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第24話 仮面を被る劇薬の令嬢と、恐怖で諸侯を縛る冷徹なる王――「半常備兵」の閃きと、教皇庁を見据える諜報戦

 聖歴一〇五六年、十一月二十一日、正午。

 ピルイン選帝公家を示す豪奢な紋章を刻んだ馬車が、ついに北の交易国家リューベックの王都、リュベルの市街地へと足を踏み入れた。


「まあ……! これは、凄まじい活気ですね」

 馬車の小窓から外を覗き込んでいた侍女のクリスが、素直な感嘆の声を上げた。

 エルヘン河とトラベ河が交わる巨大な海港には、大小様々な他国の商船がひしめき合っている。大市場では、名産である『リューベックガラス』の高級ワインボトルをはじめとする莫大な富が絶え間なく取引され、街全体が熱気を帯びていた。

「お嬢様。これほどの繁栄、我がピルイン公領の主都すらも凌駕しているのではありませぬか?」


 無邪気に目を輝かせるクリスに対し、馬車の奥深くで背筋を伸ばして座る令嬢――アリシア・ピルインは、薄く美しい唇に微かな苦笑を浮かべただけだった。

 確かに、リュベルの表向きの繁栄はナーロッパ北方でも随一と言えるだろう。だが、彼女の怜悧な観察眼は、光が強ければ強いほど色濃くなる『影』――表通りから仄暗い路地裏へと押し込められ、異様に膨張し続けるスラムの惨状を、決して見逃してはいなかった。


(……やはりね。巨大な富の一極集中は、地方の農村からの慢性的な人口流出を招く。……それに加えて、この溢れ返るような失業者の数は異常だわ)

 アリシアは馬車の揺れに身を任せながら、脳内でこの国の構造的欠陥を解き明かしていく。

(つい最近まで、リューベックは帝国軍への兵站支援をアテにして、国を挙げて戦時経済体制を敷いていたはず。だが、帝国の北伐中止によって突如として梯子を外され、流民問題が爆発寸前まで高まっているのね)


 数万にも及ぶであろう、スラムの失業者たち。彼らを放置すれば、いずれ暴動が起き、治安は食い破られ、国が内部から崩壊する。

 ならば、この厄介な流民たちを、逆に国家の『力』へと変換するシステムを構築できないか。他国の最新の軍事情報など一切持ち合わせていないアリシアは、ただ己の明晰な頭脳のみを頼りに、ゼロベースで解決策を構築し始めた。


(……そうだわ。非主流になりつつある『二圃式農業』を応用すればいい。スラムの貧民に荒れ地を与え、税を免除する。その代わり、一年は麦を栽培させ、休閑中となる翌年の一年は軍の厳しい訓練を行わせる。そうすれば……)

 貧民を救済してスラムを一掃し、さらに財政を圧迫することなく、有事の際には既存の徴兵より遥かに練度の高い大軍――『半常備兵』を創設することができる。

 治安維持、農業生産、そして軍事力の大幅な向上。国家の抱える弱点を、すべてひっくり返して強みに変える奇跡のロジック。

 その恐るべき内政・軍事システムの計算式が頭の中で組み上がり、アリシアが思わず熱を帯びた瞳を輝かせた、その瞬間だった。


「……お嬢様?」

 ふと我に返ると、クリスが呆れたような、それでいて渋い表情でアリシアを覗き込んでいた。

「またそのような、小難しいお顔をされて。……お父上のサイラス様から、きつく言われているのをお忘れですか。『女は政治や軍事に出しゃばるな。子作りと子育てに励み、奥をまとめる事だけを考えろ』と」


 アリシアの思考を遮ったのは、唯一心を許せる腹心からの、あまりにも旧時代的で重苦しい「貴族の常識」だった。

「いくらお美しくても、初対面からそんな理屈っぽいお顔をしていては、アルベルト殿下に距離を置かれてしまいますよ。さあ、殿下の性格や好みを記したリストでもおさらいして、今日くらいはただの愛らしい花でいてくださいませ」

 冗談めかしながらも本気で心配している侍女の小言に、アリシアはハッと我に返った。


(ええ、そうだったわ。私は国を救う政治顧問として招かれたのではなく、ただの『お飾りの花嫁』としてこの国に来たのだったわね)

 アリシアは小さく溜め息をつくと、溢れ出る知略を胸の奥深くに封じ込め、淑女の完璧な仮面を被り直した。

「ごめんなさいね、クリス。……少し、これからの生活を思って緊張していただけよ」


 柔和な微笑みと共に答えると、侍女の表情が安堵で緩む。

 窓越しの騒がしい街並みは徐々に遠ざかり、馬車はやがて、若き『氷の摂政』が待つ荘厳なホルステン宮殿の正門へとゆっくり吸い込まれていった。


 *


 その頃。

 旧フラリン王国の王都バリ、ヴェルサルユス宮殿の国王執務室。


「お疲れ様でした、陛下」

 山のような書類仕事を終え、ペンを置いたフェリオルに対し、背後に控えていた側近のギニアスが労いの声をかけた。

「まあ、主に占領統治の雑務だからな。重要な案件は本国のレオンから送られてくるが、そうでない物はそのままこちらで処理している。王都に帰った時、あの書類の山が相手だと思うと頭が痛い」


