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第20話 暴挙か、それとも極めて合理的な一手か。そして舞台は整った――氷の摂政の戦慄と、帝国の落日を見上げる姉弟

 聖歴一〇五六年、十一月五日。

 リューベック王国の中枢において、アルベルトは重臣や将軍たちを招集し、軍会議を開いていた。議題は、いよいよ迫る出兵に向けた軍隊の最終的な編成と、莫大な軍需物資の調達・輸送計画の最終調整である。

 利益を最大化し、リスクを最小限に抑えるための綿密な計算が交わされていた、まさにその時だった。


「急報にございます!」

 アルベルトの侍従長が血相を変えて会議室に飛び込んできた。

「何事だ?」


 アルベルトが冷たく問いただすと、侍従長は額の汗を拭いながら、絶望的な声を張り上げた。

「アストゥリウ王国軍が、フラリン本土へ侵攻! 恐るべき速度で進撃し……すでに、フラリン王都バリが陥落した模様です!」


 その一言に、会議室の空気が一瞬にして凍りついた。

 歴戦の将軍たちでさえ、一瞬、自分の耳を疑った。アストゥリウ軍はつい数日前、ラーンベルクでフラリン本軍と激突したばかりである。旧国王派やヘルメス王子派への戦後処理や、自軍の再編成には膨大な時間がかかるはずだった。


「……ラーンベルク要塞からフラリン王都まで、優に百キロ以上はあるのだぞ? それを、戦が終わってからわずか三、四日で走破して王都を落としたというのか!?」

 一人の将軍が、唖然とした声で叫ぶ。

「不可能だ! 国内の戦後処理を完全に後回しにし、輜重(兵站)すら切り詰めた強行軍など……常識外れにも程がある! そんな速度で大軍を進めれば、普通は行軍疲労で部隊が瓦解するはずだ!」


 老練な将軍たちが口々に「あり得ぬ暴挙だ」と否定し、会議室がどよめきに包まれる中。

 上座に座る十五歳のアルベルトだけは、冷ややかな瞳で机上の地図を見据えていた。


(……いや、暴挙に見えて、極めて合理的な一手だ)


 アルベルトの思考が加速する。

 フラリンは国王が戦死し、正規軍の主力を失った。地方諸侯が集まり、まともな防衛網が敷かれる前であれば、敵の中枢は脆い。


「フェリオル王の狙いはただ一つ。フラリン王国の防衛体制が整う前に、短期決戦を挑むことだ」

 アルベルトの静かな声に、重臣たちの視線が集まった。

「常識的な速度で進軍し、諸侯に兵を集められて泥沼の攻城戦になれば、ロアーヌ帝国をはじめとする大国の介入を招く。……あの簒奪王は、自国の内乱の火種を放置してでも、『最大の果実を最短でもぎ取る道』を選んだということだ」


 犠牲を厭わず、防衛拠点を無視して一直線に王都を目指す。戦後処理など、王都という心臓を握り潰した後にゆっくりやればいい。

 盤面を俯瞰するアルベルトの脳裏に、果断な決断力を持つ若い簒奪王の姿が浮かんだ。


(こちらの想像を軽々と超えてくる。……恐るべき男だ)


 若き支配者の唇が、微かに歪む。

 この常識外れの迅速な侵攻は、確かに軍事的なセオリーを無視している。しかし、そのセオリーを超越した『果断さ』と『速度』こそが、最も恐ろしい武器なのだと彼は認識していた。


 フラリンが崩壊した暁には、ロアーヌ帝国をも凌駕する、底知れぬ軍事国家が誕生する。

 アルベルトは小さく息を吐き、簒奪王フェリオルに対し、これまで以上の深く冷たい警戒心を抱いたのであった。


 一方、その恐るべき急報は、一日遅れの十一月六日になって、ようやくロアーヌ帝国の帝都にも到達した。

 だが、その情報がもたらした結果は、リューベック王国とは全く異なるものであった。

 出陣の準備を終え、まさに軍事行動に移ろうとしていた帝国上層部は、「状況が大きく変わった。フラリンの情勢を改めて見極める必要がある」として、あろうことか全軍の出陣を取りやめ、再び長々とした軍議を開き直してしまったのである。


 帝城の回廊から、その鈍重極まりない大貴族たちの立ち回りを見下ろしている二人の影があった。

 窓枠にもたれかかるのは、氷のように冷徹な瞳を持つ美女――アリシア・ピルイン。そして彼女の傍らに立つのは、金髪の繊細な面差しを持つ異母弟、ダーフィト・ピルインである。


 眼下の議場では、複数の大貴族たちが額を突き合わせては互いの領地の利権を牽制し合い、口角泡を飛ばしている。まるで狭い鳥かごの中で意味もなく騒ぎ立てる猿のようなその姿は、アリシアの瞳にはあまりにも滑稽で醜く映った。


「また会議のやり直しですか。まったく呆れたものです。……これなら、早く予定通りにピルイン公領の代官にでも就任して、地方で気楽にやっている方がよほどマシですね」

 野心を持たないダーフィトが率直な感想を漏らすと、アリシアは彼にだけは、普段の仮面を外した慈愛に満ちた微笑を向けた。

「ええ。彼らにとって『議論』とは自尊心を満たすための儀式であって、現実の戦局を左右するための道具ではないのだもの」


 国の中枢にいながら、まるで他国の出来事のように無関心な姉へ、ダーフィトは素朴な感服の念を込めて問いかけた。

「ですが姉上。フェリオル王がこれほど迅速に戦略を変え、一気に王都を攻め落としたというのは驚きでしたね」


 アリシアは窓際に並ぶ燭台の炎を眺めながら、静かに答えた。

「アストゥリウ王国は今、簒奪王の手によって『君主に権力を集中させた強固な中央集権国家』へと生まれ変わろうとしているわ。指揮系統が一本化されれば意思決定も速く、トップの采配一つで国家の全兵力が動く。……今回の進軍速度は、それを如実に表しているわね」

 アリシアは回廊の大理石の床に落ちる己の影を指差し、低い声で付け加えた。

「翻って、我が帝国はどうかしら?」


 アリシアの問いに、ダーフィトは眼下で続く不毛な言い争いを思い出したように苦笑した。

「……そうでした。諸侯や大貴族の顔色を窺って、数日間の『会議』を開いている最中でしたね」


「そうよ。フェリオル王が『即断』で軍を進める間、封建国家たる我らは『諸侯の意向探り』や『利害調整』という茶番に貴重な時間を浪費している。これでは、国力に圧倒的な差が生まれるのは必然よ」

 アリシアの論理的な分析には、一片の感情も含まれていなかった。

 ロアーヌ帝国の将来に絶望し、父や他の兄弟がどうなろうと興味を持たない彼女だが、素直で自分を慕ってくれるこの異母弟だけは、これから来る動乱の中で何があっても保護したいと心から願っていた。


「ふぅ……」

 アリシアは微かに嘆息し、冬の訪れを感じさせる曇天の灰色の空を見上げた。


「これでまた一つ……ロアーヌ帝国が滅亡する可能性が増えたわね」


 姉のその静かな、しかし確信に満ちた死の宣告は、ダーフィトの背筋を軽く震わせた。

 超大国フラリンの没落と、簒奪王の圧倒的な覇道。そして、それを利用して血肉を啜ろうとするリューベック王国と、時代に取り残された鈍重なロアーヌ帝国。


 ナーロッパの歴史を根底から覆す、空前の動乱の幕が、今ここに完全に切って落とされたのである。



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