第八章 落日の追憶、雪原を駆ける希望の火
白銀に閉ざされた沈黙の世界を、一筋の閃光が切り裂いていく。
ミラベルは、冷気を切り裂いて疾走するギンの背に必死でしがみついていた。頬を打つ雪礫の痛みさえ、今の彼女にはもどかしい。
(……ケインさん、待ってて。今、行くから!)
その胸の奥に、かつての穏やかな微風ではない、暴力的なまでの「熱」が流れ込んでくる。
遥か西、死の大地「ゼム・ルナ」の空を焦がしているのは、愛する人の悲鳴か、それとも変わり果てた勇者の咆哮か。
神獣の咆哮が地吹雪を震わせ、少女の祈りを乗せて加速する。
目指すは、すべての運命が交錯する終焉の地。
ミラベルはただ、己の体温を分け与えるように、懐に抱いた「勇者の証」を強く、強く握りしめた。
「――ッ、伏せろ!」
ギンの鋭い警告と同時に、視界が真っ赤に染まった。
凍てつく大気を切り裂き、巨大な炎の一閃がミラベルたちの鼻先を掠める。
「きゃっ!?」
ギンは驚異的な反応速度で跳躍し、空中で身を翻して着地した。雪が蒸発し、白い霧が立ち込める。その霧の向こうから、一人の男がゆっくりと姿を現した。
ボロ布のようなマントを纏い、顔の半分を古い包帯で覆った、隻腕隻眼の剣士。
その手に握られた折れかけの剣には、どす黒い殺意とともに、消え入りそうな、けれどあまりに激しい炎が宿っていた。
「……魔物か。いや、精霊の類いか。あいつの放つ禍々しい雷鳴に、呼び寄せられた羽虫の一種か。……どちらでもいい。あの男が今、何になろうとしているか理解しているなら、そこをどけ。これ以上、あの戦場に余計なノイズはいらんのだ」
男は低い声で呟くと、再び炎を纏って地を蹴った。鋭い突きがギンを襲うが、全盛期の速さを取り戻しつつあるギンの動きには、到底ついていけていない。
『ミラベル、こいつ……死に体だが、剣筋だけは一人前だ。このまま放っておいても後々厄介になりそうだ。排除してよいか?』
ギンの喉が低く鳴り、銀色の雷光が牙に溜まる。
「待って、ギン! 殺しちゃダメ! ……お願い、話を聞いて!!」
ミラベルはギンの背にしがみついたまま、勇者の証を掲げ必死に声を張り上げた。
「私たちはケインさんの味方です! 勇者の証を届けに向かっているんです! 敵じゃないわ!!」
その「ケイン」という名に、男の剣がわずかに止まった。包帯の間から覗く唯一の瞳が、背中に乗る少女――震えながらも真っ直ぐに自分を見つめるミラベルを捉える。
「……ケインの……?」
男が剣を下げたその時、ミラベルの胸元からひょこりと顔を出した小鳥姿のルーが、驚いたように声を上げた。
『おい、ギン。待て……こいつのこの、焦げ付いたような魂の匂い……おい貴様、アベルか? 「火の勇者」アベルではないか!』
「……。俺を、その名で呼ぶ者がまだいたとはな」
男は自嘲気味に笑い、折れかけた剣を鞘に収めた。
数年前、魔王軍との激戦で戦死したと伝えられていた「火の勇者」アベル。
かつては太陽のような輝きを放っていたはずの彼は、今や片腕を失い、復讐の残り火だけで立っている亡霊のような姿に変わり果てていた。
「死んだはずの勇者様が、どうしてこんなところで……」
呆然とするミラベルに、アベルは残された片目で西の空――ケインのいる戦場を見つめ、苦々しく吐き捨てた。
「……あいつを、ケインを殺しに行くつもりなら、俺が相手になる。だが、もし救いたいというのなら……急げ。あいつの炎は、もうすぐ自分自身を焼き尽くす」
かつての戦友だからこそわかる、ケインの「崩壊」。
ミラベルは、アベルの言葉に背筋を凍らせながらも、強く頷いた。
アベルは雪の上に腰を下ろすと、遠い目をして失われた右腕の付け根をさすった。
「……前大戦の最後、俺は魔王の一撃を受け、引き裂かれた時空の隙間に飲み込まれた。死を覚悟したが、気づけば言葉も通じない、地図にも載っていないような異国の街に放り出されていたんだ」
そこでの生活は凄絶なものだったという。隻腕隻眼、おまけに瀕死の重傷。だが、名もなき街の人々の献身的な介抱により、彼は奇跡的に一命を取り留めた。
