第十話
私は香織と若菜を連れて、今はほとんど使われていない一室に入った。そこは応接室か何かで、低いテーブルを囲むようにソファが配置されていた。
「座って」
彼女らに座る様に促し、自分もソファの一つに腰を下ろした。彼女らもそれに倣う。
香織は呆然と俯いていて。若菜は私をじっと睨んでいた。
「香織が涼香さんから何て言われたのか知らないけれど。恐らく彼女は一部の事実だけを香織に突きつけて、誤解させる様なことを言ったのでしょう」
私の言葉に、香織は怪訝そうな目を向ける。
「どうしてそんなことを?」
香織の代わりに、若菜がその質問を口にした。
「もちろん、小暮君を香織に取られたくないからよ」
私はさも当然の様に、肩を竦めて言った。
「どうしてさ? 香織は春人さんと婚約してるのに、どうして小暮君の話になるの?」
事情を知らなければ、当然の疑問。
「今日、香織に来てもらったのは──春人さんとの婚約を解消して貰うためなのよ」
「……はあ!?」
若菜は驚いていたけど、香織は悲しそうに俯いただけだった。涼香さんに言われた何かが、彼女にそれを思い至らせた様子。
それを見て取ったのか、若菜は香織の方を向いた。
「香織、あの女になんて言われたんだ?」
「……春人さんは、呪われていた私に同情して……一族を代表して私の代わりに死んでしまうのよ、って。それなのに、あなたはその彼を見捨てるの、って……」
香織はまた涙ぐんでしまった。
「なんなのよ、それ……。──どうなの?」
若菜がその答えを私に問う。
私は頭を振った。
「一部に誤りがあるわ。香織が呪われていたのは本当のことよ。春人さんが一族を代表して行動していることも本当。香織の代わりに死んでしまうのも本当。だけど、決して、同情とかでは無いのよ。彼は、香織のことを愛しているから、香織のために死ぬのよ」
どちらにしても、香織にとって、心を押し潰されてしまいそうな事由。だけど、決して同じでは無い。
「その事実関係だけ聞いても、訳が判らないよ。経緯から説明して貰えるかな?」
考え込んでしまう香織の代わりに、若菜がどんどん質問を投げてくる。そうしてくれることが判っていたから、私は若菜もここに同席させているのだ。
「香織や春人さんの家系は、昔から呪いを扱っていた一族なの。人を呪ったり、呪いから守ったり。そういう家業を続けていたらしくて、敵も多かったみたいなのよ。色んなところから恨みを買っていて、一族全体に呪いを掛けられることも度々あったらしいわ。少々の呪いなら跳ね除けることも出来るみたいだけど、それが出来なくなりそうな時は、守護者を立てるそうよ。……守護者と言うのは、避雷針の様に呪いを自分に引き寄せて、一族全体を守って死ぬ役目を負うらしいわ。だけど、今回は……何故か香織が守護者になってしまった」
香織には、そんな話は伝えられていないけど。香織の両親はそのことを知っている筈だった。だから、幼少の香織に婚約をさせて、香織を守ろうとしたのだ。
香織と若菜は、私の話に呆然としていた。
「信じられないかもしれないけど、そういう物として頭に入れておいて。でないと話が続けられないから」
二人はただ頷いた。
「呪われて育った香織は、病気や怪我が絶えない子供だった。だけど、春人さんと婚約して以降は、そんなことは無かったでしょう? 呪いを扱う彼らにとって、婚約というものは力を持った契約の一種なのよ。その契約書には、香織が負う一切の厄災を春人さんが引き受けると書かれていて。春人さんは次第に、呪いに蝕まれて、香織に会いに行けなくなってしまったのよ。小暮君や涼香さんが、香織のことを憎んでいたのは、それが許せなかったからなの。香織は全く知らなかったことなのにね」
香織は私の説明にショックを受けているみたいだった。
「小暮君が香織のことを守ろうとしていたのは、春人さんのためでもあったのよ。あなたの心身に負荷が掛かったり負の感情に支配されたりしてしまうと、春人さんにまで影響してしまうし、余計な呪いを招き入れる可能性もあったから。そういう意味では、小暮君が香織に冷たく振舞うのは得策ではなかった筈なんだけどね」
私は思わずため息を吐いた。
「そして、とうとう春人さんに限界が来てしまったの。小暮君も、春人さんが引き受けた呪いの一部を自分の体に移して支えていたんだけど、それでももう限界で」
