第四章 蒼き水の継承、吹き荒ぶ宿命の風
かつての激戦区、死の荒野「ゼム・ルナ」。 見渡す限りの赤茶けた大地には、今も魔王軍の残党たちが築き上げた禍々しい防壁が連なり、救世軍との間で重苦しい膠着状態が続いていた。
「……また弾かれたか」
ケインは前線の天幕で、ハルバートを見つめ、低く毒づいた。 敵の指揮官は、魔戦士ブゾルディア。大地を操るその力は、ケインの「風」を重厚な岩壁で容易く遮り、鋭い砂嵐でその身を削ってくる。相性は最悪と言ってよかった。 救世軍の将兵たちが地図を囲み、「どこから崩すべきか」と議論を戦わせている中、ケインの心は、その喧騒から遠く離れた場所にあった。
彼は、隣で魔力回復の祈りを捧げるルーナの横顔を盗み見ながら、一人の男を思い出していた。
――水の勇者、ルーク。
ルーナの兄であり、ケインにとっては二つ年上の、実の兄のような存在だった。 初めて会った時は、その軟派な態度に反発し、衝突もした。けれどルークは、そんなケインを「おっ、威勢がいいねぇ、お前俺の弟分になれよ!」と笑って受け流し、いつの間にか一番近くで世話を焼いてくれていた。
女好きで、お調子者で。戦場だというのに「俺が勝ったらあの宿の看板娘とデートするんだ」なんて軽口ばかり叩いていた男。
(……あの日も、そうだった)
魔王城の決戦。 恐怖に飲み込まれ、瓦礫の陰で指一本動かせなくなったケインの前に、ルークは現れた。 血まみれの体で、それでも屈託のない笑顔を浮かべた彼は、ケインの震える頭を大きな手でくしゃっと撫でたのだ。
『――よお、ケイン。ここは兄貴に任せて、お前はちょっと休んでな。いいか、生きて帰りゃあ、美味い飯と酒が待ってるぜ』
それが、ルークの最後の言葉だった。 彼はそのまま、ケインが動けないでいる死地へと、迷いなく背中を向けて突撃していったのだ。
「……ルーク」
ケインが小さく零した名に、ルーナの肩がぴくりと跳ねる。 今のケインが振るう風は、どこか重い。 それは、死んでいった者たちの無念と、自分だけが生き残ってしまったという拭い去れない罪悪感に、その翼を縛られているからだった。
「ケイン様……お顔が暗いですわ。お兄様のことを、また?」
「……いや。なんでもない。ただ、今の俺じゃあ、あの岩壁は越えられないと思ってな」
ケインは力なく笑い、泥に汚れたハルバートを壊れ物を扱うように強く握りしめた。だが、その拳は過去のトラウマに呼び起こされたかのように、再び見苦しく震え始めている。
ふと、ルーナの冷徹な眼光がケインの胸元に注がれた。あるべきはずの「光」がそこにないことに気づき、彼女の眉がわずかに跳ね上がる。
「ケイン様。……『勇者の証』はどうされました?」
勇者の証。それは女神の加護を宿し、あらゆる呪いや致命傷を退ける、勇者を勇者たらしめる絶対の守護印だ。
「……あれは、村に置いてきた。もう魔王と戦うわけじゃないし、必要ないと思ってね。それに……」
ケインは自嘲気味に視線を落とした。
「……加護なんて、あってないようなものだ。あの日、みんなあれを持って戦っていたのに、結局誰一人帰ってこなかったじゃないか」
「いいえ。加護は確かに存在します。女神様は見捨てたりはなさいません」
ルーナの一歩も引かない静かな声が、ケインの逃げ道を塞ぐ。
「……ケイン様。あなたは、あれを『忘れた』のでも『不要だ』と思ったのでもありませんね? 自分に、あれを持つ資格などないと思い詰めて、わざと置いてきたのではありませんか?」
ケインの肩が、びくりと大きく跳ねた。
図星だった。かつての仲間たちを死なせ、自分だけが生き残ってしまったこの手に、女神の祝福が宿る証など相応しくない。そう、心の奥底で自分を呪っていた。
ケインは震える右手を隠すようにもう片方の手で強く押さえつけ、ルーナから逃げるように背を向けた。
