エピローグ
しとしとと雨が降っている。
ガラス窓に当たって弾ける雨粒を見つめながら、私は小さくため息をついた。
雨の日は、なんとなく憂鬱になる。重ったるい灰色の空が理由なのか、それとも圧し掛かるような湿った空気が理由なのか、もっと別の理由があるのか、それは私にはわからない。
「せっかく新宿に行こうって思ってたのに」
私は、膝の上で眠る子犬を撫でながら呟いた。
今日は、せっかく新宿へ買い物に出かけようと思っていたのに、こんな雨の日は買い物に出かける気を失せさせる。今日は一日、部屋で大人しくしていよう。諦めたようにため息をついた時、ドアが開く音が聞こえた。
「あれ? 澪、今日は出かけるんじゃなかったの?」
そこにいたのは、母親だった。
シャワーで濡れた髪をタオルで拭きながら、少し驚いたように目を開けている。私は、困ったように笑った。
「なんか今日行かなくてもいいかなって。それに、誰かと待ち合わせしてたわけでもないし」
「まあ、行く気失せるよね……この雨じゃ」
母親は肩をすくめると、リモコンを手に取った。
雨音が聞こえるくらい静かだった部屋が、唐突に騒がしくなる。私は、母親が適当にチャンネルを回す姿をぼんやり眺めていた。
「そういえばさ、澪ー」
「……なに?」
「アンタさ、友達いないの? せっかく買い物行くなら、友達誘えばいいじゃない」
「だって、みんな部活とか塾なんだよ。夏休みだから、みんな忙しいの」
「中学の時の子は?」
「誘いにくいよ。幼馴染でもあるまいし」
その時、金髪の美少女の姿が脳裏に浮かんだ。
だけれども、はっきりと思い出すことが出来ない。誰なのか名前を思い出そうとしたけれど、すぐに靄がかかったように分からなくなってしまう。私は首を横に振った。思い出せないのだから、大した知り合いでもないのだろう。それに、私は生粋の日本人だ。日本生まれ日本育ちで15年余り、同年代の外人なんて直接見たことはなかった。
「そういうもの?」
「そういうものなの!」
ちょっと声を荒げたせいだろうか。膝の上で寝ていた子犬が、びくっと起き上がった。驚いたように、きょろきょろと辺りを見渡している。
「あー、起こしちゃった? ごめんね」
子犬の暖かな体温と一緒に、怯えやら不安やらも掌に伝わってきた。
せっかく気持ちよく寝ていたところを起こされたのだから、驚くのも当然だろう。震える子犬を落ち着かせるように、優しく優しくなでた。
「まったく、なんで犬なんか拾ってきちゃうのよ。
どうせ、世話するの私になるんだから」
母親が、盛大にため息をついた。
そんな母親を軽く睨み、私は口を尖らせる。
「ちゃんと世話するよ。拾ってきたんだからさ。それに、昔は駄目だったけど、今は犬猫オッケーじゃん、このマンション」
「そりゃ、そうだけど……」
「雨の中さ、ずぶぬれになりながら、よったよったついてくる子犬を拾わずにはいられないでしょ?
そりゃ、私も最初は無視しようとしたよ。でも、ここ数日……ずっとついてくるんだから……なんか愛着が沸いちゃって、さ」
子犬の震えは収まらない。
どれだけ臆病な犬なのだろうか。私は今まで犬なんて飼ったことがなかったから、他の犬がどうなのかは知らない。だけれども、この犬が非常に臆病であるという事だけは分かった。
「まったく、なんでこんなに臆病なのかな」
「捨てられる前、よっぽど酷い経験をしたんじゃないの?」
安心させるように、撫で続ける。そして、ふと……この子犬の名前を決めていなかったことを思い出した。
「そういえば、この子の名前、どうしよう?」
「あら、そうね……確かに、飼うなら名前が必要ね」
テレビの前にいた母親が、近づいてきた。母親が子犬を抱き上げようと手を伸ばしたが、子犬は尻尾を丸めながら私に抱きついてきた。……やはり、相当の人見知りらしい。それにしては、私にやけに懐いているが。
私は子犬を少し持ち上げて、唸り声をあげた。
凛々しい顔立ちで、くるりと巻き上げられた尻尾が特徴的な黒い柴犬だ。だけれども、栄養失調気味なのだろう。ペットショップや隣近所の子犬と比べて、かなり痩せている。とはいっても、綿の詰まったぬいぐるみより、ずっと重たい。ずっと持ち上げていると、腕が痛くなりそうだ。
「うーん……黒い子犬……クロ?柴犬っぽいからシバでもいいかも?
