第九章 氷獄《ひごく》の抱擁、雪原を溶かす慈愛の火
失われたはずの右腕に、猛き「火」の加護が再燃する。
かつての戦友を襲った悲劇を胸に、アベルは不敵な笑みを浮かべて雪原に立っていた。
「……待ってろよ、ケイン。地獄の底から、兄貴が迎えに行ってやる」
目指すは西の最果て、凍てつく地獄の大地『ゼム・ルナ』。
そこはかつて勇者たちが散り、今また一人の若き勇者が「人間」を辞めようとしている終焉の地だ。
吹き荒れる猛吹雪は、乙女の肌を無慈悲に刺し、神獣の咆哮さえも白く塗り潰していく。
だが、ミラベルの胸元には、勇者の証が灯す確かな熱があった。
(寒い……。でも、負けない。ケインさんが一人で戦っているなら、私は何度だって雪を蹴立てて進むんだから!)
かつての仲間たちの遺志を拳に宿した戦士と、ただ愛する人を連れ戻したいと願う少女。
火の勇者の烈火と、少女の純情が、ゼム・ルナへと続く永久凍土の静寂を切り裂いていく。
『ちょうどいい、水晶石も空いたことだ。あいつも連れて行こう』
ギンが北の方角、より一層冷たい風が吹き下ろす山脈の方を向いた。
『小僧、新しい力の慣らしにちょうど良いやつを紹介してやる』
「……ちょうど良い相手だと?」
アベルは、炎を纏い新しく生えた右手の感触を確かめるように、にぎにぎと握り締めながら答えた。その瞳には勇者の闘志が再燃している。
「もしかして、神獣がこの近くにいるの?」
ミラベルが勘よく聞き返すと、ギンは低く笑った。
『そうだ。奴の名はヘル。冬の蛇神だ。……あやつの冷気があれば、ケインの熱すぎる雷を冷ますのに役立つだろう。まとめて連れて行くぞ』
一行は早速、北の険しい山中にある『冬の祠』へと向かった。
だが、近づくにつれて気温は急激に下がり、吐く息は真っ白を通り越して凍りつきそうだ。
「さ、寒い……。凍えちゃう……」
ギンの加護があるとはいえ、厚手のコートを着ていても、ただの村娘であるミラベルにはこの極寒は厳しかった。
『仕方ないな、弱き者よ。私がいなければ即座に氷像だぞ』
呆れたように言ったのはルーだ。スズメ姿のまま、ミラベルの胸元へと潜り込む。すると、ルーの体からポカポカとした温かな熱が伝わり、ミラベルの身体を芯から温めた。
「あったかい! ありがとう、ルー。本当に便利なカイロね」
『おい! カイロとは何だ! 神獣を道具扱いするな!』
ピーピーと怒るルーだったが、そのおかげで凍りついていた一行の空気も少しだけ和らいだ。
「……ミラベルは不思議な娘だな。特別な魔力があるわけでもないのに、神獣たちにこれほど愛される。ケインがあんなにも大切に想っていた理由が、少し分かった気がするよ」
アベルがその様子を見て、独り言のように呟いた。
やがて一行は、一面が青白い氷に閉ざされた巨大な氷穴――『氷の祠』へと辿り着いた。
その最奥、氷の玉座に座していたのは、世にも美しい、しかし背筋を凍らせるほど冷徹な表情の女神だった。
腰から下が巨大な白銀の蛇と化したその女性は、侵入者を冷たい瞳で見下ろした。
『……銀狼に、太陽神の残り香。そして勇者の亡霊に…ただの人間?この私の眠りを妨げるのは、どこの不届き者だ?』
彼女こそが、かつて氷の女王として崇められ、北の地を支配した氷の蛇神ヘルだった。
「風の勇者、ケインさんの暴走を止めたいんです。どうか、あなたの力を貸してください!」