ルーナはその痛々しい背中を、突き放すような冷徹さと、縋るような熱情が入り混じった瞳で見つめていた。やがて彼女は意を決したように、背後の虚空に展開した魔導空間から、一振りの獲物を取り出した。
それは、戦場の濁った空気さえも清めるような蒼い輝きを放つ長槍――水の勇者ルークの愛槍『アクア・レギウス』だった。
「ケイン様、これを持ってください」
「……っ! それは、ルークの……!」
絶句するケインの眼前に、ルーナは容赦なくその槍を突き出した。
「今のあなたに必要なのは、あの大地を穿つ鋭利な一撃です。柔らかな風の属性では、あの岩壁は崩せません。ですが、お兄様の『水』の加護があれば、それも可能となるはずです。そして――」
ルーナの言葉が、一段と鋭さを増す。
「この槍を、お兄様の遺した意志を継げるのは、世界であなたただ一人。……いいえ、継いでもらわねば困ります。風の勇者としてだけでなく、水の勇者の座も、あなたがその身に継承なさい」
「……無茶を言わないでくれ! 俺一人に、二人の勇者の命を背負えと言うのか……!?」
ケインは悲鳴に近い声を上げ、後ずさりした。自分一人の「勇者」という仮面の重みにさえ、今にも圧し折られそうなのだ。そこに死んだ親友の責任まで上乗せされる。それは、救済などではなく、呪いに等しい要求だった。
しかし、槍を差し出すルーナの瞳には、かつてないほどの決死の覚悟が宿っていた。彼女もまた、最愛の兄を失った地獄の底で、ケインという唯一の希望を「怪物」に仕立て上げてでも前へ進もうとする、残酷な祈りを捧げているのだ。
その時、ブゾルディアの放った岩の弾丸が天幕を掠め、前線から激しい爆音と怒号が響いた。
(……俺がここで逃げたら、また、目の前の人を失うのか?)
ケインは歯を食いしばった。ルークを失ったあの日と同じ後悔だけは、もう二度としたくない。 「……分かった。ルークのようには振る舞えないが、せめて、君だけは護り抜く」
ケインが「アクア・レギウス」の柄を握りしめた瞬間、彼の周囲に吹き荒れていた暴風が、静かな、しかし重厚な水の波動と混ざり合った。
風は水を運び、水は嵐を呼ぶ。
ケインの全身を駆け巡る『水の加護』は、皮肉なほどに彼の絶望を研ぎ澄ませ、激しく震えていたその身体を静寂の凪へと沈めた。
「行くぞ……ブゾルディア!」
右手に宿した蒼き槍を鋭く突き出し、ケインは赤茶けた戦線へと歩み出した。
一人で二人の勇者の宿命を背負い、その力を同時に振るう――。それは歴史に類を見ない前代未聞の暴挙。だが、戦場へと消えていく彼の背中は依然として痛々しいほど孤独で、積み上げられた死者の重みに今にも圧し折られそうな危うさを孕んでいた。
硝煙の向こう側へと消えゆくその後姿を見つめ、ルーナは祈るように胸元で両手を組んだ。
「……お兄様。どうか、あの方をお守りください……」
村に置いてこられた『勇者の証』の代わりに。女神の加護さえ拒絶した孤独な彼を繋ぎ止める、唯一の楔として。
彼女は亡き兄の魂そのものである『アクア・レギウス』を、彼に託したのだった。
戦場の中心、ケインとブゾルディアの一騎打ちが始まった。
「ハァッ、ハァッ……!」 ケインは焦っていた。風の勇者の加護と左手の「アクア・レギウス」。二つの勇者の力を同時に操ることは、想像を絶する負荷だった。付け焼き刃の水の加護は制御しきれず、槍先がわずかに流れる。
だが、それでもブゾルディアの巨大な土の剣は、ケインの体を掠めもしない。 超人的な反射神経と身のこなし――その「無傷」の立ち振る舞いに、周囲の兵たちは「さすが勇者様だ!」「無傷の英雄万歳!」と喚声を上げる。
しかし、ケインの心の内は、歓声とは裏腹に必死の対話の中にあった。
(頼む、応えてくれ……! これはあんたの魂なんだろ、ルーク!)