「ようやく体が動くようになり、この地へ戻ろうとしていた矢先……空気が震えるのを感じた。風の、いや、ケインのあまりに異様で、禍々しいまでの魔力の高鳴りをな。……嫌な予感がした。かつて、俺たちが目の当たりにした『あの最後』と同じ匂いがしたんだ」
「あの最後……? 魔王との戦いの、こと?」
ミラベルの問いに、アベルは苦く重い沈黙を返した。
「ああ。公には、光の勇者は相打ちとなって魔王を討ったとされている。だが、俺が最期に見た光景はそんな綺麗なものじゃない。……あれは、正義と悪の戦いなどではなかった。『闇の魔王』と『光の魔王』の、ただの一騎打ちだったよ」
その言葉に、ミラベルは息を呑んだ。
「……圧倒的だったよ。絶望なんて言葉じゃ足りないくらいにな」
アベルは遠い目をして、まるであの日の熱風を今も肌に感じているかのように言葉を繋いだ。
人類救世軍の精鋭、勇者連合。その全力が一人の魔王に叩き伏せられ、防戦一方に追い込まれていたあの瞬間。光の勇者アーサーですら、全身を血に染めながら剣を振るうのが精一杯だった。
「なんてデタラメな力だ! 俺たちの全力をもってしても、これほどまでに……!」
アーサーの叫びが、爆炎と土煙の中に消える。誰もが「終わり」を予感したその時、土の勇者ダインが咆哮とともに前へ出た。
「俺が盾になる! 奴の連撃をすべて引き受けて隙を作る……その間に、貴様らの全力をあの魔王に叩き込めッ!」
ダインが全技力を解放した瞬間、大地が鳴動し、古の土の精霊たちが彼に絶対の加護を授けた。
土の勇者奥義――『ガイア・イージス・フルバースト』。
一時的にあらゆる理を排し、すべての攻撃を無効化する金剛不壊の構え。魔王が放つ無尽蔵の魔力弾を、ダインは大盾の一撃――パリィですべて跳ね返してみせた。
「……すげぇ、マジかよ」
呆然とする俺の横顔を、ルークが鋭い視線で射抜く。
「感心してる場合か、アベル! 技力を練れ、次で決めるぞ!」
「わかってる……ッ! うぉぉぉおおおおお!」
三人の勇者が放つ極限の闘気が、魔王城の玉座の間を白く染め上げる。
俺たちは、それぞれが持つ最強の奥義を、一斉に解き放った。
「焼き尽くせ! 『プロメテウス・イグニッション』!」
数千度の劫火が渦を巻き、魔王の肉体を灼く。
「断ち切れ! 『ヴォルテックス・カッター』!」
超高圧の水流が、音速を超えて魔王の装甲を切り裂く。
「これで終わりだ! 『ルミナス・エクスプロージョン』!」
アーサーが一点に凝縮させた光の粒子が、魔王の心臓部へと叩き込まれた。
「ぐ……お、おおおおおおお……っ!!」
地の底から這い上がるような絶望の絶叫。
あの不沈の魔王の巨体が、三つの究極奥義の奔流に飲み込まれ、光の彼方へと吹き飛んでいったんだ。
……ああ、勝ったと思ったよ。あの瞬間まではな。
勝利の歓喜に沸いたはずのその場は、ダインの短い断末魔によって一瞬で凍りついた。
弾け飛んだ魔王の残滓――究極の点にまで凝縮された闇が、爆発的な勢いで膨れ上がり、禍々しい人型へと変貌していく。それは、俺たちが倒したと思っていたものが、単なる「器」に過ぎなかったことを告げ知らしていた。
古の神々が、俺たち勇者を生み出した最大の理由。
そのあまりの強大さゆえに封印した災厄。『闇の魔神』の顕現だった。
「……う、嘘だろ……ダイン……ッ!!」
世界で最も剛健な加護を誇り、魔王の猛攻さえパリィしてみせた土の勇者が、まるでおもちゃの兵隊のように、魔神の一振りで呆気なく真っ二つに割れ、崩れ落ちた。
「クソが……ッ! ダインの野郎、俺に貸しを作ったまま死ぬんじゃねぇよ!!」
激情に駆られたルークが、制止の声も聞かずに特攻を仕掛ける。水の勇者の神速をもって放たれた必殺の一撃。だが、その一閃は魔神の影に容易く飲み込まれ、次の瞬間には、漆黒の腕がルークの胴体を冷酷に貫いていた。
「ぐ、……ぁ……っ」
「ルークーー!!」
俺とアーサーがその隙を突こうと踏み込んだが、魔神はゴミでも捨てるようにルークの体を放り投げ、俺たちに叩きつけた。
受け止めたその感触は、すでに物言わぬ肉の塊だった。
ついさっきまで「デートの約束がある」と笑っていた男の、光を失った瞳。その顔を間近で見た瞬間――光の勇者アーサーの中で、決定的な「何か」が壊れる音がした。
