第9話 ラーンベルク夜襲戦(下)
「何故だ!? 何故こんなことが起こる!?」
つま先まで覆う豪奢な黄金の甲冑を急ぎ身につけ、天幕の外へ出たフラリン国王メンデル二世は、自らの目が捉えた光景を信じることができなかった。
本営を守備していたはずの将兵は、狼に襲われた羊の群れのごとく追い散らされ、すでに死骸の山と化している。
そればかりか、いかなる敵の接近をも許さないはずの本営の眼の前に、黒衣の軍団が殺到していたのだ。
(こいつらはいったい、どこから現れたのだ!?)
いくら考えても答えは出ない。だが、その間にも破局は致命的な速度で進行していた。
もはや本営周辺のフラリン軍は消滅したも同然。最後に残された近衛隊(本陣守備部隊)が、国王の天幕を懸命に死守しているという絶望的な状況である。
「こんなふざけたことがあって良いはずがない……」
粗末な黒鉄の武具をつけた敵兵に、きらびやかな金銀の甲冑をまとった近衛兵が次々と屠られていく。メンデル二世が虚しい譫言を呟いたその時、ついに近衛隊の防衛線が限界を超えた。
フラリン兵たちは逃走の足手まといになる弓や槍を投げ捨て始めた。踏みとどまれと叫ぶ指揮官に襲いかかり、馬を奪って逃げる者すらいる。
「陛下! 西方へ逃れ、主力軍と合流して再起をお図りください!」
呆然とするメンデル二世に向かって、側近である侍従武官の一人が絶叫した。
その声で王も我に返る。このままでは討ち死にどころか、不名誉な捕虜として辱めを受ける。
「馬を引け!」
王の命を受け、愛馬が引き出されたその瞬間――薄紙のようだった近衛隊の最終防衛線が完全に食い破られた。
黒い雪崩が金銀の点を飲み込み、メンデル二世の背後にはためくフラリンの国旗めがけて真っ直ぐに押し寄せる。
その先頭を駆ける、約三十騎の黒き騎士たち。彼らは味方の軍勢から突出することも厭わず、ただフラリン王の首一つを狙って突進してくる。
無謀とも言えるその行動に、メンデル二世の侍従武官たちが憤怒の叫びを上げた。
「命知らずが!」
「貴様らの思い上がり、すぐに後悔させてやるわ!」
超大国の国王の側近たる彼らは、腕に覚えのある精鋭中の精鋭だ。四十騎の侍従武官が、黒の騎士たちへと迎撃の突進を仕掛ける。
両軍が激突し、凄まじい衝撃音が夜の広野に響き渡った。
だが――馬から落ち、槍に貫かれたのは、そのほとんどがフラリンの侍従武官たちだった。彼らの卓越した武芸も、死地を潜り抜けてきたアストゥリウの黒き騎士たちの前では無力に近かった。
侍従たちを蹴散らした黒の騎士が六騎、ついにメンデル二世を取り囲む。その中の一騎が、ゆっくりと王の眼前に進み出た。
「何奴だ!?」
メンデル二世が叫ぶと、馬上から見下ろすその騎士は、静かに兜に手をかけ、それを夜空へと投げ捨てた。
月光に照らし出されたのは、少し長い紫色の髪と、美しくも冷酷な青年の顔。
「……貴様は、フェリオル・オーギュースト!」
メンデル二世の咆哮に、フェリオルは不敵な笑みで応じた。
「アストゥリウ王国との不可侵条約を破りし、不義の王メンデル二世・フッテンボルクよ。そなたの汚れた身を、アストゥリウ国王フェリオル・オーギューストがこの手で討ち取ってつかわす」
フェリオルの紫の瞳に、絶対的な勝利の確信がみなぎる。
「光栄に思うがよい!」
「黙れ! 汚らわしい父殺しめが!」
メンデル二世は黄金の剣を抜き放ち、馬を蹴ってフェリオルの胴を薙いだ。
だが、フェリオルが軽やかに剣を一閃させると、王の渾身の一撃はまるで子供の玩具のように弾き飛ばされた。
体勢を崩し、立ちすくむメンデル二世の胸元に、冷たい剣先が突きつけられる。
「……斬れ。捕虜の辱めは受けぬ」
死を悟り、蒼白になりながらも、メンデル二世は最期に王としての誇りを見せた。
「そうか。ならば死ね、メンデル二世!」
フェリオルの剣が、一切の躊躇なく突き出された。
黄金の甲冑ごと肉体を貫かれたフラリン国王の巨躯が、馬から崩れ落ち、地響きを立てて地に伏した。不安定な馬上から、厚い甲冑を容易く貫徹するその膂力は、もはや人間の域を超えていた。
フラリン国王、討ち死に。
この瞬間、事実上の勝敗は決した。だが、奇跡的な大勝を収めたフェリオルの横顔には、なぜか深い憂いが影を落としていた。