「……えっ?」
香織が驚愕の目で私を見た。春人さんのことより、小暮君のことの方が気になった様子で。私もこれには苦笑いするしかなかった。
「このまま春人さんが死んでしまったら、これまでの呪いが再び香織の方に戻ってしまうかもしれないの。だから、今の状態のままで、香織との婚約を解消させようとしたのよ」
「……婚約を解消したとして。その後、春人さんはどうなるんだ?」
思案している香織の代わりに若菜が問う。
「……小暮君が預かっている呪いも春人さんに返して。その後、春人さんを呪いごと封印するのよ。当然、春人さんは助からないわ」
「そんな……」
私の言葉に、若菜は愕然として固まった。
香織はそのことを察していた様子で、黙って俯いていた。
香織の代わりに春人さんが死ぬという事実が、彼女の心に重く圧し掛かっているのだろう。
やがて、彼女は当初の懸念を口にする。
「それが、どうして……同情ではなく、愛情だと言い切れるの?」
「香織……私は、あなたにそれを疑って欲しくは無いの。例え、あなたの気持ちが他の人に向けられていたとしても。春人さんは間違いなく、あなたを愛しているのよ。そこには、家族愛的なものもあったのかもしれない。だけど、香織個人に向けた愛情が無ければ、彼は人柱になることを敢えて選ぶことは無かったでしょう」
私は、春人さんに同情して涙を流してしまう。彼は、私なんかに同情されたくは無いだろうけど。
春人さんは、香織に愛されていないことを察していたけれど。だけど、香織に彼のことを疑って欲しくは無かった。
「だから、どうしてそう言い切れるんだよ?」
若菜から追求される。やはり言わなければいけないのか。
「何故なら、彼らは──香織を人柱にすることだって出来たのよ?」
不穏当な事柄に、彼女らはショックを受けたように固まった。
「彼らが一族のためだけを考えるのであれば。呪われる以外に能力を持たない香織を人柱にして、呪いを扱う能力がある春人さんが生きていた方がいいと思う筈でしょう? 香織がある程度の呪いを引き受けてしまえば、当面の危機は脱することが出来る筈だから。それでも春人さんは、香織のために自分の全てを投げ出して、その苦しみを一身に引き受けて……そして香織のために死んでいくことを選んだのよ? それが愛でなくて、何だって言うのよ!?」
春人さんの想いを判ってもらえないでいることが苦しくて、つい叫んでしまった。
香織は、胸に手を当てて、私の言葉を噛み締めていた。これまで、不安で仕方がなかった香織の心中を埋めるかのように。
でも、まだ話は終わっていない。
「春人さんが生きているうちに、香織との婚約を解消しないと、春人さんの犠牲が意味を成さなくなるかもしれないの。そして、次の婚約が結べないのよ」
「えっ?」
次の婚約。それは、香織にはこれまでの話とはまた別の次元で、思いもよらない話だろう。
「それが本当に必要なことなのか、私には判らないのだけど。小暮君は、あなたと婚約する気でいるみたいよ? ……あなたがそれを受けるかどうかは、あなた次第なんでしょうけど。あなたのご両親は既に承諾なさっているみたいだけどね」
香織は複雑そうな顔をしていた。彼女の戸惑いは、判る。それこそ、色んな理由で躊躇してしまうことも。だけど。それでも彼女はそれを受け入れると思う。
絶望ばかりでは彼女も気が滅入ってしまう。打算的希望でもいいから、彼女には拠り所が必要だと思って、先のことまで話したのだった。
落ち着いた香織を連れて、春人さんの下に戻った。
若菜はまだ納得していない様子だったけど、香織は私の言葉を受け入れてくれた。
香織は春人さんとの婚約解消に応じた。
その儀式の最中、彼女は眠ったままの春人さんと口付けを交わした。それは、恐らく儀式とは関係無い行動だったのだと思う。
その光景に、小暮君は涙を流したのだった。
無事、婚約解消の儀式が終わって。私たちは家に戻された。今日のところは、小暮君との婚約はしないらしい。
春人さんの封印を行うのが先なのだろう。それについては、私たちが見る必要は無いということか。ひょっとしたら、涼香さんの意向が受け入れられたのかもしれない。
「……美弥子、ごめん」
帰りの車の中で、若菜が私に向かって謝罪を始めた。