「……ああ、そうか。正義も、加護も、最初からなかったんだな」
アーサーの口から漏れたのは、祈りではなく、神を呪うような乾いた笑いだった。
その背中から溢れ出した光は、もはや人々を照らす慈愛の輝きではない。すべてを塗り潰し、白濁した虚無へと変える、狂気の濁流へと変質していく。
「アベル。撤退しろ……。もう、何も残さなくていい」
それは、光の勇者が『救世主』であることを辞め、ただの『破壊の化身』へと墜ちた産声だった。
視界が白濁するほどの高純度の魔力が、アーサーの拳の中で軋みを上げた。
「勇者の証」――女神の加護そのものである黄金のメダルが、彼の指先であっけなく粉々に砕け散る。その瞬間、器という枷を失った「光」が暴走を始め、内側からアーサーの肉体を無慈悲に引き裂いていく。
「ま、待て! 早まるな、行くなアーサー!!」
俺の叫びは、もはや彼には届かない。
俺の中の『火』の感性が、絶望的な予感に震えていた。……ああ、こいつは選んだんだ。仲間を救うための「勇者」であることを辞め、敵を滅ぼすためだけの「あっち側」の領域へ堕ちることを。
「あとは頼んだよ、アベル」
血を吐きながら、アーサーはいつものように優しく微笑んだ。それが、人間としての彼の最期の表情だった。
直後、彼の肉体は弾け飛び、眩いばかりの光の奔流――『光の魔神』へと昇華する。
顕現した二体の魔神が衝突した瞬間、因果律が崩壊し、空間そのものが悲鳴を上げて歪み始めた。
「アーサー!! うぉぉぉおおお!!」
時空の嵐に皮膚を削り取られながらも、俺は全技力を拳に凝縮させた。
救世軍最強の火力を誇る、俺の「熱」のすべて。魔神と化したアーサーが開いた一瞬の隙に、俺は魔王だった「闇」の心臓部へとその一撃を突き立てた。
会心の手応え。だが、代償はあまりに大きかった。
「……ぐ、あああああッ!!」
闇の魔神から放たれた反撃の爪が、俺の利き腕を根元から奪い去り、右目の視界を永遠の暗闇へと突き落とした。
弾き飛ばされる俺の意識の端で、アーサーだった光の塊が、さらにその輝きを苛烈に増していく。
……伝わったのか。俺の、泥臭い執念の一撃が。
一瞬だけ、あの光の中に「アーサーの心」が蘇ったように見えた。
二体の魔神は互いを食らい尽くすように激突し、臨界点に達したエネルギーが空間ごとすべてを崩壊させていく。
その破壊の波動に呑み込まれ、俺は最後の結末を見届けることさえ許されず、次元の狭間へと叩き落とされた。
「勇者の力と魔王の力は、表裏一体なんだ。人々の期待、過剰な使命感、そして強すぎる魔力……。それらを器(身体)に溜め込みすぎれば、光であろうと闇であろうと、行き着く先は『人を辞めること』に他ならない」
アベルの独白に、ギンが低く唸る。
『……やはりな。神の力を降ろしすぎた器は、その重みに耐えかねて、内側から人としての理を焼き切ってしまう。それが今、ケインに起きているということか』
「そうだ。あいつはあの戦場にいなかった。あの時のケインは優しすぎた故に、人々の期待や使命感に耐えられなかったんだ。だからこそ、散っていった仲間の想いや、ルーナの祈りという名の『呪い』をすべて受け入れてしまったんだ。……今、あいつは必死に人間であり続けようと踏みとどまっているが、それも時間の問題だろう」
アベルは震える左手で折れた剣を握りしめ、ミラベルを真っ直ぐに見据えた。
「お嬢さん、あんたがあいつの『楔』になれるか? あいつをこの世界、人間側の世界に繋ぎ止められるのは、きっと伝説の武器でも聖女の祈りでもない……もっと泥臭くて、個人的な『執着』だけだ」
「……はい。私は、ただケインさんに美味しいご飯を食べてほしいだけですから」
ミラベルの迷いのない返事に、アベルは少しだけ口角を上げた。その顔には、かつての勇者としての誇りと、友を案じる一人の男の顔が混ざり合っていた。
『面白い、面白いぞ小僧! 私と契約しろ!』
さっきまでミラベルの肩で大人しくしていたルーが、弾かれたように飛び上がると、アベルの肩へと乗り移った。
「な、なんだこのスズメは!? 燃えてるぞ!」