槍を通じて流れ込んでくるのは、冷たい魔力だけではない。澱のように重い、ルークの最後の記憶。 ケインは土の連撃を回避しながら、意識を深く、槍の芯へと潜り込ませた。
――その瞬間、世界が白く染まった。
目の前に、あの日と変わらない、軽薄で、それでいて誰よりも温かい笑顔の男が立っていた。
『よぉ、ケイン。……そんなに眉間にシワ寄せて、せっかくのイケメンが台無しだぜ?』
ルークが笑いながら、ケインの肩を軽く叩いた気がした。
『いいか、俺の力はお前を縛るためのもんじゃない。ルーナを、そしてお前が愛する世界を護るための「盾」にしてくれ。……頼んだぜ、相棒』
「ルーク……!」
視界が開けた。 「アクア・レギウス」が、それまでの荒々しい輝きを一変させ、穏やかで透き通るような蒼光を放ち始める。
「ぬおぉぉぉ! 小癪な小蝿がぁ!」 ブゾルディアが苛立ちとともに、大地そのものを隆起させ、逃げ場のない土の連撃を繰り出す。
だが、今のケインは揺るがない。 押し寄せる土壁の圧力を、水の柔らかな加護で受け流し、円を描くようにいなす。剛を柔で制す――それはまさに、水の勇者ルークの戦い方そのものだった。
「――終わりだ、ブゾルディア」
流れるような身のこなし。風の速さと水のしなやかさが一つになった瞬間、ケインの姿が戦場から消えた。 次の瞬間、ブゾルディアの背後に現れたケインの槍が、分厚い大地の鎧を紙のように貫き、その心臓を正確に射抜いていた。
土の巨像が崩れ落ちる。 静まり返る戦場に、槍を構えたままのケインの姿だけが、蒼い残光を纏って立ち尽くしていた。
崩れゆく土の巨像の中から、血を吐きながらもブゾルディアが顔を出した。 心臓を貫かれ、死を待つのみの敗者。しかし、彼は自らを討ったケインの顔を間近で見上げ、怪訝そうに目を細めた。
「……解せぬな。勝ったのは貴様だというのに、なぜそんなに……今にも泣き出しそうな顔をしているのだ」
ケインは答えない。ただ、右手に兄貴分の遺した槍を握りしめ、二人の勇者の重みに耐えかねるように肩を震わせている。その瞳に宿るのは勝利の歓喜ではなく、深い夜のような孤独だった。
ブゾルディアは、自嘲気味に喉を鳴らした。
「ふん、敵にまでその情けを向けるか。……風の勇者よ、その甘さはいつか貴様を殺すぞ。戦士ならば、敵への優しさなど捨て去れ」
ブゾルディアは最期の力を振り絞り、自らの傍らに転がっていた重厚な大地の剣をケインの足元へ投げ出した。
「持っていけ。……敗者の武器を慈しむのも、貴様の勝手だ。貴様は……最後まで、つまらぬほどに人間であったな」
そう言い残し、ブゾルディアは満足げな笑みを浮かべて完全に崩壊し、大地の塵へと還った。彼は最期まで、己の誇りを貫いた一人の将であった。
勝利の歓声が地を揺らす中、ケインだけが静止した時間の中にいた。
足元には、彼が屠ったブゾルディアの愛剣が転がっている。体に風、右手に水、そして足元には土。図らずも三つの属性をその身に集めてしまったケインの姿は、兵士たちの目にはもはや神格化された「救世主」そのものに映っていた。
だが、当のケインは、三つの武器の重みに耐えかねるように、ただじっと自分の拳を見つめていた。
(……俺は、どこへ向かっているんだ?)
かつて、村でミラベルが持ってきてくれたシチューの温もりを思い出す。あの平凡で、臆病でいられた時間は、今のこの血生臭い戦場から見れば、まるでお伽話のように遠い。 ルークの想いを継ぎ、敵将の誇りさえも受け取ってしまった。背負うものが増えるたび、自分の心が削り取られ、ただの「戦うための装置」に作り替えられていくような恐怖。
その後ろで、ルーナは震える指先を自身の胸元で組み、唇を噛んでいた。
(ああ、ケイン様……そんなに悲しい顔をしないで。私はただ、あなたに生きてほしくて、お兄様の槍を……)
彼女の抱いた罪悪感は、今のケインには届かない。 ルーナは悟っていた。自分が彼に「勇者の継承」を強いたことで、彼をこの呪われた宿命の深淵へ、さらに一歩突き落としてしまったのだということを。 彼を「怪物」へと仕立て上げているのは、魔王軍ではなく、自分たち「護られる側」の期待とエゴなのかもしれない。
ケインはゆっくりと、ブゾルディアの剣を拾い上げた。 その動作一つに、数千の兵が息を呑み、崇拝の眼差しを向ける。
「……もう、戻れないのか」
ポツリと独りごとをつぶやいた彼の声は、吹き抜ける乾いた風にかき消された。
彼はまだ知らない。 遥か後方、一人の少女が、かつての神獣の背に乗り、髪を捨て、自分を救うためにこの死地を目指して爆走していることを。 そして、彼女の手には、彼が置き忘れてきた「命の重み」そのものである勇者の証が握られていることを。
ケインは風と水の勇者の宿命を背負い、ブゾルディアの剣を杖代わりに突き立てると、虚ろな瞳で次の戦場となる西の空を見据えた。




