第三章 銀狼の追憶、震える背中に宿る慈悲
「行ってらっしゃい、ケインさん。私はここで、あなたの帰る場所を守ってるから」
ミラベルは最高の笑顔で、ケインを送り出した。 ケインは少し名残惜しそうに、けれど決意を固めた顔で頷き、ルーナの展開した魔法陣の中へと消えていった。
二人の姿が見えなくなった後、ミラベルは深く息を吐き、静かに空を見上げた。 彼が勇者だろうと、臆病者だろうと関係ない。ただ、彼が胸を張って帰ってこれるように、この村を、彼が愛した日常を守り続けよう。そう心に誓ったのだ。
だが、その決意は、直後に現れた村長の慌てふためく声によって一変することになる。
「ミ、ミラベル! 大変なことになった! ケイン君は……ケイン君はもう行っちまったのか!?」 「ええ、さっき聖女さんと一緒に。……村長、そんなに慌ててどうしたんですか?」
村長の震える手には、古びた、けれど神聖な輝きを放つ黄金のメダルが握られていた。
「これを見ろ……。彼が村に帰ってきた時、象徴として広場に飾ろうと思ってな。彼がもういらんからってワシに渡してきたんじゃ……」 「これって……」 「『勇者の証』だ。女神様が勇者に与える、命を守護する加護の証。これを持っていない勇者は、致命的な呪いや傷を退けることができん……。すまん、ワシは良かれと思って……!」
集まってきた村人たちの間に、戦慄が走った。 魔王軍の残党と戦うというのに、命の守りである「証」を忘れていったなど、死にに行ったも同然だ。
「なんてことを……! ケインさんは、自分からそれを手放すような人じゃないのに!」
ミラベルの顔から血の気が引く。村長は申し訳なさに項垂れ、周囲は「どうしよう」と騒ぎ立てるばかり。 だが、ミラベルの瞳だけは、すぐに力強い光を取り戻した。
「……私が、届けに行きます」 「えっ、ミラベル!? 無茶だ、相手は戦場にいるんだぞ!」 「あんなに重いものを背負っている人に、これ以上危ない目にあってほしくないんです。ルーナさんみたいに魔法は使えないけど、追いかけるくらい、やってみせます!」
「待ちなさい! 届けるって、ミラベル、あんた本気なの!?」
村長の手から『勇者の証』を奪い取ったミラベルの背に、村人たちの驚きと困惑の声が浴びせられた。
「西方はまだ戦場なんだぞ! 村娘が一人でなんて、自殺行為だ!」 「ケインさんに任せておけばいいんだ。あんたはここで待っていれば……!」
引き止める手、遮る言葉。だが、ミラベルの足は止まらない。 自宅の扉を蹴破るようにして飛び込むと、彼女は棚から丈夫な麻袋を引っ張り出した。そこへ、ケインが「村の味だ」と涙ぐんだあのシチューのレシピと、日持ちのする干し肉、そしてわずかな路銀を詰め込んでいく。
「姉ちゃん! 俺も行く! 俺だってケイン先生の弟子だ、姉ちゃんを守るんだ!」
弟のアルフォンスが、木剣を握りしめて部屋に飛び込んできた。鼻息を荒くし、姉の旅支度を手伝おうとする。 だが、その背後に影が差した。
「行かせてやりな」
地を這うような低い、けれど絶対的な響きを持つ声。 二人の母親だった。彼女は、鼻息を巻くアルフォンスの脳天に、容赦のないゲンコツを一発叩き落とした。
「ぎゃっ!? 痛ぇっ……母ちゃん、何すんだよ!」 「あんたみたいな半人前が行って、足を引っ張るつもりかい。ミラベル、あんたは行きな。……その男を信じたんなら、最後まで添い遂げるのが女の筋ってもんだよ」
かつて若い頃、隣国まで名を馳せた凄腕の冒険者だったという母親。彼女の豪胆な眼光に、アルフォンスは涙目で黙り込むしかなかった。
母親は部屋の奥、埃を被った頑丈な長持を蹴り開けると、中から一式の装備を取り出した。 それは、幾多の死線を潜り抜けてきた、鈍い光を放つ上質な革鎧と、身を守るための護身用の短刀。
「……これを着ていきな。ケインの坊やを追うなら、その辺のヤワな服じゃすぐボロ雑巾になっちまうよ」
「お母さん……いいの?」
「代わりに、あの不器用な勇者様を必ず連れ戻しておくれ。……死ぬんじゃないよ」
母から託された、使い込まれた装備の重み。それはミラベルにとって、単なる防具以上の「覚悟」の重みだった。
「……うん。行ってきます!」
レシピを胸の奥に、母の魂が宿る短刀を腰に。 ミラベルは振り返ることなく、夕闇の迫る村を飛び出した。 村人たちの騒ぎが遠ざかる中、彼女の心にあるのは、ただ一人。震える手で世界を救い続けている、あの青年の背中だけだった。
