその切り札を簡単には切れないからです」
「何だと……?」
「俗世に関わらないはずの『神姫』の号令を、教皇が自らの政治闘争のために直接引き摺り出せば、それは教皇庁自身の権威の完全な敗北――切り札の暴発を意味します。神姫の絶対性を安売りすれば、教皇庁というシステムの寿命を縮める。すなわち神姫による破門とは、簒奪王を滅ぼすが、同時に教皇庁をも致命傷に追い込む『相互確証破壊』の罠。……ナーロッパの覇権を狙うあの王は、教皇庁がその自爆の引き金を引けないと、完全に足元を見ているのですわ」
相互確証破壊の論理。
神の権威すらも盤上の数字として計算し尽くす簒奪王の恐るべき深淵。そして、それを遥か北方の昼食室から完全に看破してみせた、目の前の少女の異常な知性。
アルベルトは文字通り、息を呑んだまま言葉を失っていた。
氷の摂政と称される冷徹な男が、15歳の絶世の美女の底知れぬ頭脳の前に、生まれて初めて圧倒的な『畏怖』と、魂が震えるほどの強烈な『歓喜』を覚えさせられた瞬間だった。
「……半年もかからず、その予測の答え合わせができる。そういうことですか、アリシア嬢」
アルベルトが微かに声を震わせながら結論を口にすると、選帝公の至宝たる天才令嬢は、淑女の完璧な優雅さで、しかし勝者の如く誇り高く、ゆっくりと頷いてみせた。
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