〜2〜
眠い、お腹が痛い、気分じゃない、行くにしても今日じゃない、など。
思いつく限りの言い訳を並べたのに、夕方の鐘が鳴った後も、ニーアは事務所に残っていた。いつもは定時になったら、俺の紅茶を淹れている途中でも、迷わず帰るのに。
そして、遠くの山が夕暮れに染まる頃、俺はニーアに連れられて、ゼロ番街に向かっていた。
山の中の寂れた洋館にでも連れていかれるのかと覚悟していたが、ニーアは迷わず、街中の8thストリートに入る。歴史ある建物と高級ホテルが並ぶ、観光客が多い通りだ。
「ゼロ番街は、ホーリア市の外にあります。ヴィルドルク国内ですが、国境沿いで、どこの市にも属していない地域です」
ニーアは周囲をはばかるように、小さな声で囁く。
黄昏時の不穏な空気も相まって、ブルーベリー色の肌をした怪物が住む洋館に連れていかれそうだ。そんな所に行くのは、勇者の仕事ではない。しかし、ニーアに腕をつかまれて逃げられない。
8thストリートを奥まで進むと、寂れた小さな広場に着いた。崩れた石畳と枯れた噴水が目立つ何もない場所だが、他の数本の通りからもこの広場につながっていて、辻になっている。
ニーアは、「疲れたから帰ろう」とアドバイスをした俺を無視して、広場の奥の、狭いトンネルのような路地に進んだ。
壁で夕日が遮られて、ニーアの横顔がかろうじて見えるくらいの闇の中を歩く。
「ライセンス証を忘れたから、帰ってもいいか?」
「勇者様、いつもそんなもの、持ち歩いていないじゃないですか」
ニーアは振り返りもせずに、どんどん先に進んでいく。
今のところ気配は感じないが、街を外れて山に近付いているから、魔獣が出現する危険がある。しかし、ニーアの迷いのない足取りから、突然魔獣が襲ってくる危険はなさそうだ。
リリーナにも一緒に来てくれないか頼んでみたが、部屋の中から返事は返ってこなかった。
部屋のドアに耳を付けると、中からカタカタとミシンの音がしていた。コスプレの衣装製作に忙しいらしい。
中の様子を透視しようとしたが、俺が聞き耳を立てているのに気付いたリリーナが、ドアを蹴り飛ばしてきて、中断されてしまった。勇者の俺が飛び退いていなかったら、今頃、鼓膜が弾け飛んでいたところだ。
「せめて、どんな所なのか教えてくれ」
俺は、午後のお茶から何度目かになる質問をした。しかし、ニーアの答えはいつも同じで、何か言おうとして重い口を開き、ため息だけをこぼす。
険しい顔で「もう着きますから」と言って、俺の腕を握る手に力を込めた。
「ニーアは……勇者様を信じています」
最後にニーアがそう呟いた時、暗いトンネルが終わって、目の前が突然明るくなった。
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夕日の明かりとは違う。ランプと魔法で作られた、人工の明かり。銀色と金色とピンク色で、周囲の建物がきらびやかに輝く。
夜を先取りして、周囲からはもうアルコールと香水の匂いが漂っていた。ぴったりとした白いスーツを着た男や、石畳をこするくらい裾が長く、ティッシュくらい薄いドレスを着た女が歩いている。
~歴史と緑の街ホーリア~の隣にいながら、俺の脳内に、【新宿歌舞伎町24時】と、前世の街の名前だかテレビ番組の名前だかが浮かんできた。
「ここが、ゼロ番街です」
ニーアが唇を噛みしめて、悔しそうに言う。ホーリアで生まれ育ったニーアは、街のすぐ隣にこんな場所があるのが許せないのだろう。
つまり、ここは、観光とか出張とか、いろいろな理由を付けて1人で来られる観光客が、いろいろなことを楽しむための、大人の場所。
「あー!勇者様だー!」
甲高い歓声が聞こえて、俺は反射的に背を向けて、来た道を戻ろうとした。
ホーリアで勇者と呼ばれて、まともな目に遭ったことがない。屋根の修理はさせられるし、腕をミンチにされかけるし。
ゼロ番街は市外だが、職務放棄中の勇者に言いたいことがあるのだろう。集団で襲いかかられると、魔法は使えず、剣で怪我をさせるわけにもいかず、相手を怪我させないように体術で倒すのにも限界がある。
女の子の集団はニーアを弾き飛ばして、俺の周りを厚い層になって囲んだ。
「やっと遊びに来てくれたんだぁ!」
集団からいち早く飛び出してきた女の子は、太腿の上をギリギリ隠す白いセーターを着ていて、花のタトゥーを入れた柔らかい脚が、俺の体に巻き付いてくる。マント越しでも、女の子の感触と体温が伝わってきた。
