74話 黄泉の釜
女性は、ゆっくりと頷いた。
そして、哀しそうに眉をひそめる。
「そうよ。私の名前は、伊耶那美。
貴女と貴女の友達をあの世界に送り込んだ神であり、この黄泉の国を統べる神よ。
……お帰りなさい、斉藤澪」
迎え入れるように腕を開いた女神……が作り出した人形を、私は冷ややかな目で見た。
神に対して、不敬なことをしているかもしれない。だけれども、どうしても疑いの目を捨てられなかった。確かに、私は死んだ。ルーシェに刺された。あの出血量とやり取りから察するに、明らかに死んだのだろう。
だからこそ、涙が止まらない。
「……なんで……」
「なんで、とは?」
「理不尽すぎますよ……。私は死んで、あの世界に送られたってことですか? それとも、死ぬ直前に送られたってことですか?
どちらにしろ、理不尽ですよ。どうして、香奈子だけ……」
その後は、声にならなかった。
今までため込んでいた不満が、一気に押し寄せてきたのだ。
何故、香奈子だけ逆ハーの力を与えられたのか。
何故、香奈子だけ女神と話す機会が与えられたのか。
何故、香奈子だけ老いて灰になったのか。
何故、と考え出せばキリがない。私は涙を腕で拭きながら、しゃくり声をあげた。
幼子のように泣き喚く私を、女神は黙って見つめている。
涙が枯れるくらい泣き疲れた頃、ようやく女神は口を開いた。私を安心させるかのような優しい声色が、不思議な空間に響いた。
「どうしても何もありませんよ。
今回の贄が貴方を望んだから、送ったまでのこと」
「……にえ? それって、生贄のこと?」
女神は、こくりと肯定した。
私を包み込むように風が吹く。甘い春の風が、草原を揺らした。
「世界は、ありとあらゆるところに点在しているの。
そうね、海に浮かぶ島だと思えばいいわ。だけど、島と島の間は海が非常に荒れていてね、放っておくと波に飲み込まれてしまうの。だから、防波堤、というのかしら? それを作る必要があるの」
風が頬を撫でる。
その時、とある映像が脳裏に浮かんだ。
荒れ狂う海の中に、ぽつりぽつりと点在する島々が浮かんでる。
波に飲み込まれまいと高い堤防が島を護るのだが、その堤防すら少しずつ削り取られてしまっている。 真新しい堤防の島もあれば、今にも決壊しそうな島まで大小さまざまだ。
しかし、どの島に共通して言えるのは……そんな大事な堤防を少しでも修復しようとする人がいない事だった。今にも決壊しそうなオンボロ堤防でさえ、である。
コンクリートで補強するなり、なんなりすればもう少し使えるのに……と思わずにはいられなかった。
だから思わず、
「あの堤防は、どうやって作るのですか? どうして、誰も修復しないのです?」
と聞いてしまった。
たんなる自分の想像だろうに、どういうわけか女神が見せた映像にしか思えなかった。
「修復は、100年に1度……決壊間際に新しい生贄を注ぎ込み、破壊を防ぐのよ。
もちろん、幾度となく繰り返していれば継ぎ接ぎだらけになり島は滅んでしまうわ。
だけど、新しく作ることも出来ないの。そもそも新しく作ろうとすれば、古い堤防をどかす必要があるでしょ。たとえ一部分だけでも古い堤防をどかせば、その途端……島は荒波に飲みこまれてしまうじゃない」
「どの世界にも終わりがあると?」
「そういうことよ」
だから、修復をして世界の延命を図るというわけ……だという事は分かった。
だけれども、私が聞きたいのは「そこ」ではなかった。
「その修復のための生贄が、香奈子だったってことですか?」
女神は、「贄が貴方を望んだから」と言った。
私は女神に出会っていない。女神と出会い会話したのは、紛れもなく香奈子だ。だから、香奈子が修復のための生贄に選ばれたのだろう。だけれども、どうもピンと来なかった。
「それなら、さっさと異世界を統一なんてさせずに修復に使えばよかったんじゃないんですか?」
「そうともいかないのよ、これが」
女神が手を挙げると、隣に大釜が現れた。
釜の中からは、良い香りがする。覗き込んで、はっと口を覆った。釜一杯の粥が入っていたのだ。麦でもなく、その他の雑穀でもない。それは、夢にまで見た白米だった。
気のせいか、唾が沸いてくる。女神は、釜の中の粥をかき混ぜながら
「釜の中の食事を食べると、黄泉の国の住人になるの。
あの贄の少女……山崎香奈子も食べたわ。これで、香奈子という少女が暮らしていた現世との繋がりが断たれ、山崎香奈子は黄泉の国の住人になったのよ」
老いた香奈子が残した言葉が、ふっと耳の奥で蘇った。
『』
あれは、この粥のことだったのかもしれない。
白米に惹かれそうになる自分を抑えて、私はなんとか釜から目を逸らした。
「それで、食べた後は?」
「ちょうど100年に1度の修復の時期だったから、彼女を贄として送ることにしたのよ。
そしたら彼女、貴方の所在を聞いて来たから驚いたわ。だから、貴方も送ったの。
……貴方も、この釜の中身を食べた後だったし。もっとも、少し時間が経っていたから黄泉の国から引き戻すのに焦ったけど」
「そうですか……えっ?」
今、聞き逃せない言葉があった。
だから、思わず私は聞き返してしまった。
「ちょっと待ってください。私も……これを食べたって?」
否定して欲しかった。
もちろん、希望的な憶測だとは自分でも理解している。
だけれども、だ。あのトレーラーに轢かれる寸前に、異世界に飛ばされたという可能性もある。香奈子に巻き込まれてトリップとか、可能性としてはあり得るわけだ。
もし、私が、この釜の中身を食べたのだとしたら、それは……
「食べてたわよ。そして、貴方は黄泉の国に入ったの。まったく、連れ戻すの大変だったんだから。
黄泉の国の者は私の管轄だから、滅びそうな世界に送り込んでも他世界から苦情は来ないわ。その世界の食べ物や風土に慣れさせ、出来るだけ色々な場所の空気や食べ物を取り込ませるために、『世界統一』という旗を掲げて、その世界を移動してもらうの。
そして、役目を果たした時に贄として世界の一部に変換させるの。世界の一部に変換するということは、いわば概念のような存在になるってこと。つまり、人間としての個人が消滅するわけだから、他者から認識されなくなるわ。
そして、その世界が滅びるまで……堤防の一部として生き続けるの」
どう? 貴方の謎は解けたでしょ?