氷の玉座の前で、ことの経緯を説明しながらミラベルは懸命に頭を下げた。しかし、返ってきたのは、洞窟の壁さえも凍りつかせるような冷酷な笑い声だった。
『……滑稽だな、人の子よ。かつて私は慈悲を与え、この地を潤した。だが人間どもはどうだ? 信仰を捨て、恩を忘れ、あまつさえ私を『討つべき魔獣』と呼んで石を投げた。そんな種族が、己の生み出した勇者の業に焼かれて滅びるというのなら……私は喜んで見届けよう』
ヘルの下半身である大蛇が鎌首をもたげ、周囲の空気が一気にマイナス百度へと叩き落とされる。彼女の瞳には、永い孤独が育てた人間への深い憎悪が宿っていた。
『私を従えたいというのなら、言葉ではなく力を示せ。……お前たちの絶望を、私の氷の糧にしてくれる!』
凄まじいプレッシャーにミラベルの膝が折れそうになったその時、力強い足音が彼女の前に進み出た。
「ミラベル嬢、ここは俺に任せてもらおう」
アベルだった。彼は携えた鞘から、あのボロボロに折れ、煤けていた剣を抜き放つ。
その瞬間、奇跡が起きた。折れていたはずの剣先から眩い火花が散り、まるで名工によって打ち直されたばかりのように、刀身が黄金の煌めきを取り戻したのだ。
「……いい剣だ。かつての全盛期よりも、ずっと熱い」
剣を構えたアベルの腕に、ルーの炎が龍のように巻き付く。
『ふふん、当然だ! 私との契約は、魂の再鋳造と同義。その剣はもはやただの剣ではない、太陽の化身よ!』
自慢げにふんぞり返る小鳥のルーに対し、ギンは「ハイハイ、そうだな」と、あくびを噛み殺しながら軽く受け流す。
「氷の女王よ。あんたの怒りはもっともだ。だが、あいつ――ケインを救うことは、この狂った世界の理を正すことでもある。……あんたを無理やり引きずり出してでも、協力してもらうぞ!」
『……勇者の亡霊が、吼えるか!』
ヘルが右手を一振りすると、数千の氷柱が流星のごとくアベルへと降り注いだ。アベルは新しく生えた右腕で炎の剣を一閃。轟音と共に氷柱を蒸発させ、真っ赤な炎の尾を引いて女王の懐へと飛び込んだ。
火の勇者と氷の女神。
相反する属性が衝突し、静かだった祠は、一瞬にして灼熱と極寒が渦巻く戦場へと変貌した。
『――不遜なり、火の粉の羽虫が!』
ヘルの叫びとともに、氷の祠が震動した。彼女の背中から、氷で形成された巨大な蛇の首が数本、のたうち回りながら生え出す。その姿は美しき女王から、荒ぶる冬の化身――悍ましい怪物へと変貌を遂げていた。
蛇の頭が複雑な魔言を紡ぎ、同時に別の頭が絶大な威力を持つ氷結ブレスを放射する。
絶対零度の波動が祠を白く染め、普通の人間であれば触れた瞬間に細胞の一つ一つが凍りつき、粉々に砕け散るであろう死の嵐。
だが、アベルは止まらない。
襲いかかる無数の氷の円盤が、鋭い音を立ててアベルの肢体を掠める。鮮血が舞うはずのその傷口からは、どろりとした黄金の炎が吹き出し、瞬く間に肉体を再構成していった。
「……熱い。魂が、燃え尽きそうだぜ」
アベルの全身が、もはや物理的な肉体を失ったかのような純度の高い炎に包まれていく。ルーとの契約が、彼を「火の勇者」から、理を超越した「炎の勇者」へと作り替えてしまったのだ。
(ああ……アベルさんまで、あんな姿に……)
目の前で「人」が「化け物」じみた力へと変容していく様を見つめ、ミラベルは胸を締め付けられるような思いでケインに想いを馳せた。強すぎる力は、人を人から遠ざけてしまう。その残酷な事実が、彼女の瞳を潤ませる。
「終わりだ、氷の女王!」