そのまま俺を絞め殺す気かと身構えたが、女の子は俺を上目遣いで見上げて、子猫のようによじ登ってきた。俺に顔を近付けてきて、鼻にかかった甘えた声を出す。
「ねー?私のお店、来てくれるでしょ?」
「……?」
「ミミーに会いに来てくれたんじゃないの?」
どうやら、この子は俺に対して敵意はないらしい。ミミーは「ねー来てー!」と足をぱたぱたさせながら、俺のマントにぶら下がっていた。
マントが前にずり落ちそうになったが、「私の店にもー!」と言いながら、女の子たちが俺を四方八方から引っ張ってきて、防御魔法がかけられているマントが、そろそろ破けそうになっている。
俺がミミーに応えようとした時、白いセーターが後ろからつかまれて、ミミーが集団の外に消えていった。
ミミーを放り投げたのは、キラキラと輝く青いドレスを着た女の子だ。長い黒髪が右目にかかって、ミステリアスな雰囲気を醸し出していた。ミミーを追い出して空いた俺の正面に来て、腕に抱きついてくる。
「ねーえ。あたしと遊ぼうよ。サービスするから、さ」
腕に女の子の体が密着して、柔らかいアレが肘に当たる。ぼやかして言わなくても、少し視線を下げれば、胸元が大きく開いたドレスから、眩しいほど白い胸が見えた。
そのまま腕を引かれて体が傾くと、俺の耳元に、口紅で水色に染まった熱い唇が当たる。
「ペルラ、得意なんだよ?もちろん、エッチぃのじゃなくて?健全、な、の」
「ね?」と吐息と一緒に囁かれて、足から力が抜けた。
そのままペルラに引きずって連れていってもらいたいところだが、今日はニーアと一緒に仕事で来た。ここでペルラについていったら、俺を信じると言ってくれたニーアを裏切ることになる。
それに、最短でも来年まで、俺はホーリアにいるんだから、業務時間外にいつでも遊びに来ればいい。
「いや、君と遊びたいところだが……」
「やーだぁ勇者様。ペルラちゃん、って呼んで」
「ペルラちゃんと遊びたいところだが……」
「無理です。仕事で来ているので」
女の子の集団に弾き出されて転がっていたニーアが、ペルラを押しのけて、俺の正面に立ち塞がった。
脚に絡まるようなドレスを着たペルラは、胸を揺らしながらニーアを見下ろす。魔法剣士らしい動きやすさ重視の服装と、これまた動きやすさを重視した体格をしたニーアを、ふん、と鼻で笑った。
「何?相変わらず地味でオタクな格好してるのね。ニーア」
ヒールで背が高くなっているペルラに見下されて、ニーアは不愉快そうに眉を寄せる。俺も仲間を馬鹿にされて、ペルラの胸元から視線を上げた。ニーアが勇者オタクなのは事実だが、服装は関係ないだろう。
ニーアは負けずに胸を張って、ペルラに立ち向かう。
「アルヴァ」
「……ここで本名出さないでくれる?」
「勇者様に、ここの営業をどうこうする権限はありません」
「だって、勇者なんでしょ?」
「風俗営業の規制は、勇者の仕事ではないです」
「でも、この街のことを市にチクるんじゃないの?」
「次の報告は3か月後なので、忘れてます」
「……なーんだ」
ペルラは、俺の腕からぱっと手を離した。いそいそとドレスの肩紐を直して、こぼれかけていた白い胸を布の中にしまう。
そして、ペルラはパンパン、と大きく手を叩いた。それを合図に、俺の周りできゃあきゃあ声を上げながら、俺のマントを引っ張っていた女の子たちが、ぴたりと動きを止める。
「解散!」
ペルラが言うと、女の子たちは波が引くように、香水のかすかな匂いだけを残して、俺から離れていった。
夜から営業だろうから、今の時間は準備で忙しい。仕方ない。
皆、さっきまで俺に向けていた笑顔を引っ込めて、てきぱきと店の準備を進めている。仕事熱心で真面目な子たちだ。
だから、街の営業を守るために勇者を接待するのも、彼女たちの仕事の1つ。接客業の本音と建前くらい理解している。ちゃんと金を払えば、その分、楽しい思いをさせてくれるはずだ。勇者の立場を利用して、金も払わずに甘い汁を吸おうだなんて、そんなつもりは毛頭ない。
それでも、心に負った傷の深さに、1人残された俺は、地面に崩れ落ちた。
冷たい石畳の感触が、マント越しに膝に伝わる。甘い匂いを忘れさせるように、冷たい風が吹き抜けていく。気を抜いたら、目から汗がこぼれそうだ。唇を噛みしめて、手のひらに爪を立てて耐える。
「一瞬の夢……か」
「勇者様、仕事中なので立ってください」
俺の狂おしいほどの切なさなど理解する気もないらしいニーアは、なぜか俺と目を合わせないまま、冷たくそう言った。