 フェリオルの軽い冗談に、ギニアスは苦笑を浮かべる。

「では、いっそレオンにお戻りになって書類仕事を終わらせますか?」

「いや、当面はここに留まる。教皇庁や帝国という『敵』に近い以上、このバリに本陣を置く方が都合が良かろう。それに兵糧も、フラリンから接収した物資だけで十分に保つ。短期間で大軍を連れて往復する方が面倒だ。そなたもそれは分かっていよう」


 フラリン侵攻に動員した諸侯の軍は、十一月三十日を目途に解散させる予定である。旧フラリン領に当面駐留するのは、フェリオルの絶対的な直属軍である黒旗軍の一万八千のみ。一万八千の兵力であれば、本国からわざわざ糧食を輸送せずとも、現地の接収分だけで完全に賄うことができた。


 政治的な大仕事としては、戦いに参加した諸侯たちへの「論功行賞」が残っているが、これに関してはある意味で楽であった。

 ラーンベルク戦の最中や直後に寝返った諸侯は本領安堵。フラリン侵攻時に降伏した諸侯は所領削減。そして、圧倒的に不利だった旧王党派との戦いの時からフェリオルに従っていたわずか「一家」、及びラーンベルク戦前に勝ち馬を見抜いた「六家」の弱小領主たちには、その眼力を高く評価して大幅な加増を行う。フェリオルの頭の中では、すでに冷徹な計算式が弾き出されていた。


(まあ、論功行賞の正式な発表は、教皇の件が片付いてから本格的に考えるとしよう。どうせ、奴らは今は何も言えぬからな)

 フェリオルは心の中で冷ややかに呟く。

 本来、論功行賞の先送りは愚策中の愚策である。戦後処理を曖昧にすれば、味方すら敵に回す政治的劇物となるのが歴史のセオリーだ。だが、フラリン全土の電撃的な制圧という「異常な恐怖」が、その常識を覆していた。

 いずれ大規模な領土の再編があることは誰の目にも明らかだ。だからこそ、諸侯はフェリオルの顔色を窺い、息を潜めるしかない。ここで謀反のような迂闊な動きを見せれば、近隣の領主や不満を持つ家臣によって「功名稼ぎの好機」とばかりに密告され、一族もろとも取り潰されるだけだからだ。フェリオルは、諸侯同士の猜疑心すらも支配のシステムに組み込んでいた。


「さて……教皇の側につくであろう国を、ひとつふたつは裏で内応させておきたい。候補としては、テラン半島諸国か」

 話題が次の戦争へと移ると、フェリオルの表情から冗談の色が消え、冷徹な覇者のそれへと変わった。

「あとは、強いて言うならば旧フラリン王国と組んでいた北方小国群の一つぐらいですね。……どこを狙いますか?」

「ザルテノ王国か、トスカナ王国のどちらか……それに加えてアプリア王国が理想だが、まあ、本格的な調略を仕掛けるのは教皇の使者が来てからだな」


 ザルテノ王国とトスカナ王国は、テラン半島北部で激しい覇権争いを繰り広げている国であり、トスカナに至っては教皇領の一部を係争地として抱えるなど、教皇庁への不満の火種がある。アプリア王国は半島南部の大半を支配する大国だが、国王が熱狂的なテンプレ教の信者として有名であり、アストゥリウに内通する可能性は極めて低い。

 だが、現段階で「狂信者だから無理だ」と諦めるには、情報が少なすぎた。


 そして何より、南部アプリア北部トスカナ・ザルテノの有力国家を『両方とも内通させて残したい』というフェリオルの思惑は、彼が「テラン半島を統一させる意思がない」ことを示している。

 隣接する半島が強大な統一国家になるより、分裂して互いに牽制し合っている状態を維持させた方が、アストゥリウの安全保障にとって圧倒的に利がある。ギニアスも主君のその深謀遠慮を正確に理解していた。


「となると、教皇と完全に決別するまでの間、諜報員をトスカナ、ザルテノ、アプリア、そして教皇庁と旧フラリンの属国群に集中させるよう、ロンメル閣下に命令を出しておきます。それで宜しいですか?」

 ギニアスの的確な提案に、フェリオルは深く頷いた。

「当面はそれだな。だが、教皇庁の要求を正面から突っぱねて完全に決別するその日までは……決して、天上の栄光に酔う狂い猿どもを無用に刺激するなよ」

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