第11話 属国条約と氷の寝室――帝国の威光を利用する昼、極上の肉人形(こま)を抱く夜
聖歴一〇五六年、十月二十四日。
ホルステン宮の応接室は、これまでにない重苦しい空気に包まれていた。
「――先日の御前会議にて、我が帝国との同盟をご決断いただいたこと、まずは深く感謝申し上げます」
帝国大使ローン伯爵が、慇懃な笑みを浮かべて頭を下げた。
「我がピルイン選帝公令嬢を正妃としてお迎えいただく件は、すでに諸侯の合意も得られたとのこと。つきましては本日の本題ですが――」
ローン大使は、滑らかな動作で一枚の羊皮紙をアルベルトの前に差し出した。
「同盟の『証』として。今後、帝国が西のフラリン属国群へ出兵するなどの有事の際、リューベック軍の指揮権を我が帝国軍に委譲していただきたい」
それは紛れもなく、事実上の属国化宣言であった。
アルベルトは膝の上で軽く指を組みながら、その条約文に目を通した。
「了解した。その旨を正式に承認する」
アルベルトが短く、感情の一切こもらない声で答えると、ローン大使は恭しく深々と頭を下げた。
「恐悦至極に存じます。これで『属国同盟』と『指揮権の委譲』に関する基本合意が成立したわけでございますな」
「そうだな。詳細については外務省の担当者同士で詰めるように。……ところで」
アルベルトはここで初めて、わずかに表情を緩め、テーブルに置かれた香草茶のカップに手を伸ばした。
「婚姻同盟の方は、先日御前会議で内諾を得た通りだ。ピルイン選帝公令嬢アリシア殿の御到着は、いつ頃になる予定かね?」
「畏まりました。婚儀に関しましては、帝国の慣例に則り三ヶ月以内を目途に準備を進めております。令嬢の御到着は、おそらく年末から新年にかけてになるかと」
「ほう。随分と急ぎ足なのだな」
「当然でございます。帝国も、リューベック王国との強固な絆を一日も早く確かなものとしたいとお考えゆえ」
ローン大使はそう言うと、立ち上がりながら芝居がかった礼をする。
「では摂政殿下。本日は誠にありがとうございました。この吉報を持ち帰り、帝国が殿下の英断を心より賞賛いたすことをお伝え申し上げます」
勝者の余裕を滲ませたその言葉を残し、大使は悠然と部屋を後にした。
一人残された応接室で、アルベルトは窓の外に広がる曇天を眺めながら、深く溜息をついた。
(……終わった。これでリューベックは完全に帝国の支配下に入った)
王家としての誇りが傷ついたなどという感傷はない。そんなものは最初から持ち合わせていない。
アルベルトの脳裏にあるのは、ただ冷徹な損得勘定だけだった。
(西との交易喪失。だがそれを上回るフリーランスの利権。そして巨大な帝国市場との交易路。なにより帝国という盾の絶大な安全保証……。ナガコト家が存続できればそれで良い。王という看板などどうでもいいのだ)
最悪、このリューベック王国が百年後、二百年後には帝国に吸収合併されたとしても、その時までにナガコト家が帝国で有力諸侯として盤石な基盤を築いていればそれでよい。
(まったく……これだから政治は重い。感情など一切不要だというのに)
アルベルトは再び溜息をついた。それは屈辱でも怒りでもない、純粋に国家の生存計算による精神的な疲弊だった。
(さて、次は面倒な国内の事後処理か。もっとも、すでに御前会議で決まった方針通りに交渉しただけだ。軍務省や内務省の連中とて、最低でも表立って噛みつくことはできまい)
文句があるなら、あの場で強引に天秤を傾けたブル公爵に言え。そう突き放せるだけのロジックはすでに構築してある。
彼は窓際に置かれた香草茶のカップを手に取り、冷めたそれを一息に飲み干した。その苦味が、外交交渉で消耗した精神にはちょうどよかった。
外交交渉という重圧を終え、執務室へと戻ったアルベルトは、首の裏を揉みながら大きく息を吐いた。
「……エミリア、今夜はエディトを寝所に呼んでくれ」
「まだあの年増に手を出すの?」
控えていた幼馴染の侍従武官、エミリアが露骨に呆れたような声を上げる。
エミリアは軍務卿レーベン伯の娘であり、アルベルトにとっては血の繋がらない兄妹のような、絶対の信頼を置く腹心だ。父のレーベン伯は彼女が王の寝所に侍ることを期待しているが、付き合いが長すぎる二人の間に、情欲など欠片も存在しなかった。
「彼女は確かに三十八歳だが、あの熟した豊満な身体が最高なんだよ。まあ、エミリアには解らないかもしれないけど……うん、もしかして妬いているのか?」
