第十章 戦場の品格、あるいは背信という名の毒
ゼム・ルナの最深部――通称「ミドガルズオルムの尾」。
切り立った崖が幾重にも重なり、絶えず吹き荒れる暴風が侵入者の体温を奪うその地は、魔王軍が最後に残した絶対防衛圏であった。
その最奥にそびえる黒き城塞の前には、魔王の双子の子、ルシエル皇子とルシフェラ皇女が率いる精鋭軍が布陣している。六枚の美しい羽根を広げ、静かに人類を待ち受けるその姿は、魔族というよりはむしろ堕ちた神の如き威厳を放っていた。
だが、彼らを目前にした人類救世軍の足並みは、皮肉なことに内側から崩れかけていた。
「何を怯懦なことを! 目の前に魔王の種がいるのだぞ! 根絶やしにする以外の選択肢があるか!!」
火の騎士団長グラムの怒声が本陣に響き渡る。強硬派の旗頭であるルドアルト公爵の息子である彼は、燃え盛るような激情を隠そうともせず、剣の柄を強く握りしめていた。
「グラム殿、落ち着いてください。今ここで彼らを殲滅すれば、世界中に散った魔族たちが死に物狂いの報復に出るでしょう。それは新たな悲劇の幕開けにしかなりません」
対峙する聖騎士ソフィアは、その澄んだ瞳に憂いを湛えながらも、一歩も引かずに宥和を説く。彼女の後ろには、血を流しすぎた戦いに疑問を持つ兵士たちが集まっていた。
そして、この均衡を決定的に変えたのは、誰よりも苛烈に魔族を憎んでいたはずの聖女ルーナの変節だった。
「ソフィア様の言う通りです。これ以上の無益な殺生は、天の御心に背くもの……。魔将を討った今、我々は対話の道を探るべきです」
「……ルーナ様まで!? 兄上を殺された恨みを忘れたのですか!」
グラムの問いに、ルーナは答えなかった。
彼女の目的は、もはや人類の勝利などではない。
(ケインさんを、これ以上戦わせてはいけない。これ以上魔神に近づけば、彼は本当に……私の手の届かない『何か』になってしまう)
ルークの死という悲劇すら、彼女にとってはケインを縛り付け、隔離するための正当な理由へと書き換えられていた。ルーナは混乱する軍の指揮をソフィアたちに預けると、強引なまでにケインを前線から遠ざけ、軍の外れにある静かな天幕へと彼を囲い込んだ。
「ケインさん、いいですね? あなたはここで休んでいてください。あとのことは、私が……私たちが解決しますから」
天幕の中、微かに体に雷の空気を散らせ、虚空を見つめるケインの肩に、ルーナは優しく、しかし逃がさないように強く手を置いた。
その執着は、もはや聖女の慈愛ではなく、壊れゆく宝物を閉じ込める檻のようであった。
一触即発の緊迫感が漂う本陣。その均衡を、意外な方向から飛来した「一矢」が撃ち抜いた。
「魔王軍からの特使だと……!?」
グラムが吠えるのと同時に、白旗を掲げた魔族の騎士が、馬を一頭引き連れて悠然と姿を現した。その手には、魔王家の紋章が刻まれた重厚な親書が握られていた。
「ふざけるな! 罠に決まっている、即刻切り捨てろ!」
グラムが剣を抜こうとしたが、ソフィアがその前に立ち塞がり、ルーナが鋭く制止した。
「待ちなさい、グラム殿! 使者を斬るなど騎士の、ましてや人類の矜持が許しません!」
二人の必死の制止により、特使は無事に親書を差し出した。ソフィアが封を切り、ルーナと共にその内容に目を通すと、そこには皇子ルシエルの、誇り高き決意が綴られていた。
「人類救世軍の諸卿へ。
我ら双子が望むのは無為な殺戮による滅びではなく、一族の誇りと存続である。
故に、不毛なる総力戦を避け、此処に提案する。
我ら魔王の血脈ルシエルと、人類の至宝たる勇者による御前試合――。
この一騎打ちを以て、本戦役の最終的な決着とされたし。
勝敗の如何に関わらず、我ら魔王軍は此の地を去り、全軍を即時撤退させることを誓約せん。
天と地の精霊に賭して、偽りなき真意であることをここに記す」
「……一騎打ちだと? 笑わせるな! 全軍で踏み潰せば済む話だ!」
グラムは激昂し、拳で叩きつけられた執務机が無惨にひしゃげた。側近たちが「閣下、今は冷静に!」と必死に宥める中、ルーナはその親書を見つめ、静かに思考を巡らせていた。
(一騎打ち……正々堂々とした武人の戦いであれば、無用な殺戮を繰り返さずに済む。それならば、ケインさんの心がこれ以上闇に染まることもないはず……。聖なる勇者として、誇り高く戦いを終わらせることができる!)
