第13話 真綿の首輪と逆転の一手――海を懸けた盟約と、冷酷なる独裁の序曲
同日、午後。
ホルステン宮の大会議室は、午前中のパニックを遥かに凌ぐ、重苦しくも熱を帯びた喧騒に包まれていた。
「……各方面の諜者から届いた伝書鳩の報告を統合した結果です。詳細は不明ですが、フラリン遠征軍の主力がラーンベルクにて大敗を喫し、国王メンデル二世が討ち死にした可能性が極めて高いとのこと」
軍務卿レーベン伯が苦渋に満ちた声で報告書を卓に置くと、議場にどよめきが走った。
「馬鹿な……我が国の最大の交易相手が崩壊したというのか!?」
「問題は経済だけではないぞ! フラリンという牽制の重りが消えた今、帝国がわざわざ我が国にフリーランス王国を与え、同盟国として遇する理由が消滅した。最悪の場合、方針を転換し、我が国ごと直接武力併合に乗り出してくる危険性がある!」
親フラリン派と親帝国派がそれぞれに悲鳴を上げる。だが、彼らは小国を支え続けてきた有能な官僚機構の長である。ただ絶望に染まるだけの集団ではなかった。
「……いや、待たれよ。フラリンの脅威が消えたのならば、むしろ我が国にとって好都合に働くのではないか?」
内務卿アメルン伯が、ふと目を輝かせて声を上げた。
「どういう意味だ?」
「フラリンの遠征軍が崩壊しようと、教皇庁と東の超大国ヒサデイン帝国は健在だ。ロアーヌ帝国を『逆賊』と憎悪するヒサデインが、帝国の西進を黙って見過ごすはずがない。彼らが教皇庁の資金援助と組み、フラリンの反ロアーヌ派諸侯を裏から支援すれば、ロアーヌ帝国は西側の平定だけで泥沼に陥り、手一杯になるはずだ!」
「なるほど……!」と、外務卿ラーセン侯も膝を打つ。
「さらに言えば、我が国には高級ガラスや陶器の独占的な生産インフラがある。帝国とて、この金の卵を産む鶏をわざわざ武力で焼け野原にはしたくないはず。帝国が西で足踏みをしている間に、昨日結んだ『関税大幅引き下げ』の通商条約が活きてくる。我が国の利益は、かつてないほど拡大するぞ!」
大陸全土の勢力図を俯瞰した、極めて理にかなった楽観論。その鮮やかな皮算用に、議場は安堵の熱気に沸き立ちかけた。
だが――上座のアルベルトは、酷薄な冷笑を浮かべていた。
「……なるほどな」
アルベルトは静かに頷いた。その声には嘲笑も憐憫もない。ただ底知れぬ冷たさが漂っていた。
「貴卿らの読みは素晴らしい。確かに教皇庁は先の戦いの屈辱から帝国への反感が強い上、何より自らの庭であるテラン半島に帝国の脅威が直接及ぶことを極端に恐れている。ヒサデイン帝国もまた、教皇庁と結託してロアーヌの巨大化を牽制したいと考えているだろう」
「でしょう! ならば我が国は――」
ラーセン侯が希望に満ちた眼差しを向ける。だがアルベルトは静かにそれを遮った。
「だが忘れてはならない。ヒサデイン帝国は『四方』に火種を抱えた超大国だということを」
軍務卿レーベン伯が補足するように言葉を継ぐ。彼の鋭い視線は、安堵に浸りかけていた重臣たちを一喝するように向けられた。
「北では異教徒クマン族との睨み合いが続き、南大陸ではザマー教国家の連合軍が蠢動している。東の生命線であるアナストル半島でも残党の反乱が絶えん」
レーベン伯の言葉は現実主義に満ちていた。
「つまり、ヒサデイン帝国に西へ大軍を派兵する余裕などない。教皇庁やヒサデインの莫大な資金でフラリンの残党を裏から支援したところで、ロアーヌ帝国の圧倒的な暴力の前には、時間稼ぎの小石程度の意味しか成さんということだ」
議場がざわつく。誰もが認めたくない現実を突きつけられたからだ。
アルベルトはさらに追い打ちをかける。
「そして肝心なのはここからだ。フラリンという『軍事的な重り』が消えた今、帝国が我々に譲歩する理由は一体どこにある?」
内務卿アメルン伯が顔色を変えた。
「で、殿下! だからこそ、我々の生産インフラが盾になるのでは……!」
「ああ、帝国は金の卵を産む鶏を、わざわざ武力で殺しはしないだろう。……だが、生かしておくとも限らんぞ」
アルベルトの声は刃のように鋭かった。