アルベルトが意地悪く揶揄うと、エミリアは腕を組んで冷ややかに言い放った。
「そんな訳ないじゃない。ちょっと自信過剰すぎよ。私はただ、貴方の熟女好きに呆れているだけ」
「いいだろ、これくらい。俺だって息抜きが必要なんだ。あの温もりがないと、帝国の理不尽な圧力なんかやってられないよ」
十五歳の少年らしい我が儘と、為政者としての疲労が混ざった声でアルベルトがぼやく。エミリアはそれ以上は何も言わず、「畏まりました」と形式的な礼をして退出していった。
その夜。
アルベルトの広大な寝室に、薄衣を纏った絶世の美女が静かに歩み入ってきた。
エディト・カルス。三十八歳という年齢を感じさせない艶めかしい美貌と豊満な肢体を持つ未亡人。五年前に夫を亡くし、十三になる息子と家を守るため、当時の庇護者であるブル公爵の愛人となり、その後アルベルトに献上されたという事情を持つ女である。
「お呼びでしょうか、殿下」
低く穏やかな声。気負いのないその様子は、アルベルトにとって心地よかった。
腹の探り合いは不要。
「殿下のご寵愛を得られれば私にも利がありますから」
と彼女が堂々と体を差し出すからこそ、アルベルトも気兼ねなく求めるのだ。
アルベルトはベッドに腰掛けたまま腕を広げた。エディトは恭しく近づくと、その逞しい首筋に細い腕を絡ませた。唇が重なる。彼女の舌は熱く、巧みだった。
「ん……殿下……」
甘い吐息。豊満な乳房がアルベルトの胸に押しつけられ、確かな弾力と温もりを伝えてくる。
(この女の肉体は最高だ)
それがアルベルトの評価だった。
ベッドに彼女を押し倒し、薄衣をはだけさせる。月光に照らされた裸身は芸術品のように美しい曲線を描き、汗ばんだ肌は蠱惑的な光沢を放っていた。
「あぁ……」
喘ぎながらもエディトは恍惚とした表情でアルベルトの背に腕を回す。
「殿下……もっと……激しく……」
貪欲な声。その要求に応えるようにアルベルトは彼女の首筋に強く吸い付き、白い肌に鮮やかな痕を残した。それは所有印というより、一種の契約印のように感じられた。
しばらく交わった後、アルベルトは汗を拭いながらエディトの横に身を横たえた。
彼女はしっとりとした肌をアルベルトの胸にすり寄せ、甘えるように囁く。
「殿下……今日はお疲れのようでしたわね」
「ああ……少し厄介な外交案件があってな」
アルベルトの手が無意識にエディトの豊かな髪を梳く。指が絡む感触が心地よい。
「でも……殿下はいつもお上手でいらっしゃる」
「お前もだな」
甘い会話。しかしアルベルトの精神は完全に醒めきっていた。
エディトの体温は確かに心地よい。熟れた女の肉体は欲望を満たすには充分すぎた。だがそれだけだ。エミリアに対する家族愛のような温もりも、アリシアに対する政治的打算もない。
(公爵家と俺との間でうまくバランスを取りながら生きていく賢しい女だ。そして息子と家を守るためなら、どんな屈辱も耐え忍ぶ覚悟のある気丈な女だ)
その賢明さと強靭な精神こそが、アルベルトが彼女を重用する理由だった。
(……極上の肉体を持った、都合の良い愛妾だ。だが、所詮は公爵家が差し出してきた飾りに過ぎない。愛着はあっても、それ以上の価値はない)
彼の脳裏にはそんな冷徹な算盤が立っている。エディトの呼吸の音、肌の温もりさえも、この計算式を彩る一つのデータに過ぎなかった。
甘いピロートークを交わしながらも、アルベルトの心は次の朝に控える国内の盤面へとすでに思考を巡らせていた。
明日の評定で、重臣たちにどう交渉結果を通達するか。
煩雑な事後処理を外務省の官僚どもにどう押し付け、帝国の威光を盾にして親フラリン派の不満をどう黙殺するか。
政治的な計算と肉の享楽という奇妙な共存が、アルベルトの内部では矛盾なく成立していた。
エディトの長い睫毛が月光に影を落とす。その穏やかな寝顔を見下ろしながら、アルベルトは静かに目を閉じた。
眠りに落ちるその刹那まで、彼の頭の中から政治という名の冷たい霧が晴れることはなかった。これが摂政の日常であり、未来を決する冷徹なゲームだった。
エディトとの時間はただの「休息(慰み)」に過ぎず、心は既に次の戦いに向けて冷たく研ぎ澄まされていたのである。
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