(……アラン。これで私は、そなたの仇になってしまったな。だが、お前が私に立ち向かわなければ、戦わずに済む。そうすれば、これ以上ジルを悲しませずに……)
亡き親友と、遺された者の顔が脳裏を過る。
死闘の最中らしからぬ感傷は、地を揺るがすような兵士たちの歓声によって断ち切られた。
『フェリオル王、万歳!』『我らの王!』
自ら敵王を討ち取った若き覇王へ、兵士たちが心からの熱狂を捧げている。
フェリオルは感傷を振り払い、高く剣を掲げた。
「皆の者! この戦い、我々の勝ちだ! このままラーンベルク要塞を包囲する敗残兵をすり潰せ! ナーロッパ中の豚ども(王侯貴族)に報せてやれ! お前たちの時代は、まもなく終わると!」
振り下ろされた剣を合図に、黒の軍勢が西へ向けて雪崩れ込む。
時を同じくして、本営陥落の角笛を聞いたリカルド・アノー軍団もまた、包囲軍の背後を突くべく西へと進路を変えていた。
* * *
「……膠着状態に陥ったか」
ラーンベルク要塞を包囲する軍務卿ローベル公は、馬上にて深く安堵の息を吐いた。
要塞から打って出た一万の敵軍に押されていたが、戦線が膠着したのなら問題ない。あとは兵力差に任せた消耗戦に持ち込めば、六万を擁するフラリン軍の勝利は揺るがない。
ローベル公がそう確信した時、東の闇の中から一騎の伝騎が転がり込むように駆け込んできた。
「軍務卿ローベル閣下! 軍務卿ローベル閣下!」
誰何の手順すら省略したその悲痛な声に、ローベル公は嫌な予感を覚え、自ら馬を進めた。
泥だらけの伝騎は下馬の礼すら忘れ、絶叫する。
「後衛軍、背後から敵襲を受け、潰走しつつあり! 後衛軍司令官アエン伯直率の第一連隊、潰走! 第二、第四連隊、潰走! 至急、援軍を!!」
「な、に……!?」
信じられぬ凶報に、ローベル公の顔から血の気が引いた。
背後――つまり、国王陛下の本営が置かれている方角からの敵襲。それが意味することは一つしかない。
本営が、そして二万の予備戦力が完全に壊滅したのだ。
背後を衝かれた軍に、前線から兵を引き抜いて回す余裕などない。そもそも、王が討たれた軍隊が、士気を保てるはずもなかった。
フラリン軍の崩壊は、もはや秒読み段階に入っていた。
* * *
「この戦い、勝ったな」
ラーンベルク要塞の城壁から、フラリン軍後衛が無様に潰走していく様子を見下ろし、半白の老将――カリウス・オブラエンは静かに呟いた。
本営が陥落し、背後を突かれたとなれば、寄せ集めの徴兵や傭兵が戦意を保てるはずがない。いずれ蜘蛛の子を散らすように逃げ出すだろう。
敵に態勢を立て直す時間を与えるほど、この老将は甘くない。
「よし、このまま一気に敵軍を崩す。要塞内に残る予備兵力を全て投入し、総攻撃を開始せよ」
「ハッ! 直ちに角笛を鳴らさせます!」
走り去る副官の背中を見送り、オブラエンは誰に聞こえるでもなく呟いた。
「……流石はフェリオル陛下。陛下のもとで、時代が変わる」
* * *
ラーンベルク包囲軍四万に対し、挟撃するアストゥリウ軍の総兵力はわずか二万。
兵力差だけを見れば、フラリン軍が各個撃破することも十分に可能だった。だが、「本営陥落」と「国王討ち死に」という絶望的な凶報が、四万の大軍から一切の抵抗の意志を奪い去っていた。
戦意を喪失したフラリン兵たちは、武器を捨て、我先にと闇雲に逃走を始める。
さらにこの劣勢を見て、ヘルメス派として参陣していたアストゥリウ諸侯や、一部のフラリン諸侯までもが突如として反旗を翻し、逃げ惑う味方に牙を剥き始めた。
裏切りとパニックの連鎖。包囲軍は半ば自滅に近い形で、完全に瓦解した。
混乱の中、戦場から逃れようとした軍務卿ローベル公は、リカルド・アノーの軍団に捕捉され、一騎打ちの末に討ち取られた。同じく逃亡を図ったヘルメス王子も、最期は彼を担ぎ上げた諸侯の一人に裏切られ、その首を落とされた。
ここに、後に「ナーロッパ三大夜襲戦」の一つとして語り継がれる『ラーンベルク夜襲戦』は終結した。六万を誇った超大国フラリンの軍勢は、その大半が死体と化すか、捕虜となるという、歴史的な大敗北を喫したのである。
そして――この戦いからわずか三日後。
アストゥリウ王国軍は国境を突破し、事実上軍隊を喪失したフラリン王国本土への「電撃侵攻」を開始することになる。
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