第25話【息を呑む美貌と、微笑みに隠された絶対の拒絶――氷の摂政を惑わす「お飾りの花嫁」】
聖歴一〇五六年、十一月二十一日、昼下がり。
ピルイン選帝公家を示す豪奢な紋章を刻んだ馬車が、王都リュベルの市街地を抜け、ついに荘厳なホルステン宮殿のエントランスへと到着した。
リューベック王国の実質的な最高権力者である若き摂政王太子アルベルトは、居並ぶ重臣たちと共に、ロアーヌ帝国からの使節団を静かに出迎えていた。
最初に馬車から降り立ち、アルベルトの前に進み出たのは、ピルイン公サイラスの代理としてこの使節団を率いる嫡男、グレン・ピルインであった。
「リューベック王国の若き摂政王太子殿下。此度の国賓待遇、衷心より感謝いたします。私はピルイン公サイラスの嫡男、グレン・ピルイン。父である公爵に代わりまして、正式な婚姻手続きのために罷り越しました」
その声は朗々としていたが、どこか驕慢な響きを孕み、大国の嫡男としての余裕と傲りが滲み出ていた。
アルベルトはそれを鋭い眼光で一瞥すると、冷徹な公式の礼を返す。
「グレン・ピルイン公子。長旅ご苦労であった。貴国と我が国の友好のため、滞在中のいかなる便宜も図らせていただく。どうか安心して職責を果たされよ」
短く淡々とした歓迎の言葉に、グレンは僅かに鼻白んだが、すぐさま表情を取り繕うと軽く一礼し、背後に控えていた少女に目配せした。
最後に馬車から降りてきたのは――純白のドレスを身に纏い、透明な薄布のベールで顔を覆った一人の少女だった。
重臣たちの好奇と期待の視線が一点に集中する中、彼女はゆっくりと階段を下りると、アルベルトの前で優雅に跪き、流れるような仕草で深々と淑女の礼を取った。そして、何の躊躇もなくその可憐な手でベールの紐を解き、顔を上げた。
その瞬間――アルベルトの呼吸が、微かに乱れた。
息を呑むほどの美貌だった。
月光を溶かしたかのような透き通る白磁の肌。吸い込まれるような蒼穹の瞳。豊かに波打つ金色の髪が、陽光を受けて眩い黄金の瀑布のように輝いている。
表情はどこまでも慎ましやかで控えめでありながら、その双眸には凛とした芯の強さが秘められているようだった。まるで名工が魂を注ぎ込んで彫り上げた女神像が、生きた血潮と鼓動を持ってこの世に降臨したかのようだ。
アルベルトの整った面差しから、刹那だけ一切の感情が抜け落ちた。
まるで彫像のように。だが、それは紛れもなく驚愕と戸惑いであった。彼の人生において初めて出会った類稀なる美しさが、冷徹なはずの思考を一瞬だけ停止させたのだ。
だが、それは本当に瞬きの間の出来事。
「……名を聞こう」
氷のように冷たい平静さを瞬時に取り戻したアルベルトが静かに問いかけると、少女は穏やかな微笑を湛えながら応じた。
「アルベルト殿下。此度はこのような栄誉ある席をご用意いただき、誠にありがとうございます。ピルイン公サイラスが長女、アリシア・ピルインと申します。どうかお見知りおきを」
その声音は鈴の音のように清冽で涼やかでありながら、どこか底知れぬ深みを湛えているように感じられた。
アルベルトは小さく頷き、その場の儀礼的なやりとりを終えると、侍従に使節団を客室へ案内するよう指示を出した。
*
時間が進み、夜。
日没を迎え、華やかな非公式の晩餐会がホルステン宮殿の宴会場で開催された。
アルベルトとアリシアは、主賓席に向かい合って座していた。グレンをはじめとするピルイン公家の側近たちと、リューベックの高位貴族たちが酒杯を傾け和やかな談笑に耽る中、二人のテーブルには静謐な空気が流れていた。
互いに面倒な波風を立てるような無粋は犯さず、穏便な表面を装っている。
その時だった。
「……そちらは、アリシア嬢の口に合うと良いのだが」
アルベルトがふと視線を向けた先には、琥珀色のソースがかけられた仔羊のローストと、幾つかの素朴な郷土料理があった。
「ご存じでしたか? これらは南部のロレーン地方に伝わる伝統的な料理だ。あなたの実家であるピルイン家のルーツであり、故郷の味だと聞いている。長旅でお疲れだろうと思ってな」
