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第十一章 虚構の聖域、叛逆せし勇者の慟哭《どうこく》

吹き荒れる漆黒の雷鳴に、もはや敵と味方を判別する知性ひかりは残っていなかった。


つい先刻まで「正義」の名を隠れ蓑に、無抵抗な魔族への虐殺を謳歌していた強硬軍の兵士たち。だが今、彼らを襲っているのは、自分たちが呼び覚ました「災厄」による無慈悲な断罪だった。救いを求める悲鳴は雷鳴にかき消され、かつての英雄の力は、触れるものすべてを灰へと変える死の奔流と化していく。


阿鼻叫喚の地獄と化した戦場の中央。

逃げ惑う群衆を掻き分け、一人の男が狂気に憑りつかれた瞳で躍り出た。


「偽物め……。偽物の勇者が、分不相応な力を振るうなッ!」


その手に握られた火の剣は、もはや正義を照らすためではなく、肥大化した劣等感をぶつけるための歪な凶器。

混迷を極めるゼム・ルナの地で、名門の矜持に縛られた男・グラムが、破滅へと続く最後の一歩を踏み出そうとしていた。

「ははっ……あはははは! 見ろ、正体を現したな、偽りの勇者め! その禍々しい姿こそが貴様の正体だ!」


地獄と化した戦場の中心で、グラムは狂喜に顔を歪ませていた。逃げ惑う兵士たちの悲鳴を、まるで自分を称える賛美歌であるかのように聞き流しながら、彼は燃え盛る大剣を狂ったように振り回す。


「そもそも貴様のような、高貴な血の一滴も引かぬ田舎の木こり風情が、神に選ばれし『勇者』を騙るなど……最初から吐き気がしていたのだ! 名門の剣技を知らぬ卑しい獣め、その身に刻め。泥を啜って死ぬのが、貴様ら家畜に相応しい末路だと教えてやるッ! 私こそが……私こそが、歴史に刻まれる本物の勇者なのだぁ!!」


劣等感という名の劇薬が、グラムの理性を焼き切っていた。

火の騎士団に伝わる禁忌の秘奥義――己の命すら燃料に変える『熾炎・煉獄十文字』。紅蓮の炎を纏った大剣が、空気を爆ぜさせながらケインの首筋へと肉薄する。


しかし、ケインは動かない。

瞬きすらしないその瞳に宿っているのは、怒りでも憎しみでもない。ただ、果てのない夜のような「無」であった。


虚無が極まった瞬間、世界から音が消えた。


「…………え?」


グラムの歓喜に満ちた表情が、凍りつく。

極大の漆黒が視界を塗り潰したかと思った次の瞬間、一筋の雷鳴が因果を無視してグラムの肉体を貫いていた。


「が……はっ……あ、あ……」


叫びを上げる隙も、恐怖を感じる猶予さえ与えられない。

かつて「本物の勇者」を夢見て、他者を踏みにじり続けた男は、漆黒の雷に内側から焼かれ、言葉にならない喉鳴りを残したまま――ただの物言わぬ炭塊へと変じ、戦場の塵に混じって消え失せた。


あまりにも一方的で、あまりにも無慈悲な幕切れ。

その凄惨な光景に、ルーナも、ソフィアも、そして宿敵であったはずのルシエルさえも、魂を凍りつかせたかのように動くことができなかった。


「一体、何が起きているというのだ……。この禍々しい波動、まるで父上ではないか……」


ルシエルが、震える声でその異形を仰ぎ見る。

漆黒の雷鳴を纏い、感情を排したケインの姿に、彼はかつて世界を恐怖させた父――魔王の面影を重ねていた。その魔力の奔流は、もはや聖なる加護などではなく、魔族の王が振るう闇のことわりそのもの。


混迷を極める戦場の中、冷静さを保とうと努めるルシフェラが、戸惑う兄に進言した。


「兄上、今は感傷に浸っている時間はありません。この隙に軍を立て直してください。戦いを継続するにせよ、撤退するにせよ、今のままでは混乱に呑まれるだけです……あの力の矛先が、我々に向けられる前に」