ルーナの瞳に、かすかな希望の光が宿った。彼女にとっても、ケインを戦場という混沌から引き剥がすための、これ以上ない「出口」に見えたのだ。
「……ソフィア様。私も、この申し出を受けるべきだと思います。お互いに、あまりにも傷つきすぎました」
ルーナの言葉に、ソフィアも深く頷いた。
「ええ。癒えるには長い時間が必要でしょう。ですが、憎しみの連鎖を断ち切るには、今この瞬間、剣を収める勇気が必要です。……グラム殿、これは勇者ケイン殿の尊厳を守るための戦いでもあります」
強硬派を代表するグラムは、忌々しげに顔を背けたものの、聖女と聖騎士の双方が同意した以上、これ以上の反対は軍の分裂を決定づける。
「……勝手にしろ。だが、勇者が敗れるようなことがあれば、俺は全軍を以てあの城を灰にするぞ」
こうして、ゼム・ルナの荒野を舞台にした、勇者と皇子の最後の一騎打ちが決定した。
しかし、ルーナはまだ気づいていなかった。
戦場の中に燻る「雷」の衝動が、もはや「儀礼的な決闘」などで収まるほど、小さなものではなくなっていることに。
ゼム・ルナの最深部、静寂が支配する荒野の中央。
両軍の数万の視線が突き刺さる中で、二人の男が対峙していた。
一人は、数多の戦場を駆け抜け、その身に荒ぶる雷までをも宿した風の勇者ケイン。
もう一人は、漆黒の光を放つ鎧に身を包み、背に六枚の美しい羽根を湛えた皇子ルシエル。
互いの武器が届くか届かないかの距離。周囲の喧騒すら届かないその場所で、ルシエルが穏やかな声を上げた。
「初めまして、勇者ケイン。……本音を言えば、このような場ではなく、どこか別の場所で出会いたかったですね」
ルシエルが向けたのは、魔族の長にふさわしからぬ、春の陽光のような優しさすら感じる笑顔だった。ケインはその瞳に映る誠実さに、わずかに目を見張る。
「……もっと早く、こんな形で終わらせられればよかったんですけど。魔王との戦いだって、本当はそうあるべきだったんだ」
ケインはルシエルに言うというより、自分を縛り付けてきた戦いの歴史を悔いるように、自らに言い聞かせた。その言葉に、ルシエルはクスリと小さく笑った。
「そうですね。確かにその通りだ。我々は互いに、あまりに多くの血を流しすぎました。……それも、これでおしまいです。最後に、見守る皆様に納得していただけるような、最高の戦いをしましょう」
ルシエルもまた、巨大な魔族の歴史に飲み込まれ、押しつぶされそうになりながらも、民を守るために必死に立っていた悲しき指導者なのだと、ケインは直感した。
「そうだ、戦う前に一つ、勇者よ。あなたの好きなものを教えてくれませんか」
「好きなもの……?」
「ええ。私は読書が好きだ。……これは側近にも秘密ですが、私は人類が書いた恋愛小説を読み耽るのが好きでね。この戦が終わったら、日の当たる場所でゆっくりと続きを読みたいものです」
戦場の真ん中で語られる、あまりに場違いで、あまりに人間臭い趣味。
ケインの頬が、数刻ぶりに緩んだ。
「そうなんですね。……俺は、田舎で食べるシチューが好きです。木と土の匂いがする家で、温かいシチューを食べて暮らす。それが、俺の好きな時間なんだ」
その言葉に、今度はルシエルが思わず口元を抑えた。
「はは……あまりにも、この殺伐とした舞台には合いませんね」
「お互い様だよ」
ふっと、二人の表情から重苦しい影が消えた。
「殺したい」から戦うのではない。「終わらせるため」に戦う。お互いに死にたくはないし、これ以上の血も見たくない。その一点で、二人の心は深く通じ合っていた。
