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第五章 白銀の断層、新生せし悪夢の残響

戦場の緊迫感とは裏腹に、遠く街道の脇を流れる川べりでは、ミラベルが必死に「空腹」と戦っていた。


「……はふ、はふ。……ん、美味しい。けど、やっぱり足りない気がする……」


行商の食品屋から、値切り倒して手に入れた少し硬めのパン。それを、野草と干し肉の端切れで煮出した薄いスープに浸し、ミラベルは無我夢中で口に運んでいた。最近、どれだけ食べても胃袋が満たされないのだ。


その隣で、ギンは優雅に川の水を舐めとっている。

「ギンは水だけでいいの? 私、なんだか申し訳なくなっちゃう……」


『気にするな。契約の通り、私はお前の内側から「じん」を直接分けてもらっている。肉を喰らう必要などないのだ。……ただ、お前のその異常な飢えは、私に精を吸われている代償だろうな。もっと食わねば体が持たんぞ』


ミラベルはスプーンを口に咥えたまま、ピタッと動きを止めた。 ……精を吸われている? 私が食べる分が、ギンの力になっている?


「……待って。ってことは、私がこのままギンの分もたくさん食べなきゃならなくて、ケインさんに会いに行く頃には、こう……顔がパンパンに膨らんで、太っちゃってたりするの!?」


脳裏をよぎるのは、再会したケインが、丸々と太って二重あごになった自分を見て「……え、どなたですか?」と困惑する最悪のイメージ。ミラベルは必死に頭を振って、その妄想を物理的に振り払った。


『安心しろ、太ることはない。むしろ痩せこける心配をしろと言っている。……それより、もっとしっかりしたものを食べろ。お前の生命力が落ちれば、私にまで影響が出る。私のためだと思って食え』


「う、うん。わかった。……でも、お財布に響くんだよねぇ……」


ため息をつき、最後の一口のパンをスープで流し込んだ、その時。 ギンが不意に耳を立て、西の空――ケインのいる方向を鋭く見据えた。


「ギン? どうしたの?」


『……ふむ。風の勇者が、敵将を討ったようだな。……それも、ただの風ではない。水、そして大地の震えまで混ざっておる。奴の力が、急激に膨れ上がっているぞ』


「さすがケインさんね! どんなに離れていても、ギンにはわかるんだ」


ミラベルは自分のことのように胸を張って誇らしげに笑ったが、ギンの表情はどこまでも険しかった。


『……笑い事ではない。あまりに巨大すぎる力は、器を壊し、歪ませる。このまま行けば……次の世代の「魔王」に選ばれるのは、聖なる風の勇者、彼かもしれんな』


「えっ……!? 魔王って、あの魔王!?」


衝撃の言葉に、ミラベルは手に持っていた木の器を落としそうになった。 人を救うために震える手で剣を握るあの人が、世界を滅ぼす魔王になる?


『神が不在となり、かつての神獣が私のように魔獣へ堕ちるのと同じ理屈よ』


「そんな、ケインさんが…何か手はないの?ギンなら何かわかる?」


『ないことは、ない。そうだな……ミラベル、今は急ぐぞ。手を打つにしても、奴の心が人であるうちに追いつかねばならん』


「……。うん、行きましょう、ギン!」


ミラベルは慌てて荷物をまとめ、ギンの広い背中に飛び乗った。 空腹の不安も、お財布の心配も、今はすべて吹き飛んでいた。


ケインを魔王になんてさせない。 そのために、自分は自慢の髪も、村での安らぎも置いてきたのだから。



銀狼ギンの背に跨り、西へと続く街道を疾走するミラベルの姿は、すれ違う旅人や商隊からすれば、あまりに異様な光景だった。


「……ねぇギン、やっぱり目立ちすぎじゃないかな。みんな、口を開けて固まってるよ」


かつて畏怖の対象だった銀の魔獣が、一人の少女を乗せて風のように駆け抜ける。その姿に向けられるのは、羨望というよりは、もはや神話の再来を見るような「畏敬」の眼差しだ。ミラベルは少し顔を赤くし、なるべく周囲から顔を隠すようにギンの首筋に体を伏せた。


「それより、さっきの話……どうしてケインさんが魔王になっちゃう可能性があるの? ケインさんはあんなに優しくて、臆病なところもある人なのに」


ギンの地を這うような低い声が、向かい風に混じって響く。


『ミラベルよ、私は数千年という時を見てきた。その中で、英雄が魔王へと反転する瞬間を何度もな……。最初はみな、世界を救う希望として崇められる。だが、強大な敵がいなくなれば、人々は次に何を恐れると思う?』


