第16話 落日のフラリン――凶報を待つ気高き少年と、愛を失った魔王の凱旋
聖歴一〇五六年、十月三十一日。
フラリン王国北東部、ローベラ要塞。
「フラリン王国第2王子、アラン殿下御入室!」
先導する騎士に続いて、白銀の甲冑に身を包んだ貴公子が大広間に入る。顔にはまだ幼さが残っており、金髪を肩まで伸ばしているため、女の服装をさせれば女にも見えない事もない。
「アラン殿下」
大広間に何をするでもなくたむろしていた騎士達は、慌てて片膝を床につける。
「よい、楽にせよ。それより聞きたいことがある。王都より何か報せはあるか?」
王族らしい気品を感じさせる声だった。が、若さ故か、その言葉には落ち着きがなく僅かな焦りのようなものがあった。
「恐れながら申し上げます。王都からは何も。……ただ、こちらから出した使者がそろそろ戻ってくる頃かと」
苦い表情の騎士が答える。
ラーンベルクで大敗を喫したフラリン王国は、簒奪王の全面侵攻を受けていた。フェリオル王が直率するアストゥリウ王国軍本隊が接近しているという報告が王都バリから三日前に入り、誰の目から見てもフラリン本土防衛戦は、我が軍が劣勢の状況に追い込まれている。
その言葉に、アランは少し考えてから命じる。
「今日中に使者が戻ってこなかったら、明朝、騎馬だけの小隊を出して王都近辺を探らせろ。街道が封鎖されている可能性が高い」
「ハッ! 承知いたしました」
騎士が頭を下げた、まさにその時だった。
大広間の重厚な扉が慌ただしく叩かれ、見張りの兵士が血相を変えて飛び込んできた。
「で、殿下! 王都バリより、避難してこられた一行が当要塞へ到着いたしました!」
「王都からだと!?」
アランは弾かれたように顔を上げた。待ちわびていた王都からの情報だ。
「い、はい! 王都の大教会におられた、ルイ・ディクレー司祭様です! 戦火を逃れて北へ避難される途上とのことですが、殿下に直接お耳に入れたい急ぎの儀がある、と……」
「ルイが……!?」
その名を聞いた瞬間、アランの顔から王族としての繕った仮面が剥がれ落ち、年相応の少年の色が浮かんだ。
* * *
同時刻
アストゥリウ王国軍の占領下に入った王都バリ、ヴェルサルユス宮殿内。
重厚な樫の扉が左右に開かれると、その先には宮殿の中で最も贅を尽くされた豪奢な一室があった。そこが今や、フラリン王国第一王女ジル・フッテンボルクの幽閉場所となっていた。
部屋の中央、金細工で飾られた椅子に座っていたのは――まるで女神が降臨したかのような美貌の女性である。
彼女こそが、簒奪王フェリオルが己の母を除いて唯一愛した女性であった。
扉を開けたフェリオルは無言で室内へ踏み込む。革靴の音だけが静寂を破る。
対するジルもまた微動だにしない。その瞳は冷たい硝子玉のように透明でありながら、決して彼に焦点を合わせようとはしなかった。豊かに波打つ金色の髪は窓から差し込む午後の陽光を受けて神々しく輝いているが、その全身から放たれるのは絶対零度の拒絶である。
もはや掃討戦と言ってよい戦況とはいえ、フラリンとの戦争中という多忙の中、フェリオルは毎日無理に時間を作ってはこの王女の元を訪れていた。だが、いつも無言で彼女を見つめるばかりであった。
話したい事は山ほどある。しかし、一言も発する事が出来ない。
そんな息の詰まるような沈黙の中、簒奪王の胸によぎるのは、相反する二つの思いだった。
一方にあるのは、絶対的な『達成感』。
幼い頃に母を殺され、己の無力を実感したあの日、彼はどんな困難があろうと復讐を成し遂げ、誰の命令にも従わずにすむ絶対の力を手に入れると誓った。その血みどろの誓約は果たされ、彼は今、侵略者を討ち、広大な領土を平らげた絶対的な覇者としてここに立っている。
――しかし、その昂った感情は、すぐに氷のような『喪失感』で散ってしまう。
主神テンプレは、彼に勝利と権力を与えた代償に、あまりにも大きすぎる代価を支払わせたのだ。
母を除けば唯一愛した女性の、愛情を失うという代価を。
戦場の事であったとは言え、実の父を討ち取り、その故郷を踏みにじった男を彼女が許すはずがない。
氷の彫像のように佇むジルの前に立つたびに、フェリオルはそう痛感する。囚われの身となったジルが、恨みや怒りの言葉を発した事は一度もない。ただ、一切の感情を消し去り、冷たく無言の拒絶を示すだけである。
その声なき拒絶に耐えかね、フェリオルは胸の中で血を吐くように叫ぶ。
(俺は、理解していなかったのだ。……全てを手に入れるためには、その代価が必要な事を)
フェリオルの漆黒の軍服の袖口が、かすかに震えたように見えた。
表情を引きつらせながらも、彼はジルから目をそらさない。釈明などはしない。覇者として歩み出した以上、立ち止まることは許されないのだ。
しかし、豪胆と冷静さを合わせ持つ簒奪王にも、限界が訪れる。
どれほどの時間が経っただろうか。
静かで絶対的な拒絶に耐えきれなくなり、フェリオルは逃げるようにゆっくりと踵を返し、早足で部屋を出てしまった。
扉が静かに閉じられる音がした。
部屋には再び沈黙だけが残される。
「……っ」
一人になった瞬間、ジルの顔から『氷の仮面』が崩れ落ちた。
静かに目を伏せた彼女の長い睫毛が震え、大粒の涙が零れ落ちる。拳を握りしめ、爪が掌に食い込む。
憎い。父を殺したこの男が。故国を蹂躙した簒奪者が。殺してやりたい。千回万回切り刻んでもなお飽き足らない。
それなのに――どうして。どうして涙が溢れるのか。
声にならない嗚咽が喉の奥に詰まった。
彼女はただ、かつて愛した男が去った扉を睨みつけながら、声を殺して涙を流し続けていた。
父を討ち祖国を踏みにじるフェリオルへの激しい憎しみと、それでも決して断ち切る事ができない深い愛情。二つの相反する感情に、心を残酷に引き裂かれながら。
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