「あの力……。いや、うむ。分かっている。全軍、立て直せ! 負傷した兵を運び出すのだ。急げッ!」


ルシエルの号令が響くが、兵士たちの瞳には、救世の勇者ではなく「新たな魔王」への根源的な恐怖が刻み込まれていた。


「……あれが、本当にあの心優しき勇者だというのか? あの姿は、まさしく我らが討つべき『魔王』そのものではないか……!」


穏健派の旗頭であり、誰よりもケインの良き理解者であったはずのソフィア。その彼女でさえ、味方であったはずの兵士たちが次々と黒き雷に焼かれ、塵と化していく惨状を前に、苦渋に満ちた表情で剣を抜かざるを得なかった。


「待ってください、ソフィア様! ケインさんはそんな人では……彼はただ、裏切りに心を痛めて……!」


縋り付くようなルーナの叫びに、ソフィアは一瞬だけ悲しげに目を伏せた。だが、次に顔を上げた時、その瞳には騎士としての冷徹な決意が宿っていた。


「ルーナ、貴様の気持ちも汲んでやりたい。……だが、見て見ぬふりをするには、流れた血が多すぎる。我々にまでその牙が向けられた以上、もはや『対話』の段階は過ぎた。これ以上の暴走を許せば、人類そのものが滅ぼされかねん」


「そんな……っ!」


「すまない。私は、私の部下を……この軍を守らねばならん。たとえ、かつての英雄に刃を向けることになろうとも!」


(ああ……ケインさん……もう、本当に戻れないの……?)


絶望に膝をつき、祈りの言葉さえ失ったルーナ。その傍らで、ソフィアは「魔神」へと堕ちたかつての友を止めるべく、悲壮な覚悟を込めて剣を構え直した。


その時――。


戦場を横断するように、天を突く巨大な炎の一撃が轟いた。


「――そこまでだ、ケイン!」


轟音と共に、荒れ狂う黒い雷を「火の壁」が遮断する。

土煙の向こうから現れたのは、銀光を放つ巨大な狼。その背には、燃え盛る炎の腕を持つ伝説の勇者アベル。


そして、その殺伐とした死地にはあまりにも似つかわしくない、一人の少女。


「ケインさん!!」


ミラベルの声が、凍りついた戦場に響き渡った。



「よお。泣き虫ケイン。久しぶりじゃねぇか。なんだよその姿、全く似合ってねえぞ」


荒れ狂う黒い雷を炎の壁で強引に割り込み、アベルが不敵な笑みを浮かべて歩み出た。肩に炎の剣を担ぎ、かつての戦友に向けるその視線は、怪物を見るものではなく、出来の悪い弟分を叱るそれだった。


「あ、あれは……火の勇者アベル様!? まさか、生きていらしたなんて……!」


ソフィアとルーナが驚愕に目を見開く。戦死したはずの伝説が、炎を纏い目の前に立っている。だが、肝心のケインは無表情だった。その瞳は深い闇に塗り潰され、かつての優しさの欠片も残っていない。