いや、ここはスタンダードにポチ?」
「安易すぎでしょ。ほら、この子も嫌そうな顔してるじゃない」
「じゃあ……男の子だから、ジョンとかレオ?」
「日本っぽい名前の方が似合うわよ。柴犬の血が入っているみたいだから。
そうね……タロとかコロとかいいんじゃないかしら?」
母親と幾つか名前を挙げてみるが、その度に子犬は不服そうに唸る。
まったく、なんで子犬の名付けにここまで悩まないといけないのだろうか。子犬が、心底嫌そうな表情を浮かべた時、私の中で何かがキレた。
「あーもう! じゃあ、アンタの名前は『ハヤブサ』にするから」
ハヤブサ――それは、祖父が飼っていた秋田犬の名前だ。祖父に由来を尋ねたところ、永延と1時間近く語りはじめたから、それだけ由緒正しき名前なのだろう。
もう他に犬の名前というものが思いつかなかったので、勝手に拝借させてもらった。
「ちょっと、それは止めなさいよ。ハヤブサって、おじいちゃんの所の同じじゃない」
「でも、この子は気に入ったみたい」
母親は不快そうな顔をしていたが、子犬は大層気に入ったらしい。
子犬は、嬉しそうに尻尾を振った。ぺろん、と私の頬を舐める。ちょっと暑苦しいが、私に寄せる信頼のような何かが伝わってきた。
「……あんた、動物に懐かれやすかったっけ?」
「そんなことないんだけどなあ……こら、やめてよ、ハヤブサ!」
ハヤブサを引き剥がす。
私が嫌がっていることに気づいたのか、ハヤブサは舌を引っ込める。だけれども、どことなく嬉しそうに尻尾を振っていた。
「凄い懐かれてるわね……もしかして、前世の因縁、とか?」
「前世? そんな非現実的なこと……いや、あるのかも」
非現実的なことは積極的に信じない、が、なくはないと思う。直接的に、非現実的な出来事と直面したことはない。でも、そういうこともあるだろう、と肯定する私がいた。
……まぁ、さすがに前世からの因縁がある犬がいるとは思えないが。
「でも、前世があったらいいなー」
ハヤブサを膝の上に戻しながら、ぼんやり呟いた。
「どうして? 」
「そりゃ、死んだらそれっきりとか怖いじゃん。運良く天国なんてとこに行けたとしても、何千年、何億年も平穏なんて逆につまんないし」
何億年も苦しみ続ける地獄に行くのは、もっと嫌だけど……と、付け足すのも忘れない。
母親は、不思議そうに首を傾けた。
「そう? 死んで星になるとか素敵だと思うけど?」
「えっー? それ、地獄に行くのと同じくらい嫌だよ」
私は、思いっきり眉をしかめた。
「だって、その星に住む人をずっーーっと見守らないといけないじゃん。
どんなことする人もさ。それしちゃダメ!とか、そんなことしたら悪化するよ!とか思っても、止められないんだから。
たくさんの人を見ながらさ、次第に自分が嫌になってくるんじゃないかなって」
言葉が、どんどん口から出てくる。
そんな私の言葉を、母親は黙って聞いていた。
「なるほどね。
つまり、世界が滅びるまで見守るのは、煉獄ってこと?」
「いや、世界じゃなくて、星の話じゃ……うん、まぁそんな感じかも。よく分からないけどさ、何度後悔しても、その星が死ぬまで許されないって辛いどころの話じゃないと思う。
そう考えたら、転生の方が楽だなって。
……前世の大切な思い出を忘れちゃうのは……そりゃ悲しいけど、本当に大事なことは残っているはずだって信じたいから」
……とはいったものの、私には前世の記憶なんてないし、そんな因縁めいた出会いや、想いもないが。
「なるほどね……あら、雨が上がったみたいよ」
「あっ、本当だ」
さっきまでの雨が嘘のようだ。
カーテンの隙間から差し込む太陽が、何処までも眩しい。久し振りの晴れ間に、私は笑みを浮かべてしまった。
