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そういうわけで、俺はホーリア市の隅っこで悠々自適に暮らしていた。
市民からの問い合わせも、副市長からのお言葉も、全て自動音声案内に回されるから、数日後に録音された怒声を聞いて、なるほどなぁと思って消すだけだ。
10日も経てば、首都アウビリスにも俺の勤務態度が知れ渡っていた。
何回かオグオンから通話があったが、同じように無視をしていたら、魔法で直接、俺の腕に聖痕を刻み始めて、激痛で夜中に飛び起きた。
『逃げるな。すぐ行く』だと。
しかし、首都の勇者は激務だから、俺の説教のためだけにホーリアに来るのは難しいだろう。
オグオンが来た時が俺の命日だが、まだ遥か先のはず。
もちろん、俺も何もしていないわけではない。固定給の分は仕事をするつもりだ。
本当に危険な魔獣が街に襲いかかろうとしている時は、俺だって一応人の心はあるので魔法で適当に追っ払っている。
それも1日に1度くらいのことで、首席卒業の俺なら、気配を感じてベッドに寝転んだままでもできる。
昼まで寝て、夕方に少し活動して、明け方にまた寝る、という生活をしていたが、それも数日で止めた。
最近は、朝起きて散歩をして、3食ご飯を食べて、魔術の勉強をして、空が暗くなったら寝る、という規則正しい生活をしている。
周囲の山には魔獣が住み着いているだろうが、俺にとっては、その程度、蠅を払うようなものだ。
朝露で湿った草の上を、まだ涼しい早朝のうちに朝日を浴びながら歩いて、高原の鋭い風に揺れる木々を眺めながら、日向でぼんやりと朝のパンをかじる。
前世では、早朝から深夜まで仕事仕事仕事だった。
この世界に生まれてからも、地下に籠って養成校の入学試験の勉強をしたり、森に籠って熊を倒したりしていたから、こんな穏やかな生活は、2回の人生でも初めてだ。
「人は、こんなにも穏やかに生きられるものだったのか……」
これも全て、俺が首席卒業の勇者だからだ。
俺は背後を通りかかった兎を罠術で捕まえて、そろそろ事務所に戻ろうと腰を上げた。
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散歩から帰ってくると、事務所の廊下の隅で、ニーアが通信機で誰かと話す声が聞こえてきた。
事務所にかかってくる通信には出なくていいと言ってあるから、ニーアが使っているのは、個人所有の通信機だ。
ニーアは勇者の補佐が仕事だから、勤務時間中はこの事務所にいる。
俺が職務放棄をしてから仕事が一気に減った。勤務時間が終われば市内の自宅に帰っていいはずだが、最近はなぜか、この事務所に泊まり込んでいた。
『とにかく、死人が出てからじゃあ遅いんだ。観光客が来なくなるだろう。なんとか穏便に、仕事をしてもらうように、頼む』
ニーアの通信機から聞こえてくる、か細いながらも狂気を孕んだヒステリックな声には、どこか聞き覚えがあった。
少し考えて、副市長の顔色の悪い力ない笑顔を思い出す。
あいつは、追い詰められると、こんな声が出せるのか。
「それは、そうですけれど……」
副市長に答えたニーアは、廊下の先から俺が顔を出したのを見て、慌てて逃げようとした。
しかし、廊下は行き止まりで、逃げ場がない。
俺に背を向けて通信機を抱えるようにしていたが、魔法で音を飛ばしている通信機は雑で、音漏れがひどい。
10m離れた俺にも、通信機の向こうの声が聞こえていた。
通信機の相手が副市長から別の人間に変わって、今度は太い怒鳴り声が聞こえる。
『副市長はそう言いますが、武力行使で働いてもらうことも考えないと!大臣は首席卒業のエリートだって言うんですから、ポンコツでしたって送り返すわけにもいかんだろうし!』
「それは……本当に、申し訳ございません」
同僚が、俺のせいで怒られている。
前世の俺だったら、胃に穴を開けながら辞表を書き始めるところだ。
しかし、今の俺は何とも思わない。責任感とか、自責の念とか、生まれ変わった衝撃ですっかり抜けてしまったのかもしれない。
そもそも、前世の俺は何の取り柄もない役立たずだったから、度々180度近く腰を折って謝罪する必要があったが、今の俺は勇者だから、ふんぞり返って堂々としていればいいと思う。
俺はキッチンに入り、捕まえてきた兎を台の上に置いた。
兎は魔術で気絶している。首席卒業の俺の罠術だから、傷一つ付いていない。