『スズメなどではないわ!』
アベルが驚いて肩をすくめると、ルーは全身の羽を逆立てて怒ってみせる。その姿はどこからどう見ても怒ったスズメなのだが、ミラベルは苦笑いしながら割って入った。
「あのですね、アベル様。ルーはこう見えても、本当はすっごくおっきい火の鳥……太陽神ルーなんです」
「火の鳥? 太陽神? フェニックスということか? ……これがか?」
アベルが信じられないといった様子で目を丸くするので、ミラベルはこれまでの旅の経緯を説明した。ギンのこと、水晶石のこと、そして神獣の力を器に宿してケインを救おうとしていることを。
「なるほど……。勇者の力を別の器に逃がして、ケインの負担を減らすというわけか……。そんな方法があったとはな」
『それにだ、アベル。貴様もその腕と折れた武器では、何かと不便であろう? あの狂い始めた勇者を止めるにしてもだ』
ルーの言葉に、アベルは自身の欠けた身体を見つめて沈黙した。
『確かに、小娘一人では戦場でケインの元へ辿り着く前に軍勢に飲まれる。前衛に動ける者がいるのは悪い話ではない。良い案かもしれんぞ』
ギンの後押しに、ミラベルはハッとして心配そうに声を上げた。
「待って! ここでルーがアベル様と契約しちゃったら、ケインさんの力を預かる分がなくなっちゃうんじゃないの?」
すると、ルーがこれ以上ないほど傲慢に胸を張った。
『ふん、神獣との契約が一獣につき一人だと思ったか? 我らは神なる獣ぞ。かつては数百、数千の信徒と契約を交わしてきたのだ。小僧一人と契約したところで、ケインの力を吸い上げる余力などいくらでもあるわ!』
「……でも、そのスズメ姿だと、説得力がなくて可愛いだけだよ?」
『き、貴様ぁーっ!!』
ミラベルのツッコミにルーがむくれると、凍てついた空気が少しだけ和らぎ、一同の間に笑いが漏れた。アベルもわずかに口角を上げると、覚悟を決めたようにルーを見つめた。
「わかった。頼む、ルー。……俺と契約してくれ。この命、ケインを救うために捧げよう」
『よし、契約は成った!』
その瞬間、ミラベルの持つ水晶石が激しい熱を帯びて発光した。中から傷ついたルーの本体――巨大な炎の影が飛び出し、アベルを包み込む。
「ぐ、ああああああッ!!」
アベルの首筋に、鮮やかな火の鳥の紋章が刻まれていく。
すると、どうだろうか。失われていたはずの右腕が、そして潰れていたはずの片目が、黄金の炎を凝縮したような光を纏って「再生」していくではないか。
それは肉体の復活というより、ルーの魔力がアベルの欠損を補い、実体化させたものだった。
「……腕が、動く。視界も……はっきり見える」
炎を纏う新たな腕を握り締め、アベルは再び立ち上がった。その佇まいは、もはやボロ布を纏った亡霊ではない。かつての戦場を焼き尽くした、伝説の勇者の威厳を取り戻していた。
「よし。これで道は拓ける。行くぞ、お嬢さん。あの不器用な馬鹿をぶん殴って正気に戻してやる」
「私の名前はミラベル。よろしくね、火の勇者様!」
「ミラベル……。ああ、ケインがよく話してた『オレンジの髪をした、太陽みたいに明るい村娘』ってのは、お嬢さんのことだったか。ははっ、こいつは守り甲斐があるってもんだ」
不敵に笑うアベルの言葉に、ミラベルの顔が一気に火照る。
「えっ!? ケインさんが、私のことを……!? ちょ、ちょっと待って、何を、なんて言ってたの!?」
「それは……再会した時に、本人から直接聞くこったな」
「ええっ!? 何それ、気になるじゃない! 教えてよアベル様!」
「様なんてつけるな。……さあ、行こうぜ。俺たちの情けない弟分の目を、叩き起こしてやらないとな」
「ちょっと、話を逸らさないで! ねえねえ、本当になんて言ってたの!?」
必死に食い下がるミラベルを余所に、ギンの呆れたような声が響く。
『いいから行くぞ。我々に、これ以上の猶予はないのだ』
促されるように歩み出すミラベルたちの視線の先。
吹き荒ぶ雪原の向こう、雷光に焼かれる死の大地で待つのは、かつての優しい風か、あるいは――。
少女の祈りと、戦士の誇りを乗せて。
一行は、孤独な勇者ケインの元へと直走る。