「私、ちょっと新宿まで行ってくる」
「そうね、晴れたからね。気をつけなさいよ」
「了解っと」
ハヤブサを床におろす。
ハヤブサは、そわそわと落ち着きを無くす。出かけようとする私の足に縋り付いてくる。まるで、ついてきたいと言うかのようだ。別にそのあたりの散歩だったら、連れて行っても構わない。だけれども、さすがに新宿へ行くために連れて行くのは駄目な気がする。いや、確実に駄目だろう。
「お母さん、ハヤブサをお願いね」
「はいはい。お土産なにか買ってきてね」
「……へいへい」
後ろに手を振って、私は家を出た。
新宿駅は、酔いそうになるくらい人が蠢いている。雨上がりの鬱陶しい湿り気と、アスファルトから立ち込める熱気、ここぞとばかり輝く太陽のせいで蒸されてしまいそうだ。
……こんなことになるなら、やっぱり来なければよかった、と少しだけ反省する。
「あー、暑い。
日本はいつから亜熱帯になったんだよ」
地球温暖化って嫌だな、本当に。
文句を口にしながら、赤信号を睨みつける。
ふと、目線を上にあげてみれば、半透明の何かが視えた……気がした。幽霊か何かかかと思ったけれども、どうやら気のせいだったらしい。瞬きすると、半透明の何かは消えてしまっていた。
そもそも、私に霊感なんてない。ごく普通の平凡な女子高生だ。
特別に飛びぬけた才能や家柄の友達もいなくて、自分自身も平凡なサラリーマン家庭だ。平凡な雑種犬を飼って、成績もそこそこで上でも下でもない平凡だ。
平凡極まりない人生を15年間送ってきている。たぶん、この後も平凡な人生であることに変わりはないのだろう。
平凡に中小企業に就職して、平凡な人と結婚して、平凡な結婚を機に寿退職して、平凡な子を産んで、平凡に夫婦一緒に老いて、平凡に孫に囲まれて死んでいく。
うん、悪くない。特別良くもないけど、悪くもないだろう。
「何億年もかけて後悔したり、後味の悪い思いしながら一生過ごすより……平凡が一番だな」
ふと、そんな言葉が口から飛び出していた。
変な独り言。だけど、周りは気にしない。一瞬、何人かの人がこちらを見たが、すぐに友人との話に花を咲かせたり、携帯電話に目を落としている。たった一人の独白が続けば、気持ち悪そうに避けていくかもしれない。だけれども、ほろっと漏れた独り言なんて、誰も気に留めていないのだ。
「って、よそ見してる場合じゃなかった」
気が付くと、信号が青に変わっている。
人の流れに乗るように、私は歩き始めた。太陽がアツい。アスファルトの照り返しが鬱陶しい。額の汗をぬぐいながら、私は小さく
「地球温暖化って嫌だな」
と、呟いた瞬間だった。
賑やかな宣伝を流す大型トラックが、突然目の前に現れたのだ。目を惹くようラッピングされたトレーラーが、何を間違ったのだろう。まだ赤信号だというのに、横断歩道へ進行してきた。
ほとんど渡りかけていた多くの人々は、すぐに避けることが出来た。
トレーラーの運転手も事態に気がつき、即座にブレーキを踏む。だけど、ちょうど真ん中を歩いていた私に、退路は残されていなかった。いや、私も逃げようとした。だけれども、足が地面に縫い付けられたように動かない。足に、動けと命令しても、張り付いたように動かない。
「くそ、動け! 動け! 動け!!」
私は悲鳴を上げる。
トレーラーが近づいてくる様が、やけにゆっくり視界に飛び込んできている。しかし、いくら頑張っても動くことは出来ない。逃げることが出来ない。動くことも出来ない。ただ、トレーラーが迫ってくるのを待つことしか出来ない。
このまま、私は死ぬの?
平凡な一般市民のまま、私は死ぬの?