焼きたてのパンのような色をした毛並みをしている。目は閉じていたが、小さな鼻がひくひくと動いていた。
朝食にするつもりで持って帰ってきたのに、急にさばく気が失せた。
食べるのはやめて、飼うことにするか。
事務所として与えられた洋館は、俺とニーアだけでは使い切れないくらい部屋が余っている。
前世では自分以外の面倒を見る余裕なんてなかったが、今の俺の完璧にワークライフバランスの取れた今の働き方と、勇者の稼ぎなら兎一匹くらい充分に養えるだろうし。
「勇者様……」
「なんだ?終わったのか?」
兎を抱えて考えていると、静かになった通信機を片手にニーアがキッチンに入ってきた。
俺が着任した日以来、弾けるような笑顔は消えてしまったが、今日はいつも以上に死神に取り憑かれたような顔をしている。
俺も前世で上司に怒鳴られた時は、首を吊りたくなっていたから、ニーアの気持ちもよく分かる。
俺はニーアに謝るべきだろう。しかし、俺が同じ立場だったら、相手を殴らないと気が済まない。謝っても無駄だ。
可愛い兎に目もくれず、ニーアは俺の裾を掴んで引っ張った。
「お話があります……」
ニーアの薄い緑色の目が、暗い影を落としている。
もしかしたら、俺への殺気かもしれない。
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広間にある、20人は座れそうな大きなダイニングテーブルの両端に座って、俺とニーアは向き合う。
これだけ距離を取ったのは、室内で小回りの利く双剣術を使うニーアが襲ってきたら、俺の剣と大雑把な魔法では無傷で捕縛するのが難しいからだ。
ニーアは俺と同い年くらいで魔法剣士として市で働いているなら、相当優秀なはず。
勇者の俺が、まさか魔法剣士ごときに負けるはずがないが、念のためだ。念のため、テーブルの下で剣の柄に手を掛けておく。
上司に八つ当たりされた人間は、その元凶を目の前にして何をするか分からない。
「給料の件は、市に問題があります。そこは私から謝らせていただきます」
申し訳ございません、とニーアが赤い髪を揺らして頭を下げた。
上司に怒鳴られて、その原因である俺に謝るなんて。ニーアは、その若さで、どれだけ人間ができているんだ。
「別にいい。俺も真面目にやってない」
「いいえ、勇者様は、ちゃんと仕事をなさっています。現に人が襲われるような魔獣の被害は出ていません」
しかし、とニーアは言葉を止めた。
「勇者様にこんなことをお願いするのは心苦しいのですが……私は、勇者様の部下である前に、ホーリア市民なんです」
市の職員は地元の人間が多い。それは、俺の前世でも変わらなかった。
それに、この周囲は山しかないから、ホーリアで働いている人間は、当然ホーリアに住んでいる。
「私の父は、ホーリアの3番街で靴職人をやっています。それで、私がここで働いているので……」
「まさか……」
俺は、ニーアの暗い表情の理由を考えて、音を立てて立ち上がった。
まさか、娘のニーアが、街を裏切った勇者のところで働いているから、嫌がらせに店を壊されたり、襲われたりしているのか。
事務所で市民から怒鳴られたり、副市長の小言を聞いたりするのはニーアの仕事だが、仕事に無関係のその家族まで害していいはずがない。
なんて卑劣な市民共だ。
と、俺は息巻いたが、話は違ったらしくニーアの暗く沈んでいた顔が、みるみる赤く染まっていく。
「『お宅のニーアちゃん、都会の悪い男に騙されちゃってるんじゃないの?』『大丈夫?年頃の娘さんでしょ?あんなに真面目な子だったのにね』みたいな会話が、店先で繰り返されているらしいんです……!」
俺は前世を思い出して、背筋が凍り付いた。
役所勤めだと、同僚も地元の人間だし、相手も地元の人間だし、やりづらいことこの上なかった。
しかも、こっちは社会人になって働いているってのに、近所の人間はいつまで経っても「あそこの中学校の何々ちゃん」で話しかけてくる。
関わりのある全ての住民が寿命を迎えて、この世を去ってくれるのを待つしかない。
「勇者様!お願いです!この街の人々に、勇者様がちゃんと勇者であることを伝えてください!でないと、父の胃が限界です!に、ニーアも!不良娘みたいに言われるの、恥ずかしいです!!」
ニーアがテーブルに突っ伏して、赤い顔で叫んだ。
「なるほど……」
俺はニーアの話を理解した。
そして、ニーアに襲われる危険がなくなったので、剣の柄から手を離して頷く。
市民説明会を開催すればいいんだな。