私は何に対しての謝罪なのかと首を傾げた。
「あんな話、言えなくて当然だよねって思った。美弥子が、香織のために言わないって言っていたことを、あたしはずっと疑ってた。だから、ごめん」
若菜の素直な謝罪。
「いいのよ。あれでは仕方が無いと思うから」
そう。何も聞かずにあんなことを理解しろとか無理な話だからね。
翌朝。大仕事を終えた安堵からか、私は少し寝坊してしまって。学校に着くのが結構ギリギリの時間になってしまった。
香織も、夕べは色々と考え込んで眠れなかったのか、眠そうな顔で登校してきた。
「おはよ~」
若菜は恐らくこれがいつもの登校時間なのだろう。示し合わせた訳でも無いのに、下駄箱で三人顔を合わせたのだった。
並んで自分たちの教室に到着すると、中から何時にない喧騒が聞こえてきた。特定の誰かの声ではなく、教室全体がざわついていて。他のクラスの女子まで教室を覗き込んでいた。
何事だろうかと、私たちは顔を見合わせて。だけど、とりあえず中に入ることにした。
「おはよう。今日は遅かったね」
私たちが中に入ると、爽やかな笑顔を振りまく好青年が声を掛けてきた。何の錯覚か、彼の周囲に舞台装置の様なエフェクトが掛かって見えた。
その、あまりに印象が変わっている彼に、私は言葉を無くした。
香織は、懐かしいものでも見るかのように、呆然としていて。
若菜に至っては、口をあんぐり開けて、持っていた鞄を落としてしまった。
「ははっ。東海林さん、大丈夫ですか?」
彼は爽やかに、若菜の鞄を拾って、彼女に返した。若菜は、ただ諤々と頷いていた。
「香織。今まですまなかった……。もう、隠し事なんてしないから、ね」
彼は沈痛な面持ちで、優しく、香織に謝罪した。
香織はハッと息を飲んで。頬を赤く染めて、黙って頷いた。久しぶりに彼の素顔が見れて、嬉しそうだった。
そう。この爽やか好青年が、小暮君の素の顔なのだろう。これまで、呪いの一部をその身に引き受けて。精神的にも肉体的にも、ずっと苦痛に苛まれていたから、いつも不機嫌そうに、それを物静かに堪えていたのだ。
その彼の変貌ぶりを見て──私はまた涙を流してしまった。どうしても春人さんのことを想ってしまう。一部の呪いだけで、あんな風になってしまうのだ。春人さんがどれほどの責め苦をその身に受けていたのか、私には想像すらできなかったけれど。私が会った時には既に意識もなかったけど、まだ動くことが出来ていた頃でも、香織の前でそんな素振りを見せたくなくて、会うことをしなかっただろうと容易に想像出来た。
そんな私を見て。小暮君は、自分の席の方まで私を引っ張っていった。
「君は、またあの人のために泣いてくれているんだね……」
彼は自分のハンカチで、私の涙を拭ってくれた。
「正直……君を見ていると、俺は自分の未熟さを思い知らされる……冷静でいられない自分に」
彼も、涙を浮かべていた。
「春人さんの封印は終わったけど、彼の肉体はまだ生きていて……多分、今日明日中には、彼の命は尽きてしまうだろう」
彼は無念そうに俯いて。そして、また私の方を見た。
「君にお願いがある。春人さんの葬儀に、一緒に参列して欲しい」
「……うん、判った」
私は、愛に殉じた春人さんのことを心から敬愛していた。だから、彼とは無関係の私だったけれど、最後のお見送りには参じたかった。
そんなやりとりも終わって。私たちはふと今の状況に気付いてしまった。また教室で、周囲に誤解を与えるような行動をしてしまったことに。
香織は先ほどとは打って変わって、涙目になっていて。
若菜も私に文句が言いたそうにこちらを睨んでいて。
クラスメイトたちは、好奇な視線を遠慮なく向けていた。
その様子に、私は小暮君と目を見合わせて。
「ふふっ」
「あははははっ」
二人して、声に出して笑ってしまった。何度やっても慣れないし、懲りない私たちに。
小暮君のことを、多分、私も好きになってしまっていたけれど。彼はもうすぐ香織のものになってしまうだろう。
だから、今この瞬間くらいは。誤解でもいいから、普段は脇役ポジの私でも、そういう気分を味わっても罰は当たらない筈、などと思ってしまった。
この話はここまでとさせていただきます。
読んでいただき、ありがとうございました。




