第12話 盤面が反転する暁――十五歳の摂政が描く逆転の台本(シナリオ)
聖歴一〇五六年、十月二十五日。
暁闇の帳がようやく薄れ始めたばかりの時刻だった。
アルベルトの寝室の重厚な扉の向こうから、控えめなノックとともに侍女の声が響いた。
「殿下……お休みのところ、誠に申し訳ございません。侍従武官のエミリア様より、至急お耳に入れたい儀があるとのことで……」
その声を聞いた瞬間、アルベルトの微睡みは一気に覚醒した。有能で規律を重んじるエミリアが、この時間に侍女を通して緊急の謁見を求めてくる。それが国家の根幹を揺るがす異常事態であることは疑いようがなかった。
「構わん、通せ」
アルベルトは簡潔に命じると、エディトの柔らかな温もりから身を起こした。まだ薄暗い寝室に、硬質な光を湛えた侍従武官の姿が浮かび上がる。
「……っ!」
エディトが驚愕して薄衣をかき集め、慌てて寝台の影に身を隠した。エミリアは、隣で羞恥に身を縮こまらせる未亡人の姿を一瞥した。
その眼差しには、主君をたぶらかす年増への微かな侮蔑と……それとは相反する、複雑な憐憫の色が揺れていた。この女が政争の具となり、息子を守るために屈辱に耐えながら奔走してきた背景を知っているからこそ、エミリアは単純に彼女を憎み切ることができなかったのだ。
「報告を聞こう」
アルベルトは一切動揺を見せずに促した。その声音は鋼の如く冷たく研ぎ澄まされている。
エミリアは息を一つ吸い込むと、淡々と、しかし深刻な響きを伴って告げた。
「……各方面に放っている我が国の諜者から、伝書鳩による急報が届きました。アストゥリウのラーンベルク要塞へ遠征していたフラリン王国軍主力が、簒奪王フェリオル率いる黒旗軍の奇襲を受け……物理的に消滅したとのことです」
「……何だと?」
アルベルトの眉間に深い皺が寄る。フラリン軍主力……帝国軍と並ぶナーロッパ最強と称される六万の軍団だ。
「しかも……その戦闘は、ほぼ一日で決着がついたと」
「……一日で!?」
アルベルトの目が僅かに見開かれた。
数の上ではフラリン軍が三倍以上も圧倒していたはずだ。「一日で決着」などという事態は、軍事の常識では絶対にあり得ない。どれほどの神業、あるいは規格外の暴力が必要なのか。
「詳細は現在確認中ですが……フラリン軍は指揮系統が完全に破壊され、国王メンデル二世も討ち死にした可能性が極めて高い模様です」
「バカな……」
その報告を聞き、アルベルトの顔から完全に表情が抜け落ちた。
フラリン王国軍は、ナーロッパ随一の大国が保有する最大の暴力装置だ。その遠征軍主力が完全に消滅したということは、つまり――。
(帝国に対する最大の牽制圧力が、ゼロになったということだ)
リューベック王国は東西の超大国に挟まれ、その均衡(天秤)を利用する交易国家として繁栄してきた。昨日、帝国からの理不尽な属国同盟とフリーランス割譲を受け入れたのも、「帝国にとって、フラリンの脅威に対する最前線の盾が必要だから」という前提があったからこそだ。
しかし、その盾が蒸発した今、帝国はリューベックに餌を与えてまで機嫌を取る必要がなくなった。この国は一転して、帝国に直接蹂躙され、狩られる側に転落したのだ。
アルベルトの瞳から「男」の色が完全に消え失せた。
そこに宿るのは、もはや氷のように冷徹な「為政者」の眼差しだけだった。傍らで震えるエディトの存在など、意識の片隅から完全に抹消されたかのように、彼は素早く思考を整理し始める。
「分かった。……エミリア、すぐに各省のトップを叩き起こせ」
彼は寝台の下に脱ぎ捨てていたチュニックを掴みながら立ち上がった。
「情報の信憑性を検証し、最悪の場合を想定した被害予測をまとめさせろ。御前会議は『今日の午後』だ。それまでに対応案の土台を作っておく必要がある」
「……畏まりました」
エミリアは主君の指示を聞くと、深く一礼し静かに退室していった。
寝室には再び静寂が戻った。だが、アルベルトの脳内は凄まじい速度で回転し続けていた。
(まさか……あの盤石な天秤が、これほど早く崩れ去るとは……!)
予想より遥かに早いペースで盤面がひっくり返されようとしている。このままでは、帝国にすべてを呑み込まれる。
アルベルトは冷たい水で顔を洗い、鏡に映る自分の顔を見つめた。まだ十五歳。だが、その双眸に宿る光は既に老獪な政治家のそれだった。
(いや、待て……。大帝国の諜報網も、帝国中枢には我が国と同時期にこの凶報を届けているはずだ。だが、巨大な官僚機構ゆえに、本国から辺境の駐在大使へ正式な情報と指示が下達されるまでには、どうしても数日のタイムラグが生じる。……この非常事態、やりようによっては、むしろ俺にとって最大の好機かもしれん)
「エディト、着替えだ」
アルベルトは傍らの女に短く命じた。エディトが慌てて差し出した衣装を受け取りながらも、彼の思考は既に遠い。
(俺自身が盤面をひっくり返してやる。帝国の鎖を、逆にこちらから縛り付けてやる……!)
彼の指先がわずかに震えていた。
しかし、それは恐怖によるものではない。破滅の淵に立たされたことで、逆に為政者としての獰猛な血が沸き立っていたのだ。
朝日が昇り始めた窓辺を背に、氷の摂政は静かに深呼吸した。
(よし……まずは午後の会議に向けた、俺の『台本』を書くか)
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