〜3〜
気付くと、俺は無意識のうちに剣の柄に手を掛けていた。
そこへ、息を切らしたニーアが副市長室に飛び込んできた。俺を追いかけてきたらしい。
ニーアは、副市長と小声で何かを話し合っている。
内容は聞き取れないが、副市長の渋い顔は変わらない。
俺が剣に手を掛けたままなのを見て、ニーアが慌てて副市長を隣の部屋に避難させた。
「勇者様、本当にごめんなさい……副市長の言う通りで、勇者の時間外労働はそもそも予算科目がなかったらしくて……」
ニーアは、副市長室の棚から勝手にコーヒー豆を出し、手慣れた様子で淹れて、慰めるように俺に差し出した。
俺は剣から手を離して、それを受け取る。
前世では眠気覚ましにしか飲んでいなかったコーヒーだが、世界が変わって舌が変わったからか、前世よりもまともに味が分かって少し冷静になった。
オグオンと話した時から、覚悟はしていた。
勇者の仕事のほとんどは、勇者自身の申告制だ。
一日中魔獣の見張りをしていたと勇者が言えば、それを確かめる術はない。
だから俺は、規定の業務時間だけ働いて、固定給をもらうつもりだった。
「予算がないのは分かった。ただ、この街は魔獣の出現が多すぎる」
そもそも魔獣は、人里に滅多に下りてくるものではない。
魔獣だと言われて調べたらただの熊だったから猟師に仕事を引き継いだとか、噂をもとに街を見張っていたら野良犬だったとか、そういう事例が多々ある。
つまり、野良犬を探して街のカフェで張り込みをするのも業務だし、カフェの料金は経費で落ちる。
そういう楽な仕事だと思って、勇者を選んだのに。
言いがかりのような市民のご意見は別にしても、実際に、魔獣が街の近くに頻繁に姿を現していた。
ニーアが、気まずそうに俺から目を逸らす。
新人の魔法剣士とは思えないくらい、魔獣への対応に慣れている。
勇者のいなかった間、ずっとニーアが対応してきたのだろう。
「市の統計に載っているのは、確認が取れた件数だけです。一般的に、魔獣が街に出現するのは7日に1匹程度と言われていますが、この街ではおおよそ1日に2匹近く、出現が確認されています」
「そんなに?辺りで戦争しているわけでもないのに」
「周囲が山なので、そこに住む魔獣が多く来ます。それから、ハーブ採取で人が山の奥まで立ち入るので、魔獣は人馴れしていますし、そのハーブは魔獣の好物で人間と取り合っている状況です」
「……」
「それから、観光地のため、鳴き声や建物の被害に敏感になっています。特に慣れていない観光客はすぐに怯えてしまって……通報は、確認できた件数の10倍以上あって、念のため毎回出動しています……でも、頑張りましょう!勇者様!」
ニーアは、両手を握りしめて元気に言ったけれど、その目の下にはクマが浮かんでいるし、赤い髪に艶もない。
それで文句の一つも言わないのだから、我慢強いのは確かだ。
「俺は……飛び級で首席卒業したのに」
最後の抵抗のつもりで俺は呟いたが、ニーアは首を傾げた。
「だからじゃないですか?多分、勇者様が若いから」
力を失った俺の手からカップが落ちて、苦い匂いを広げながら、コーヒーが絨毯にこぼれた。
勇者の平均年齢は高い。前世のゲームや漫画の勇者よりも、遥かに年齢がいった奴が多い。
そんな中、飛び級で2年で卒業した俺は、飛び抜けて若い。
中年の勇者と比べれば、徹夜で連日働いても倒れないくらいの体力はある。
だからと言って、時間外に無給で酷使していいはずがないだろう。
この世界に生まれてから、俺は誰よりも真面目に努力してきたのに、それが仇になっていいはずがない。
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前世の俺は、愚かだった。
職場も愚かだし、上司も愚かだし、同僚も愚かだったが、一番愚かだったのは俺だ。
文句を言わずに真面目に仕事をしていれば、いつか誰かが褒めてくれると思っていた。
いつの日か、俺の頑張りに気付いた誰かが救い出してくれるんじゃないかと、白馬の王子様を待つように信じていた。
結局、俺は過労か何かで倒れて、おそらくそのまま死んだ。
ありがとうも、お疲れ様も、誰にも言われることはなかった。
本気か冗談か知らないが、過去に課長に「君には家族がいないから、過労死しても揉めなくて済む」とか言われたことがある。
実際に、天涯孤独だった俺が死んで悲しむ人は誰もいなかっただろう。
仕事の引継ぎさえ済めば、俺なんて最初からいなかったのと同じだ。
俺は、前世を繰り返すつもりはない。
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『平素より、勇者業へのご理解とご協力をいただき、誠にありがとうございます。
このたび、ホーリア市では、魔獣との共生を目指すことにいたしました。
これは、他の街では類を見ない、極めて先駆的な取り組みです。
つきましては、市民の皆様も重篤な人的被害が出ない限り、魔獣との共生を目指して広い心で生活をお送りください。
なお、勇者への連絡は以下の番号の通信機でのみ、承っております。
自動音声での対応となりますので、業務によっては返答までに相応のお時間をいただくことを、ご了承願います。』
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「……勇者様。これ、決裁取ってますか?」
魔獣退治で夜を明かした早朝。街の人間は、まだ誰も起きていない。
街じゅうの掲示板に貼った文書を読んで、ニーアはそっと尋ねてきた。
「まさか」
俺は首を横に振った。
眩しい朝日の筋が、緑の山々の隙間から差し込んでいる。標高が高い分、首都よりも冷たく澄んだ空気が街に染みわたっていた。
ようやく、この街が好きになれそうな気がした。
そして、勇者として俺の生きる道が決まった。
「帰って寝る」
今日の俺の仕事は、これで終わりだ。
そして、これからも、そのつもりだ。