互いの決意を確認するように、二人は静かに武器を構えた。
ケインは使い込まれたハルバートを、ルシエルは静かな光を放つ漆黒の剣を。
「じゃあ、行きますよ!」
「全力で行かせてもらう!」
次の瞬間、二人の姿が消えた。
荒野に響き渡ったのは、憎しみではなく、明日を願う者同士がぶつかり合う、澄んだ鋼の音だった。
荒野に響き渡る音は、もはや死を呼ぶ悲鳴ではなく、研ぎ澄まされた魂が奏でる荘厳な調べのようだった。
「はあぁぁぁっ!」
ルシエルの漆黒の剣が、一筋の影となって空を裂く。それは無駄を一切削ぎ落とした完璧な円舞。六枚の羽根を翻し、重力を無視した軌道で繰り出される剣捌きに、人類軍からも、魔王軍からも、感嘆の吐息が漏れた。
対するケインは、まさに「風」そのものだった。
ルシエルの神速の刺突を、わずか数ミリの差でいなし、その勢いを利用してハルバートを嵐のように旋回させる。石突きの鋭い一打がルシエルの盾を叩き、穂先が影を切り裂く。
両者全く互角。
聖なる輝きを纏う勇者と、漆黒の光を背負う黒騎士。その姿は、かつて神話に記された聖戦の一節が現世に蘇ったかのような、あまりに神々しい光景だった。
しかし、戦いが中盤を過ぎる頃、静かに均衡が傾き始める。
(強い……だが、ルシエル皇子の剣は「美しすぎる」んだ)
ケインは、刃を交える中で確信していた。
ルシエルの剣は、宮廷で磨かれ、鍛錬によって完成された完璧な芸術。対してケインの戦い方は、泥にまみれ、死線の中で形を変えてきた「生」への執着そのもの。
完璧であるが故に、ルシエルの動きには予測可能な「正解」があった。
ルシエルが仕掛けた渾身の下段払い。ケインはそれを跳んで避けると見せかけ、あえて一歩踏み込み、ハルバートの柄でルシエルの重心を崩した。
「――っ!?」
完璧だったはずの円舞に、わずかな綻びが生まれる。その一瞬の隙を、ケインは見逃さなかった。
ルシエルの剣が、最後のリベンジとばかりにケインの頬を鋭く掠める。一筋の鮮血が舞ったのと同時、ケインのハルバートが、下から突き上げるような閃光となって放たれた。
キィィィィィィィン!!
耳を劈くような金属音が響き渡る。
ルシエルの頭上を飾っていた豪奢な王冠が、一撃に弾け飛び、宙を舞って砂塵の中に転がった。
「…………」
静寂が、戦場を支配した。
ルシエルは、乱れた長髪を風になびかせたまま、ゆっくりとその場に片膝をついた。
「……参りました。見事な一撃でした、勇者ケイン」
清々しいほどの微笑みを浮かべ、ルシエルは敗北を認めた。
憎しみによる破壊ではなく、技と魂のぶつかり合いによって導き出された終止符。
魔王軍からは落胆の声ではなく、主君の誇り高い戦いへの敬意が、人類軍からはあまりに美しい幕引きへの賞賛の沈黙が捧げられた。
ルーナは、その光景を見て胸を撫で下ろしていた。
「……よかった。ケインさんは、聖なる勇者のまま、この戦いを終わらせてくれた……」
だが、安堵する彼女の気持ちをよそ目に、戦いの終焉を感じたグラムの瞳は、いまだ険しく一点を見つめていた。
次の瞬間、歴史的な和解の静寂は、無慈悲な怒号と鉄の臭いによって切り裂かれた。
「全軍、突撃ィィィッ! 膿を出し尽くせ! 一匹残らず屠れェ!!」
グラムの咆哮が、静寂を保っていた戦場を呪いのように塗り潰した。
それは歴史的な和解の合図ではなく、一方的な虐殺の幕開けだった。武器を置き、主君ルシエルの敗北を誇り高く受け入れようとしていた魔王軍の背後から、救世軍の槍が無防備な肉体を次々と貫いていく。
「な、何を……!? 約束が違うぞ! 聖女も、勇者も和解を認めたはずだッ!」