なんにも変わり映えのない人生を自分なりに謳歌していた、つもりだった。
だけれども……こんな終わりかったって………ない。
「誰か……助けてよ」
誰かの姿が、脳裏に映った。
だけれども、助けをともめる声が、その誰かに聞こえることなんてない。聞こえたと信じても、誰も助けに来るわけがない。みんな逃げるので精一杯な状況で、助けを信じるのが間違っているのだ。だけど、信じたかった。それに……
こんな終わり方、絶対に平凡な人生じゃない。
『……欲張りな子。
全てを忘れた平凡な人生を送っておきながら、平凡じゃないって抜かすなんて』
耳を塞ぎたくなる急ブレーキよりも大きな声が、私の脳内に響き渡った。
誰の声なのか、私にはわからない。だけれども、既視感のある声、既視感のある状況、既視感のある恐怖が私を襲う。
『注文通り、飼っていた犬まで送ってあげたじゃない。……お望みどおり、平凡な人生を提供したわ。
だけど、トレーラーに轢かれるという事実は変えられない。だって、それは定まった運命だから。
じゃあね、斉藤澪。平凡な人生を楽しみなさい、最期の瞬間まで』
諦めなさい。
と言う声が、聞こえてくる。
既視感のある声は、私を見離すように呟いて、見離すように気配を消した。
あとは、あの白い衝撃に耐えるだけだ。
既視感のある衝撃に備えるように目をつむることまで、既視感あり過ぎだ。平凡、ではない終わり方に苦笑いしながら、終わりの時を待った。
『……いや、まだ……諦めたくない』
自分の中から、また別の声が聞こえた。
今度は、誰の声なのかはっきりと分かる。明らかに、15年間……すっかり聞き飽きた自分の声だ。
『こんなところで、死んでたまるか』
ふわり、と身体が浮き上がる。
まるで、身体が羽のように軽くなったようだ。
急ブレーキとクラクションが、周りの悲鳴を巻き込んで高く響き渡る。
だけれども、気のせいか壁一枚挟んだ向こう側で響いているように思えた。……くるはずの衝撃は、ない。
恐る恐る目を開けると、少し離れた場所でトレーラーが煙を上げていた。ビルに頭を突っ込んだトレーラーは、騒がしい音楽を鳴らしたまま動きを止めている。
「大丈夫か?」
警察官が、私の肩を抱いていた。
どうやら間一髪のところで、私は助け出されたらしい。私は呆然とトレーラーを眺めながら
「はい」
と言うので、精いっぱいだった。
既視感は既にない。震えも恐怖も消えた。いや、消えたというより通り越したというのが、正しいのかもしれない。
大事な一線を越えたような、とても長い旅を終えたような、ぐったりとした脱力感だけが残っていた。
「いや、危なかったね、お嬢ちゃん」
「あ……ありがとうございます」
お礼の言葉が、自然と口から出ていた。
少し前までは、どことなく気恥ずかしくて口に出せなかった。だけれども、最近は口にできるようになった。
お礼の言葉を受けた警官は、困ったように笑った。
「お礼を言われる程じゃないよ。だいたい、君は自分で避けたんだから」
「……えっ?」
「いやーまるで、風に乗っているみたいだったな……トレーラーに激突する寸前に、ふんわりと避けたんじゃないか。覚えていないのかい?」
避けた覚え、なんてない。
第一、私は死を覚悟していた。体力も足の速さも平凡な私が、あんな間近まで迫ったトレーラーから逃げられるわけがない。
「覚えて、ないです……でも……」
魂が軽くなったような感覚と、何故か聞こえた自分の声。
私は、自分の両手を見下ろした。夢、そう……あの感覚は非現実で、きっと夢なのだろう。だいいち、魂を軽くするなんてことが出来るわけがない。そんなこと出来るのは、霊媒師や黒魔術師みたいな非日常の存在であり、物語の中にしか出てこない。
ありえないし、出来ないし、無理だし。
だけど……
「少しは、そうだったらいいなって」
平凡な人生が、また明日から……いや、この瞬間から幕を開ける。
平凡も好きだし、楽だけど……やっぱり、少しくらい味があった方が面白い。
もちろん味があり過ぎるのも、それはそれで困るけれど。
「一応、病院に行った方がいいと思うよ。ほら、ここから血が出てるし」
気が付くと、額から血が出ていた。
別に、この程度の怪我なんてどってことない。だけれども万が一、という言葉もある。
この警官の言う通り、一度検査をした方が良いだろう。
「はい、そうします」
救急車の音が聞こえてくる。
これだけ人の多い場所で起きた、派手な事故だというのに大怪我をした人はいないらしい。不思議なこともあるものだ。手を握りしめて、ゆっくり立ち上がる。
「あれ?」
事故を遠巻きに見つめる野次馬の上に、半透明な何かが浮かんでいた。
どこかで見たことのあるような顔をした何かは、どこか寂しそうな視線を私に向けている。私は、目をこすってもう一度、その場所を見つめてみた。だけれども、もう半透明な何かは消えてしまっていた。
「……なんだったんだろう、あれ」
半透明な何かが見えてしまうなんて、なんだか気味が悪い。
額を怪我した衝撃で、頭のどこかがいかれてしまったのだろうか。
だけど……どこか、懐かしい気持ちになった。
「変なの」
私は、くすりと笑う。
半透明の何かが視えた場所を、最後にもう一度見上げて小さく手を振る。
そして、促されるように救急車に乗るのだった。
黒魔術師と3つのルールは、これにて完結を迎えます。
ここまで読んできて下さった読者のみなさん、本当にありがとうございました。
拙い文章力や、急展開が目立つ作品になってしまいましたが、こうして完結出来てホッとしています。最後までお付き合いいただけて、寺町は本当に嬉しいです。
本当に、ありがとうございました!!