「……ケインさん」


ミラベルが震える声でその名を呼ぶが、その瞳は彼女を捉えることすらしない。ただ、冷たく凍りついた「虚無」がそこにあるだけだった。


「ふん。完全にイっちまってやがるな。あいつを正気に戻すには、ちょっと刺激を与えないとダメなようだ」


アベルはそう言うと、首の筋肉を鳴らし、肩に乗った小鳥のルーを見やった。


「ミラベル嬢。悪いが、俺はアイツの頬を引っ叩いて目を覚まさせてくる。あんたはここで、特大のシチューの準備でもして待っててくれ」


「アベルさん……。はい、お願いします! ケインさんを、助けて!」


ミラベルは溢れそうな涙を拭い、アベルにすべてを託した。

アベルは一度だけ頷くと、ケインと正面から対峙する。


『アベル、加減は無しだぞ。相手は神の領域に踏み込んでいる。一歩間違えれば、我らごと焼き尽くされるわ!』

「ああ、わかってるよルー。……全開で行くぞ!」


その瞬間、アベルの首筋の紋章が激しく脈打ち、全身から黄金の火柱が噴き上がった。

右手の炎の剣は太陽のような熱量を帯び、戦場の冷気を一瞬で蒸発させる。


闇雷を纏い、すべてを拒絶する「闇雷の魔神」ケイン。

業火を背負い、かつての絆を取り戻さんとする「炎の魔神」アベル。


「らあああぁぁぁっ!!」


アベルの咆哮と共に、二つの巨大な魔神が衝突した。

衝撃波で大地が割れ、天を覆う黒雲が真っ二つに裂ける。


世界の存亡を賭けた、最悪で、そして最高に熱い「勇者同士」の喧嘩が、今始まった。



二柱の魔神がぶつかり合うたび、ゼム・ルナの大地は悲鳴を上げ、天を裂く衝撃波が両軍の兵士たちを木の葉のように吹き飛ばした。


それはかつての聖戦、勇者と魔王がすべてを賭けて激突したあの日の再来。圧倒的な力の奔流を前に、ソフィアもルシエルも、ただ息を呑んで立ち尽くすことしかできなかった。


だが、その狂乱を見つめるギンの瞳だけは、冷徹に結末を予見していた。


『……このままでは埒があかん。勇者と魔王と同じ相打ちの結果になるか、いや……あるいは……』


「あ、あるいは何!? ギン、教えて!」


吹き荒れる爆風の中、ミラベルはギンの毛並みにしがみつきながら叫んだ。ギンは低く唸り、最悪の可能性を口にする。


『……火の勇者の負けだな』


「えっ……!? だって、アベルさんはあんなに……!」


『風の勇者を見ろ。あやつ、戦いの中でさらに「進化」を続けている。風と雷だけではない……かつて取り込んだ土と水の加護までをも強引に引き摺り出し、あらゆる属性を塗り潰す「無」の領域へ至ろうとしているのだ』


ケインの異常なまでの才覚。それは皮肉にも、彼が誰よりも純粋に「守るための力」を渇望し、すべてを背負い込もうとした結果だった。アベルの黄金の炎が、ケインから放たれるどす黒い虚無の力に、一歩、また一歩と押し返されていく。


「そんなのダメ……! アベルさんが負けたら、ケインさんは本当に一人ぼっちになっちゃう!」


ミラベルの脳裏に、かつて自分に優しく微笑んでくれた、寂しげなケインの横顔が浮かんだ。彼が求めていたのは、世界を滅ぼす力などではない。ただ、温かい食事と、静かな居場所だったはずだ。


「なんとかしなくちゃ……。ギン、私をあそこまで連れて行って! 近くまで行かなきゃ、私の声は届かない!勇者の証を渡せない!」


『正気か? あの中は、人間が踏み込めば魂ごと消し飛ばされる煉獄だぞ!』


「いいの! 私がやらなきゃ、ケインさんは自分を許せないまま壊れちゃう! お願い、ギン!!」


ミラベルの決死の覚悟に、ギンは一瞬だけ牙を剥き出しにして笑った。


『……フン、これだからこの人間の小娘は面白い。振り落とされるなよ、ミラベル!』


銀狼が吠えた。

アベルとケイン、二つの魔神が激突するその爆心地へ向かって、銀色の閃光が突撃を開始した。

「……全開で行くぞ!」


アベルの咆哮とともに、黄金の火柱が天を突き抜けた。

かつて共に魔王を追い詰め、死線を越えた兄弟分。その絆は今、互いの命を削り合う「最悪の衝突」へと形を変える。


漆黒の雷を纏い、絶望の深淵からすべてを拒絶するケイン。

業火を背負い、ミラベルの想いを胸に拳を振るうアベル。


二つの強大な魔神が激突した瞬間、ゼム・ルナの空は真っ二つに裂け、因果の鎖が軋みを上げた。

これは正義のための戦いではない。ましてや世界を救うための儀式でもない。

ただ、道を踏み外した弟の頬を殴り飛ばし、人間ひとの温もりへと連れ戻すための、命懸けの「喧嘩」だ。


「ケインさん……っ!」


衝撃波に煽られながらも、ミラベルはただ祈るようにその光景を見つめていた。

炎と雷が交錯する嵐の果てに、彼女が待つ「温かい食卓」への道は拓けるのだろうか。

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