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第10話 ホルステン宮の御前会議――奪われた主導権(キャスティングボート)と、若き摂政の静かなる殺意

 聖歴一〇五六年、十月二十二日。夕刻。

 リューベック王国の中枢、ホルステン宮の大会議室では、国の命運を決する激しい議論が交わされていた。


「――以上が、帝国大使ローン伯爵から提示された『同盟』および『選帝公令嬢との婚姻』の条件である」

 円卓の上座で、摂政アルベルトが淡々と告げた。

 フリーランス王国全土の割譲と関税の大幅引き下げ。その美味すぎる餌と、そこに隠された『属国化』という猛毒を前に、重臣たちの意見は真っ二つに割れていた。


「断固反対する! 外務卿、貴公は我が国の屋台骨を折るつもりか!」

 内務卿アメルン伯が卓を叩いて叫んだ。

「フラリン王国は我が国のガラス製品の『最大の輸出先』だぞ! 五十年前、先々代が提案したガラスボトルがフラリンの超高級ワインをブランド化させ、今や一般のワインにまで広まっている。この巨大な輸出網が絶たれれば、フラリンの産業は死に、我が国の職人たちは路頭に迷うのだ! それだけではない。教会の権威が強いフラリンに対し、我が国のステンドグラスはほぼ独占状態にある。この莫大な利益を、帝国の気まぐれな同盟のためにドブに捨てるというのか!」


 国家予算の崩壊という現実的な恐怖を訴える内務卿に対し、親帝国派の外務卿ラーセン侯が冷ややかに反論する。

「……内務卿殿、経済の理屈は重々承知している。だが、帝国軍が国境を越えれば、ボトルもステンドグラスも、それを作る職人もろとも灰になるのだ。フラリンが西の内乱に足を取られている今、誰がその『交易』を守ってくれるというのだ?」

「むぐ……っ」

「それに、帝国三大公であるピルイン家の令嬢を王妃に迎えることも、決して悪い話ではあるまい。建前こそ我がナガコト王家が格上だが、選帝公は帝国の皇帝選出権の半分を握る怪物。実際の力関係は小国の王家よりも上なのだからな」


「馬鹿な! そんな劇薬を招き入れれば、この国が内側から乗っ取られるぞ!」

「ならば、その劇薬を拒んで八万の帝国軍を敵に回すか!」

 親フラリン派と親帝国派の激しい怒号が飛び交う。

 そんな中、最大派閥である軍務卿レーベン伯は目を閉じ、沈黙を保っていた。

(帝国軍と正面から戦うのは不可能だ。同盟は避けられない。だが、ここで私が賛成すれば『エミリアを王妃にする目論見を自ら諦めた』と派閥の者たちから突き上げを食らう。……ここは静観し、アルベルト殿下が自ら『帝国派』へ場を誘導するのを待つとしよう)

 百戦錬磨の軍務卿は、自らは泥を被らぬよう狡猾に立ち回っていた。


 白熱する議論を断ち切ったのは、最古参の重鎮、老将アイザック・ロブェネルだった。

「両卿とも落ち着かれよ。……我々は現実を見ねばなりません」

 アイザックの重い声に、議場が静まり返る。

「西のアストゥリウ内乱はいずれ終わる。フラリン王国が西の問題を解決して東進すれば、巨大な大戦となるのは必定。交通の要衝である我がリューベックが『中立』を維持することなど不可能なのです。帝国かフラリンか、どちらかにつくしかない。……そして現在、目前に迫っているのはフラリン軍ではなく、帝国軍ですぞ」


(――よし、場は温まった)

 上座のアルベルトは内心で舌舐めずりをした。

 激論を戦わせ、選択肢を極限まで絞り込んだこの拮抗状態。ここで摂政たる自分が「フラリンが東進してくる前に、帝国の傘に入り実利を取る」と見事な演説をぶち上げ、会議をまとめ上げる。そうすれば、重臣たちも自分の政治的影響力にひれ伏すだろう。


「……諸卿の懸念はもっともだ。だが、私の結論は出ている」

 アルベルトが堂々たる威厳をもって立ち上がり、口を開きかけた――その瞬間だった。


「――我が公爵家は、帝国との同盟を支持する」

 最前列に座る大柄な男が、腹の底に響く声で割り込んだ。

 ブル公爵。建国王と共に国を創った『共同創業者』の末裔にして、リューベックで唯一の公爵位を持つ、王家と並ぶ不可侵の大貴族である。


「フラリンが西で泥沼の戦いをしている今、目前の帝国の不興を買うのは得策ではないからな」

 ブル公爵のその鶴の一声で、親フラリン派の内務卿たちは一斉に口をつぐんだ。王家すら無下にはできない特権公爵家が天秤に乗った以上、このキャスティングボートによって、会議の大勢は一撃で決してしまったのだ。


(……あの、タヌキ親父が!!)

 アルベルトの顔は氷の如き平静を保っていたが、腹の中は煮えくり返っていた。

 彼がまとめ上げるはずだった最高の一手(見せ場)を、横からあっさりと強奪されたのだ。アルベルトがここで「フラリンにつく」と反対すれば再び拮抗するが、彼自身も帝国と同盟するしかないと分かっている以上、ブル公爵の意見に便乗(乗らされた形)するしかなかった。

(前王太子(兄上)が死んで少しは大人しくなるかと思えば……。俺の影響力拡大を阻む獅子身中の虫め。いつか必ず、その公爵位ごと根絶やしにしてやる!)


 摂政の静かで苛烈な殺意など露知らず、ブル公爵は鷹揚に頷いていた。

(ふむ。若い殿下が厳しい決断を下す重荷を、少しは軽くしてやれただろう。我がブル公爵家は王家と同族。いざという時は、我らがこの国を支えてやらねばな)

 公爵は本気で「王家のための無邪気な手助け」をしたつもりであった。


 斯くして、致命的な認識のズレと殺意を抱えたまま、リューベック王国は「フラリン軍の脅威に備え、帝国の要求を受け入れつつ時間を稼ぐ」という方針を決定した。


 ――彼らは知る由もなかった。

 彼らが恐れ、そして時間を稼ぐための絶対の前提としていた『無敵のフラリン王国軍』が、まさにこの日の夜、はるか西方の地で物理的に消滅させられようとしていることを。

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