それは単なる形式的な接待を超えた、相手への細やかな心配りであった。
その気遣いに触れ、アリシアは花が咲いたように柔らかく微笑んだ。
「殿下のご配慮、痛み入ります。……実はとても懐かしくて、心から嬉しゅうございますわ」
その澄み切った笑顔は、先刻披露した完璧な社交辞令とは異なる、心からの感謝と安堵に満ちていた。
アルベルトは彼女の真摯な反応に軽く頷き返すと、グラスに入った赤葡萄酒を一口含んだ。
蝋燭の暖かな光が二人の間の空間を照らし出す。和やかで、温かな静寂。
しかし、アルベルトの氷のように澄んだ瞳の奥底では、一つの冷徹な『疑念』が、静かに頭をもたげ始めていた。
(……信じられん美貌だ。完璧な作法に、この底知れぬ落ち着き。これほど条件の良い選帝公家の令嬢が、なぜ格下であるはずの『ケハルディン侯爵家』の嫡男から、婚約破棄などという傷を負わされたのだ……? 絶対に何か致命的な裏があるはずだ)
冷徹な合理主義者であるアルベルトの脳内で、警鐘が鳴り響く。
彼はワイングラスを静かにテーブルへ置くと、ふと世間話でもするかのような、しかし極めて鋭利な声音で口を開いた。
「そういえば、帝国では近年、ケハルディン侯爵家が領地で新たな動きを見せていると聞く。……アリシア嬢は、何かご存知かな?」
それは、彼女が負った『婚約破棄』という古傷を容赦なく抉り、背後に隠された本性を引きずり出そうとする、氷の摂政による容赦のない心理戦の幕開けであった。
だが――アリシアの蒼穹の瞳は、微塵も揺らがなかった。
(……なるほど。私が婚約破棄された理由、その『裏』を探ろうとしているのね。でも、ここで私が政治的な見解を述べたり、ヒステリックに感情を露わにすれば、殿下は私を警戒し、あるいは軽蔑するでしょう)
アリシアの明晰な頭脳は、アルベルトの意図を瞬時に看破していた。父の言いつけである『お飾りの花嫁』を全うするため、彼女は己の知略に完璧な鍵をかける。
次の瞬間、彼女の顔には少しだけ憂いを帯びた、儚げな微笑みが浮かんでいた。
「私は……奥の小さな部屋で、ずっと刺繍ばかりしておりましたから。外の難しいお話は存じ上げませんの」
ふわりと香る微笑みの中に潜む、絶対の拒絶。完璧な淑女の仮面は厚く塗り固められていた。
「それに……あの方たちとは、ただ、ご縁がなかった。それだけのことですわ」
哀愁の陰りを見せるように、伏し目がちに視線を落とす。あまりにも自然で、計算され尽くした仕草。
本当に何も知らない無知な令嬢なのか? それとも……巧妙な芝居なのか?
彼女の演技はあまりにも卓越しすぎていて、アルベルトの鋭い観察眼をもってしても、その真偽を完全に見抜くことができない。
「もし本当にお話好きでいらっしゃるなら……このロレーン料理のお話でもいかがですか?」
アリシアは悪戯っぽく微笑みかけると、目の前の皿を示した。
「この仔羊のローストにかかった琥珀色のソース。深みのある甘さが、遠い昔を思い出させてくれますわ」
あっさりと話題を逸らし、和やかな空気へと引き戻す。
アルベルトは一瞬言葉を失った。彼女の完璧な『無知』という防御壁に見事に阻まれたのだ。苛立ちとも興味ともつかぬ感情が心中をかき乱す。
(……見事に躱された。ただの世間知らずの箱入り娘か、それとも底知れぬしたたか者か。……やはりこの女、一筋縄ではいかん)
結局、アルベルトは彼女の裏の真実を探り出すことができぬまま、晩餐会の時間は終わりを迎える。
宴が一段落し、アリシアが静かに席を立つとき、彼女は完璧な淑女の礼を再び披露した。その動作には一分の隙もなく、磨き抜かれた宝石のように美しい。
アルベルトは背筋を伸ばして彼女を見送りながら、静かに息を吐き出した。
(……アリシア・ピルイン。君のその完璧な仮面の奥に、一体何が隠されているというのだ?)
氷の摂政の心に、これまで味わったことのない強烈な探究心と焦燥感が刻み込まれた、それが最初の夜であった。
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