炎の化身と化したアベルが地を蹴った。残像すら焼き尽くす速度でヘルの懐に潜り込み、炎の剣を一閃。ヘルの腕を難なく切り飛ばし、返す刀で無数の炎の斬撃を叩き込む。
『あああぁぁぁっ!!』
悲鳴が洞窟に反響する。窮地に立たされたヘルは、残された全魔力を注ぎ込み、祠全体を凍土に変える極大魔法を展開しようとした。巨大な魔法陣が足元に広がり、破滅の光が満ちる。
しかし、アベルの剣はその魔法陣ごと、ヘルの胸元を深々と切り裂いた。
『……ここまで、か……』
胸を抑え、氷の玉座に崩れ落ちるヘル。彼女が死を覚悟して瞳を閉じた、その時。
「やめて!!」
ミラベルの叫びが、爆炎と冷気が渦巻く戦場を貫いた。
その一言で、トドメを刺そうとしたアベルの炎の刃が、ヘルの喉元数センチのところでピタリと止まった。
アベルの身体から炎が引き、荒い呼吸とともに彼に「人」の輪郭が戻ってくる。
静寂が戻った祠の中で、勝負は決した。
『……殺さないのか?』
ヘルが、傷口から氷の粒を溢れさせながら、信じられないというようにミラベルを見上げた。
「戦うのはもうおしまい! 私は、あなたを殺すために来たんじゃないの……助けてほしいの。お願い、ヘル様!」
ミラベルの必死な瞳を受け、氷の女王は力なく、しかし毒気を抜かれたように小さくため息をついた。
『人の子の真っ直ぐな願いを聞かされるのは、数百年ぶりか……』
胸の傷を抑え、ヘルは自嘲気味に、けれどどこか憑き物が落ちたような穏やかな表情で呟いた。ミラベルの瞳の中に、かつて自分が愛し、守ろうとした「人間」の輝きを思い出したのかもしれない。
『よかろう。その無謀な旅路、最期まで見届けてやる。……その代わり、私を退屈させるなよ?』
ヘルが静かに微笑むと、その巨大な半人半蛇の姿が淡い蒼光へと溶け、ミラベルが掲げた水晶石の中へと吸い込まれていった。これで、ギン、ルー、そしてヘルという、三柱の神獣の力が一つに集ったのだ。
静まり返った氷の祠。その中で、アベルがゆっくりとミラベルの方を向き、静かにその場に跪いた。
「ミラベル嬢。改めて誓わせてもらおう」
「え、アベルさん……?」
「俺は一度死んだ身だ。だが、あんたの覚悟とルーの炎が、俺を呼び戻してくれた。……あんたを必ずケインの元へ送り届け、彼を救い出すため、俺はあんたの守護騎士になろう」
アベルのその姿は、かつての勇者としての輝き以上に、一人の少女を守り抜くという鋼の意志に満ち溢れていた。
「そ、そんな! 私、ただの村娘ですよ! 騎士様なんて、そんな大袈裟なこと……!」
ミラベルは顔を真っ赤にして、両手をぶんぶんと振って拒否した。憧れの「勇者様」の一人にそんな風に傅かれるなんて、彼女の人生設計には全くなかったことだった。
けれど、アベルの真剣な眼差しは変わらない。ミラベルは照れ隠しに頬を掻きながら、小さく、けれど力強く頷いた。
「……でも、私一人じゃ絶対辿り着けませんから。その、すごく頼りにしてます、アベルさん!」
「ああ。任せておけ」
アベルは立ち上がり、心強い笑みを浮かべた。
『ふん、騎士とはな。格好をつけおって……』
雷の勇者へと変貌したケインを止めるための、最強にして最高のパーティーがついに結成された。
「よし、行こう! 待っててね、ケインさん。今、証を持って行くから!」
一行は氷の祠をあとにし、ついにケインとルーナが待つ決戦の地、ゼム・ルナの最深部へと足を踏み出す。