女神は、そう言っているようだった。私は、ふらりとその場に座り込む。
色々な謎が、解けた。
ずっと前に見た元の世界の夢は、もしかしたら現実だったのかもしれない。
私は、生きたままトリップしたのではない。本当に死んでいたのだから。
それに、香奈子が消滅した理由も分かった。
香奈子は、生贄として世界の一部になった。だから、いらなくなった身体は灰になり、魂は漂うことなく世界に吸収されたのだ。世界の概念になったのだから、もう山崎香奈子という単体の人ではない。あの世界の誰からも認識されることもなくなった。
ただ、あの世界では異分子の私とルーシェを除いて。
だけれども、私にはまだ大きな疑問が残っていた。
「それならば、私を黄泉の国から連れ戻す必要はどこにあったんですか?」
香奈子が望んだから、とこの女神は言う。
しかし、それでは道理に合わない。この話の通りならば、生贄は香奈子一人で十分のはずだ。
すると、女神は淡々と答えてくれた。
「だって、暇だったから」
「暇?」
「そうよ。暇だったの。知ってる? この世界に娯楽はない。あるのは、単調な生命の管理だけ。いいえ、これはこれでやりがいがあるわ。だけれども、何万年、何億年と繰り返していると暇になってくるのよ」
暇。
私は、目を丸くした。女神は、相変わらずの笑顔を浮かべたまま、冷やか過ぎる淡々とした声で語り始めた。
「ただ、贄に異世界を旅させるのはつまらないでしょ?
だから、異世界の統一という目標を掲げさせる。そして、その競争相手として、もう一人……贄候補を落とすの。そして、負けた方を贄にするの。そして、勝った方はその者が望む報酬を与えるの。
例えば……貴方の師匠、ルーシェだったかしら? 彼女の場合は、『夫から見捨てられない美貌』だったわ。だから、叶えてあげた。競争相手に勝った瞬間、老いがない身体を授けたわ」
「それで、今回の贄候補は香奈子だった……じゃあ、もう1人は?」
「まだ決まってなかったわ。ちょうど香奈子が金髪で、そのお友達の貴方が黒髪だったから、貴方を贄候補に選んだの。
ほら、あの世界は黒髪が忌避されているでしょ? だから、金髪と黒髪の人間を送ると楽しめるのよ。だいたい、復讐心に燃えた黒髪が金髪側を倒すんだけど、とっても見ていて楽しいわ」
私は、何も言えなかった。
拳が震える。唇が震える。身体全身が震える。
それは、悲しみ? いや、違う、これは――怒りだ。
「でも、困っていたのよね。私、無理やり貴方の魂を送ったものだから、会話して望みを聞く時間がなかったのよ。
ルーシェに感謝しなさい。私と会話する時間を作り出してくれたんだから。貴方を殺すことで、貴方はここに来て私に望みを言える。だって、貴方が勝者なんだもの。
そうね、私に叶えられる範囲なら何でも構わないわ。今なら、まだ元の身体に戻って、あの世界で暮らすことも願えるわ。そうね、それがいいんじゃないかしら? 戦の功労者として、幸せな人生が全うできるはずよ」
女神は、良かれと思って話している。
女神は無邪気な笑みを浮かべていた。声も、子どもみたいに笑っている。
「私は……私達は、貴方の玩具か? 神様の玩具なの?」
すると、女神は不思議そうに顔を傾けた。
こてん、と傾ける様子は、どことなく可愛らしい。しかし、やはり作り物めいていた。
「玩具? 違うわ。神の前では、どのような命も等しいわ」
「それなら、なんで!?」
「どの命も、同じ扱いよ」
この時の笑顔を、きっと私はいつまでも忘れないだろう。
可愛らしい笑顔。だけれども、その笑顔は何処までも冷淡だった。
そう、神様の前では……どのような命も同じくらい小さいのだろう。
本人に認識はなくても、玩具や暇つぶしの道具として見てしまうくらい小さいものなのだ。
だから、私も香奈子も同じ命として扱われた。
神の大きすぎる基準の前に、私はあまりにも無力だった。
だけれども、それを納得する自分もいた。
私が黒魔術として扱う霊体は、どれも同じだ。
強いも弱いもない。ただの数として見ている。生前は、きっと多種多様な性格があったはずだ。善人も悪人もいただろう。太っている人も痩せている人も、特別に優しい人も人を騙すことしか考えていない人もいただろう。
だけれども、霊体になれば同じだ。同じ青白い光か半透明の人になってしまう。個性も何もない。自己主張もない。だから、全て同じに見ていた。
……この神も、そのように私たちを「数」としてみているのかもしれない。
多少、個性の差がある「数」として。
「さぁ、いいなさい……貴方の願いを」
だから私は、覚悟を決めた。