悲鳴と怒号が渦巻く中、崩れ落ちる兵士たちの血が、ゼム・ルナの乾いた大地を汚していく。
ケインは、勝利の証として握っていた槍を震わせ、目の前の光景に絶句した。
「……やめろ。やめるんだ、グラム!!」
叫びは届かない。グラムの瞳には、もはや正義などなく、ただ異形を根絶やしにするという狂信の毒だけが回っていた。
ルシエルが浮かべていた清々しい微笑みは、一瞬にして凍りつき、裏切られた絶望と怒りへと塗り替えられていく。
「……これが、貴様たちの選んだ『光』の正体か。勇者ケイン……!」
地に伏したルシエルの、血を吐くような呪詛。
勇者の品格さえも泥にまみれ、戦場にはただ、裏切りという名の猛毒が広がり始めていた。
「魔族との約束だと? 反吐が出るわ! 害獣に言葉など不要、あるのは殲滅のみよ!」
返り血を浴びたグラムが、狂ったように笑いながら倒れた兵士の首を撥ね飛ばす。先ほどまでの神々しい決闘は、一瞬にして一方的な屠殺場へと変貌した。
ルシエルは、信じられないものを見るように、虐殺される自らの兵を見つめていた。その美しい羽根が、絶望に震える。
「……やはり、そうでしたか。綺麗事では、運命は変えられなかったのですね」
ルシエルは力なく微笑み、しかし冷徹な殺意を宿した瞳でケインを見据えた。折れかけていた剣を再び握り直し、その身から漆黒の魔力を噴き上がらせる。
「……裏切られたのは、私だけではない。……さようなら、ケイン。我々は、どこまで行っても分かり合えないようだ」
「待て……違うんだ、ルシエル! やめろ……みんな、やめるんだ!!」
ケインの叫びは、戦場の狂乱に飲み込まれていく。
守りたかった。信じたかった。この手で、今度こそ血の歴史を止めたかった。
だが、視界に入るのは、正義を掲げて虐殺を謳歌する「人間」たちの醜悪な姿。
――信じた結果が、これか。
――守ろうとした連中が、これなのか。
ケインの奥底で、何かが決定的に、修復不可能な音を立てて砕け散った。
「やめろ……やめろぉぉぉ…………やめろォォォォォォッ!!!」
天を衝くような咆哮とともに、ケインの身体から漆黒の雷光が爆発した。
だが、その苛烈な破壊の矛先が向けられたのは、魔王軍ではない。
自分を「勇者」と崇め、その裏で裏切りを働いた、人類救世軍であった。
「ぎ、ぎゃああああっ!?」
一閃。ケインから放たれた黒い雷が、突撃していたグラムの先陣を、馬もろとも炭化させて消し飛ばした。
「ケイン……さん……?」
穏健派を押さえつける強硬派の兵士たちを押し倒し、天幕から駆け出したルーナの顔が恐怖に引き攣る。
そこに立っていたのは、人類を導く希望の光ではない。
かつて魔王が抱いた絶望すらも焼き尽くす、終焉の「魔神」へと至った男の姿だった。
ついに、起きてはいけないことが起きてしまった。
信じていた正義、誓い合った和解、そして勇者としての誇り。そのすべてをグラムの背信という名の毒が汚していく。戦場を埋め尽くすのは勝者の歓喜ではなく、裏切られた者たちの呪詛と、理不尽に散っていく命の悲鳴だった。
ケインの力が、吹き荒れる血風を切り裂く。
その瞳から、ついに「人間」としての光が消え失せた。
守るべきはずの人類が、今、最も醜い怪物となって牙を剥く。
ならば、その牙を砕くのは誰か。
勇者の刃が、静かに、そして冷酷に――守るべきはずの同胞へと向けられた。
混迷を極めるゼム・ルナの地で、真の「悪夢」が産声を上げようとしている。
血に染まった聖域に、救済の道は残されているのだろうか。