「それは……」


『自分たちよりも遥かに強大な力を持つ「英雄」そのものだ。昨日まで命を救ってくれた剣が、今日は自分たちの喉元に向けられるのではないかと疑い始める。……かつての英雄の中には、その疑念に耐えかねて心を病み、魔王と化して世界を呪った者もいれば、民衆の手によって断頭台へ送られた者もいる』


ギンの言葉とともに、ミラベルの脳裏に最悪の光景が過ぎった。 民衆に罵声を浴びせられ、冷たい刃の下で静かに首を落とされるケイン。 あるいは、漆黒の魔力を纏い、虚ろな瞳でかつて愛した世界を焼き尽くすケイン。


「……嫌。そんなの、絶対におかしいわ」


ゾッとするような寒気がミラベルの背中を走り、彼女は思わずギンの毛並みを強く握りしめた。 ケインが背負わされている「勇者」という名の呪い。それは、戦いが終わった後も彼を逃さない、底なしの沼のようなものだった。


しかし、ミラベルの焦燥とは裏腹に、残酷にも日は西の地平線へと沈んでいく。 夜道は魔物の活動が活発になり、いかにギンといえどいちいち魔物を倒していては「精」を分け与えるミラベルの体が持たない。


「今日は……あの村で休みましょう。あそこなら宿がありそうよ」


前方に小さな灯りが見え、ミラベルは今夜の宿泊地をその村に決めた。 ケインとの距離は確実に縮まっている。けれど、彼が「人」でいられる残り時間もまた、刻一刻と削り取られている。


ミラベルは、首元まで短くなった髪を揺らしながら、夜の闇に飲み込まれゆく西の空を、祈るような目で見つめた。



田舎の小さな宿。都会のような華やかさはないけれど、使い古された薪ストーブの匂いと、手作り感のある温かい食事が、ミラベルの疲れきった心と体をじんわりと解きほぐしていった。


「……ふぅ。やっぱり、温かいところで食べるご飯は最高ね」


目の前の素朴なシチューを頬張りながらも、ミラベルはテーブルに広げた空っぽに近い財布を見て、再び「うーん」と頭を抱えた。


「でも、これからもっと西へ行くなら、さらに物価も上がるだろうし……ケインさんに美味しいものを食べさせたいのに、このままじゃ路銀が底をついちゃうわ」


深刻な顔をするミラベルに、影の中からギンの声が響く。


『何を悩んでいる。まずはその腹を完全に満たせ。……路銀など、道中いくらでも稼ぐ方法はある』


「えっ、どうやって? どこかの農家でお手伝いでもするの?」


『お前は今、この私と契約しているのだぞ。その辺の魔物を狩れば素材が手に入るし、私の知識を使えば、人間たちが血眼になって探している希少な薬草や隠された宝石の在り処もわかる。私をただの乗り物と思うなよ』


ギンの頼もしい言葉に、ミラベルの瞳がパッと輝いた。 「そうか……! ギンがいれば、私一人じゃ行けないような場所のお宝も見つけられるかもしれないんだ。よかったぁ、これでなんとか旅を続けられそう!」


路銀の不安が晴れ、ミラベルの食欲はさらに加速する。しかし、次に彼女が口にしたのは、最も重い懸念だった。


「……でも、ギン。ケインさんが『魔王』にならないようにする方法は、本当に見つかるのかな? 私にできるのは、証を届けることだけ……」


『それについても、一つ案がある。……かつての私のように、人々に忘れられ、力を失いかけている「元神」や「精霊」とさらなる契約を交わし、溢れる力をそちらに流れるように仕向けるのだ』


「え? ギン以外の神様とも契約するの?」


『そうだ。勇者の力があまりに強すぎるのは、女神の恩恵として力が注ぎ続けられ、その溢れるエネルギーを吐き出す「先」がないからだ。私のような存在と契約し、その強大な力を維持するための「じん」として消費し続けることができれば、勇者としての暴走を抑え、人としてのバランスを保てるかもしれん。……幸い、落ちぶれた古き神々の居場所なら私にはわかる』


