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第21話 盤面を読む冷徹なる瞳と、砕け散る氷の仮面――宗教の抜け道(システム)の推測と、愛らしき訪問者

 聖歴一〇五六年、十一月二十日。

 北の交易国家リューベックの王宮、その一角にある摂政の執務室において、アルベルトは山のように積み上げられた書類の処理に忙殺されていた。そのペンを走らせる横顔には、かつてないほどの徒労感と苛立ちが滲んでいる。


 数日前、ロアーヌ帝国からの使者がホルステン宮を訪れ、正式に「北伐(フラリン侵攻)の中止と、戦時動員の解除」を伝えてきたのだ。

 フラリンの王都があっけなく陥落したことで、帝国は完全に介入の機を逸した。それに伴い、帝国軍への兵站支援(特需)を前提として、アルベルトが国を挙げて敷いた「戦時経済体制」も、その意味を完全に失ってしまったのである。

 儲け話の梯子を外されたアルベルトは、即座に損切りを決断した。だが、一度全開にまで回した国家の軍事・経済の歯車を平時へと戻す「解除手続き」は、想像を絶する不毛な事務作業を彼に強いていた。


「商人ギルドへの補償、買い集めた物資の転売手配、動員した海軍の帰還命令……。まったく、無能な巨象の尻拭いをさせられる身にもなってほしいものだ」

 アルベルトは忌々しげに一枚の羊皮紙にサインを書き殴り、傍らに控える銀髪の侍従武官、エミリアへと手渡した。書類を受け取ったエミリアは、ふと思い出したように口を開く。


「そういえば殿下。例のピルイン公令嬢、アリシア嬢とその一行は、今日の十六時ぐらいに国境のレビオに到着するそうよ。この王都リュベルにつくのは、明日の十二時ぐらいかしら」


「はあ、面倒くさい……」

 アルベルトは盛大な溜め息をついた後で、エミリアが淹れてくれた紅茶のカップに口をつけた。


「美人という噂だけど。……風の噂では、性格は随分と悪いらしいわね」


「美しさなんてさほど問題ではない。大切なのは――」

 エミリアは自らも紅茶を一口読み、主君の言葉を促した。

「大切なのは?」

「王太子妃、そして将来の王妃として相応しい器かどうかだ。美しい女を抱きたいだけなら、後で愛人を作れば良いだけの話だからな」


 感情を排したそのあまりにも冷徹な政治ロジックに、エミリアは呆れたような声を隠そうともしなかった。

「……そうかも知れないけど。女の敵としか言い様がないよね、その物言い」


 エミリアの突っ込みがいつもより少しばかり刺々しい。僅かに気になったアルベルトは、遠慮なく尋ねた。

「エミリア、今日何か厳しくないか?」

「そんな事ないわよ。……それよりも」

 銀髪の従者は薄く微笑みながら、あからさまに話を逸らした。

「ピルイン公も同行されず、名代の使者だけなんて……我が国との婚姻(お見合い)を舐めているのかしら?」


 まあ、一理あるとアルベルトは思った。もとより王侯貴族の結婚は純然たる政治である。特に王太子の婚姻となれば、それは国政や国際情勢を左右すると言ってよい。当然、当人同士の顔合わせよりも、当主(政治家)同士の事前協議の方がよほど重要であるはずだった。


「それは仕方ないさ。帝国の中枢は今、御前会議を間近に控えて大忙しだからね」

 アルベルトは苦笑を浮かべて答える。

 帝国は毎年、年明けすぐに最高権力者たちが集う御前会議を開催する。今回は簒奪王フェリオルへの対応策も議題に上るだろうから、例年以上に重要なものになるのは自明の理だ。ピルイン選帝公も他の帝国有力貴族との事前協議や利害調整で、娘に付き添う余裕などないのだろう。


「一方で、今後帝国が取るであろう戦略を考えれば、この婚姻を早く進めておきたいという彼らの意図も解る。我がリューベック王国は北方交通の要所であるがゆえに、一刻も早くここは押さえておきたいはずだ。……ただ、それを進めるには教皇庁との対立も覚悟しないといけない。先に簒奪王がその宗教的な問題にぶち当たるだろうが、あちらは当面、破門を回避することは出来るからね」

 アルベルトはそう言って、手元の紅茶を飲み干した。


「問題……?」

 エミリアが怪訝そうに首を傾げた。その瞬間、アルベルトは自分が話の組み立てに失敗したことに気づいた。肝心の『今後、帝国が取るであろう戦略』の中身を、エミリアにまだ話していなかったのだ。