「武力で脅しをかけながら、当初の関税引き下げなど簡単に撤回し、一方的な不平等条約を押し付ける。抵抗すれば『保護』という名目で軍を進める。我々は武力では太刀打ちできず、かといって経済制裁にも耐えられない」
重臣たちの間に沈黙が落ちる。彼の言葉が意味するところを皆が理解し始めた。
「そうなれば……我が国は……?」
誰かがか細い声で呟いた。アルベルトはその問いに答えを突きつけた。
「血の一滴も流れることなく『死ぬ』のだ」
氷の声が大会議室に響き渡る。
「我が国の軍は帝国の下請けとして酷使され、王家は名ばかりの属国、あるいは一介の帝国諸侯へと格下げされて帝国の経済システムに完全に組み込まれる。自由な交易は制限され、我々のガラスも陶器も、すべて帝国の利益のためだけに安値で搾取される……これが真の『属国』の姿だ」
重臣たちの顔からは一斉に血の気が引いた。彼らが今まで見据えていた甘い未来図は粉々に打ち砕かれた。そこにあるのは、抗うことのできない経済的奴隷の未来像であった。
恐怖と絶望が議場を覆う中、アルベルトだけが冷静だった。いや、彼にとってはこれが現実であり、戦うべき盤面だった。
「……しかし殿下。裏を返せば、これは唯一の付け入る隙でもあります」
沈黙を破ったのは、外務卿ラーセン侯だった。外交の長としての矜持が、彼に絶望の中で策を絞り出させていた。
「我が国がこの情報を得たのは、独自の諜報網と伝書鳩によるもの。帝国中央がこれを把握し、辺境駐在のローン大使に正確な情報が下達されるまでには、どうしても数日のタイムラグが生じます」
「その通りだ、外務卿」
アルベルトは頷き、冷たい瞳に好戦的な光を宿した。
「我らが持つこの『鮮度の高い情報』は、帝国にとって喉から手が出るほど欲しいはずだ。これを明朝、正式な会見でローン大使に提示し、恩を売ることから始める」
議場にわずかな希望の光が差した。アルベルトは続けて、冷徹な決断を叩きつける。
「その上で、我々は同盟国として帝国北部諸侯軍への『軍事通行権』と『補給支援』、そして我が軍自らの『出兵』を約束する。……切り札は、我が国の海軍だ」
「……っ!」
軍務卿レーベン伯が、主君の意図に気づき息を呑んだ。
「帝国の北部諸侯が持つ水上戦力など、所詮は海賊対策の沿岸警備レベルに過ぎん。対して、我がリューベックの海軍ならば、フラリン属国群の海上戦力を容易く圧倒できる」
アルベルトは不敵な笑みを深めた。
「我々が制海権を握り、海路から莫大な物資を運び込んで帝国軍の補給(腹)を支える。陸の帝国軍と、海の我が軍の連動侵攻だ。これが実現すれば、帝国は無駄な血を流すことなく、迅速に西側地域を平定できる」
その完璧な軍事的合理性に、重臣たちの目が大きく見開かれた。
「ただ助けを請うのではなく、帝国の急所である『兵站』を我が国が握るのだ。この逆提案こそが、我が国が帝国の奴隷に堕ちず、不可欠な軍事パートナーであり続ける唯一の道だ。……明日の会見、交渉の席は私が引き受けよう」
会議室は重い静寂に包まれた。誰もが若き摂政の冷徹な判断力と覚悟に圧倒されていた。
十五歳の少年は、もはや幼さの欠片もなく、一人の老獪な為政者として眼前の重臣たちを見下ろしていた。
(……いずれ、目障りなブル公爵家は粛清する)
アルベルトの心の奥底で冷酷な声が囁く。
時期や方法はまだ分からない。エディトは都合の良いお気に入りの妾に過ぎず、彼女の背後にあるカルス子爵家の存在など、もとよりアルベルトの眼中にはなかった。いずれ公爵家を盤上から払い落とす時が来れば、その盤面に合わせて必要な整理を冷徹に行うだけだ。
今は眼前の重臣たちを使い潰すのみ。この危機を利用して権力を完全掌握し、最終的に邪魔者はすべて消す……それが為政者としての俺の義務だ。
リューベック王国最大の危機。その中で、摂政アルベルト・ナガコトの権力掌握のゲームは新たな局面を迎えていた。その冷たい瞳の奥に、凄惨な炎のような野心が静かに燃えていた。
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