ミラベルは驚きに目を見開いた。ケインの強すぎる力を、他の神々を救い、維持するために使う。それは彼を「怪物」から、再び「守護者」へと引き戻す道に見えた。


「……それって、ケインさんの力を『誰かのために使う』ってことよね。きっと彼、喜ぶと思う。自分にできることが、また誰かを助けることになるなら……」


『フン、お人好しのあやつらしい考えだな。……だが、それには交渉が必要だ。道中、いくつかの聖域を巡ることになる。いいな、ミラベル』


「もちろん! 私、精一杯頑張るから!」


希望の光が見えてきた。 ミラベルは最後のスープを飲み干すと、短くなった髪を力強くかき上げた。


明日からは、ただ追いかけるだけの旅じゃない。 ケインを救うための「力」と「絆」を集める旅が始まるのだ。


外では静かに雪が降り始めていたが、宿の一室で眠りにつくミラベルの心には、温かい決意の火が灯っていた。



翌朝、宿の窓を開けると、世界は一面の銀世界へと姿を変えていた。 ミラベルが住んでいた村は穏やかな春の陽気に包まれていたが、この世界では山を一つ越え、地域を跨ぐだけで季節が劇的に変化する。西へ向かう道は、今や厳しい冬のただ中にあった。


「……寒いっ! これじゃ、春の服じゃ一歩も歩けないわ……」


震えるミラベルを見かねて、宿のおばさんが奥から分厚い防寒具を持ってきてくれた。 「これ、結婚して街へ出た娘が置いていった古着だけど、使いなさい。あんた、そんな格好で西へ行ったら凍え死んじまうよ」


くすんだ赤色の毛織りのコートに、もこもこした毛皮のフード。ミラベルがそれを着込むと、影の中でギンが目を細めた。


『……ふむ。案外似合うではないか。村娘というより、北の国の狩人のようだな』 「もう、ギンまで。でも、おばさん、本当にありがとう!」


温かな厚意に感謝し、ミラベルは雪を蹴立てて出発した。


街道を進むこと数刻、雪深い森の入り口で、彼らは異様な気配に遭遇した。 目の前に立ち塞がったのは、ギンの巨体をさらに上回る、三つの目を持つ巨大な鹿の魔物――「トライス・ディア」だった。その角は氷の結晶のように輝き、鋭く尖っている。


『ミラベル、あれは「氷晶の角」を持つ高価な獲物だ。路銀の足しにするぞ。捕まっていろ!』


ギンが雪を爆ぜさせて跳躍した。かつての神獣としての神速。三つの目を持つ鹿も冷気のブレスを放って抵抗するが、ギンの圧倒的な爪の一撃がその巨躯を容易く制圧した。


「……すごい」


感心したのも束の間、ミラベルを襲ったのは、これまでに経験したことのない凄まじい空腹感だった。


「……ぐぅぅぅぅぅぅぅぅ!!」


静かな雪原に、ミラベルの腹の虫が盛大に鳴り響く。恥ずかしさで顔を真っ赤にするミラベルだったが、胃袋が裏返るような飢餓感に耐えきれず、その場にへたり込んでしまった。


「……ギン……もうダメ……お腹と背中がくっつくどころか、消えちゃいそう……」


『言っただろう、私が力を使えばお前の精を消費すると。早くその獲物を捌け。鮮度が落ちる前に食うのだ』


ミラベルはフラフラになりながらも、腰の短刀を抜いた。猟師だった父親の仕事を手伝い、獲物の扱いには慣れている。手際よく鹿の血を抜き、一部の肉を削ぎ落として、手近な枝で火を熾した。 ジュウジュウと脂の焼ける音と香ばしい匂いが漂う。


「……はふ、はふっ! ……生き返るぅ……」


焼きたての鹿肉を口いっぱいに頬張り、ようやく人心地ついたミラベル。けれど、肉を噛み締めながら彼女は不安を口にした。


「ねぇ、ギン。あなたが力を使うたびにこんなにお腹が減ってちゃ、いくら食べても追いつかないわ。どうにかならないの?」


ギンの声は、いつになく厳粛だった。


『……残念ながら、それが「契約」の理だ。お前には魔力がない。だから代わりに「精」――つまり生命力を直接変換しているのだ。精が尽きれば、次はお前の「命」そのものを削ることになる』


「……命を?」


『そうだ。私をただの便利な道具と思うな。私に頼りすぎることは、お前の寿命を燃やすことと同義だ。……いいな、ミラベル。本当に必要な時以外、私に戦わせるな。お前自身も、強くならねばならんぞ』

雪の降る中、ミラベルは自分の手を見つめた。 ケインを救うための旅は、ただ彼を追いかけるだけではない。 自分の命の灯火を管理し、一歩ずつ自立して歩まなければ、彼の元に辿り着く前に自分が尽きてしまう。


(私……もっと、ちゃんとしないと。自分を守って、ううん、ケインさんも守れるくらいに)


ミラベルは残った肉を丁寧に保存食に加工しながら、厳しい冬の空を見上げた。 勇者の隣に立つということは、それだけの覚悟が必要なのだと、身を以て知った冬の初日だった。

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