「……すまん、前提を省きすぎたな」

 若き摂政は小さく咳払いをし、頭の中の盤面を説明した。

「帝国は今回、完全にフラリン介入の機を逸した。常識外れの速度を持つフェリオルに対し、鈍重な大軍を動かせない帝国が最終的に選ぶ道は一つ……『勢力均衡政策』だ。アストゥリウを外側から包囲するため、帝国はプライドを捨てて、異端のアルピオン王国や、東の異教徒クマン族辺りと手を組む必要に迫られるだろう」


「なるほど……。ですが、先に異教徒を属国にした簒奪王の方こそ、教皇庁と対立するのでは?」


 エミリアの素朴な疑問に、アルベルトは冷笑を浮かべて首を横に振った。

「いや、そこが政治の妙だ、エミリア。交易ぐらいであれば上手く誤魔化し、教皇に寄付という名の賄賂を贈れば何とかなるが、帝国がやろうとしている『対等の軍事同盟』となれば話は全く変わってくる。テンプレ教中枢の教皇庁が、異教徒や異端との対等同盟を認める可能性は限りなく低い。対して、簒奪王は征服した異教徒の国を改宗させず、併合もせず、領土を少し割譲させて『属国』としただけだ」


 アルベルトは空になったカップを見つめながら、冷徹な宗教ロジックを語る。

「異教徒や異端との対等同盟は論外だが、属国であれば形式上、テンプレ教の方が『上』という立場が保てる。その上で簒奪王が『今後、順次改宗を進めてまいります』と申し立て、教皇庁へ寄付という名の莫大な賄賂を握らせておけば、テンプレ教のメンツも立ち、当面は問題を先送りできる。つまり、簒奪王は上手く言い訳を作って宗教問題を回避する。結果として、先に教皇庁と致命的に激突し、自滅の泥沼へ足を踏み入れるのは――帝国の方さ」


 15歳の少年の口から語られた、あまりにも精緻で合理的な地政学・宗教ロジック。

 エミリアがその鋭い知見に深く感服し、納得したように静かに頷いた、まさにその時だった。


「お久しぶりです、お兄様。今よろしいですか?」


 鈴の鳴るような澄んだ声と共に、部屋の扉が開いた。

 北国の冬の寒さに備えた、やや厚いドレスを纏い、赤みがかった長い金髪をなびかせながら部屋に入ってきたのは――アルベルトの最愛の妹、シャルロット王女であった。


 最近の殺伐とした政争や粛清劇、国家間の冷徹な損益計算とは完全に無縁な、無垢で可憐な妹の不意の訪問。

 エミリアは即座に居住まいを正し、侍従武官としての厳格な表情で進み出た。

「シャルロット王女殿下、恐れながら今は公務の最中であり、摂政殿下の手は――」


「よい、エミリア。せっかく妹が来てくれたのだ」


 アルベルトは手元の書類からバッと目を離すと、エミリアの制止の言葉を途中でそっけなく遮った。先ほどまで「愛人を作ればいい」「帝国は自滅する」などと酷薄に盤面を語っていた氷の摂政の仮面は、この瞬間に粉々に砕け散っている。


「おいで、シャルロット。……仕事が詰まっていて時間はそう多くは取れないが、何か用かな?」

 アルベルトはこれ以上ないほど柔らかな微笑みを浮かべ、シャルロットを近くへと招き寄せた。すると、シャルロットは少し俯き、困ったように眉を下げた。


「いえ……。用事と言う程の事ではないのですが、最近ろくにお兄様とお話できていなくて寂しくて……。……ご迷惑でしたか?」


 潤んだ瞳で、そんな申し訳なさそうな表情と上目遣いを向けられては、兄としての保護欲をかき立てられない訳がなかった。アルベルトの脳内の損益計算盤は一瞬で消し飛び、代わりに猛烈な甘やかしの衝動が吹き荒れた。


「可愛い妹の来訪を迷惑がる兄なんて、この世に一人もいないさ。不毛な書類仕事など後回しだ。――エミリア、すぐにシャルロットのための椅子と、極上の紅茶の用意を」


 エミリアは主君のあまりの豹変ぶりに表情を一切変えないまま、無言の礼をもってアルベルトの前から離れた。だが、その背中からは深い諦念が漂っており、彼女の内心の呟きが今にも漏れ聞こえてきそうであった。


(……はいはい。女の敵というよりは、ただの重症のシスコン摂政よね、この男は)


 銀髪の従者が心の中で盛大に毒づいていることなど露知らず、若き摂政は愛らしい妹をソファーへとエスコートし、その相好を崩し続けるのであった。

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