「待ってて、ケインさん」
こうして、平凡な村娘だったミラベルは、風の勇者が辿った過酷な旅路を、その足で追いかけることになった。 それは、彼女が「英雄の隣」に立つための、本当の始まりだった。
村を飛び出したミラベルは、運良く通りかかった近隣の街行きの寄り合い馬車に飛び乗った。 ガタゴトと揺れる車内、隣り合わせたのは、陽気な赤鼻の行商人のおじさんだった。
「ほう、あんたも旅か。……おや、その紋章、もしかして風の勇者ケインの知り出かい?」
ミラベルが大事そうに握りしめていた『勇者の証』の意匠を見て、おじさんが目を丸くした。
「ええ、まあ……。彼に届け物があって」 「ハハッ! そうかい、ケインか! 懐かしいねぇ。実は俺も、あいつが旅に出たばかりの頃に助けられたことがあるんだ」
おじさんは遠い目をして、楽しそうに語り始めた。
「ありゃあ、あいつがまだ十五そこらの時だ。ちょうど今のあんたより若いくらいだったかな。俺がゴブリンの群れに囲まれて万事休すって時に、ひょっこり現れてね。あいつ、剣を握る手がガタガタ震えててよ、『怖い、怖い』って顔に書いてあるんだ。でもな、最後には涙目になりながらも全部ぶっ倒してくれた。あの震える背中を見て、『ああ、この子は本当の勇者になるんだな』って思ったもんさ」
「十五歳の、ケインさん……」
ミラベルの脳裏に、幼い頃の彼が必死に剣を振るう姿が浮かぶ。 彼は昔からそうだったのだ。怖くて、逃げ出したくて、それでも誰かのために震える足で踏み止まってきた。魔王城で隠れていたと言っていたけれど、それまでの道中、彼はどれだけの恐怖を乗り越えてきたのだろう。
「ケインに届け物に行くってんなら、俺も応援させてもらうぜ。これ、俺の売り物だが、気に入ったものを持ってきな」
おじさんは荷台の奥から、不思議な光を放つ品々を取り出した。 ちょっとした防具や、魔力を込めた小石。その中に、古びたイヤリングのような形をした魔道具があった。
「それは『翻訳の耳飾り』だ。これについてる魔石の魔力を通せば、種族や言葉の壁を越えて相手の言葉が理解できるようになる。これからの長い旅、ケインがどこにいるか聞き回るには必要だろ?」
「言葉が通じるようになる……。これなら、別種族の言葉さえ……。ありがとうございます、これにします!」
ミラベルはその耳飾りを大切に受け取り、耳につけた。 ケインが歩んできた、孤独で、震えるほど怖かった旅路。 その足跡を辿るごとに、ミラベルは彼の本当の姿を一つずつ拾い集めていく。
「待っててね、ケインさん。今度は私が、あなたの震える手を握ってあげるから」
馬車は夕日に向かって、ケインがかつて駆け抜けた道を力強く進んでいった。
到着した街の門をくぐった瞬間、ミラベルは立ちすくんでしまった。 行き交う馬車の数、聞いたこともない異国の言葉、そして空を覆わんばかりの高い建物。
「……都会って、こんなに息苦しいのね」
田舎の村とは比べものにならない喧騒に圧倒されながらも、ミラベルは目的を思い出し、冒険者ギルドの重い扉を叩いた。 そこならきっと、あの「風の勇者」の噂が届いているはずだ。
「ケイン・ゼフィランサス? ああ、あの『無傷の英雄』か」
ギルドの受付に座る強面の男は、ミラベルが差し出した不格好な似顔絵を指先で弾き、鼻で笑った。
「つい昨日、西方の小国『エストリア』で魔王軍残党のオーカスの城を壊滅させたって報告が入ってるぜ。だがあいつ、勝利の余韻に浸る間もなく、さらに西へ向かったらしい。……かつての激戦区、死の荒野『ゼム・ルナ』だ」
「ゼム・ルナ……。そこに行けば、ケインさんに会えるんですか?」
「ああ。だがお嬢ちゃん、あそこは今、地獄の蓋が開いたような状態だ。魔王が死んで求心力を失った残党軍の過激派どもが、最後にあがきをぶちまけようと集結してやがる。救世軍が包囲して睨み合っちゃいるが、小競り合いが絶えねぇ。……ここから馬車を乗り継いでも、一週間はかかる距離だぞ」
男はミラベルの使い込まれた革鎧と、その華奢な肩を見て、呆れたように吐き捨てた。
「西へ向かうほど魔物の密度も上がる。悪いことは言わねぇ、護衛の冒険者を最低でも二人、Cランク以上で雇っていきな。……金はかかるが、命を捨てるよりはマシだろ?」
ミラベルは思わず、腰に下げた財布の重さを確かめた。 村を出る時に母親が持たせてくれた路銀、そして行商人のおじさんから受けた厚意。それらを合わせても、都会の物価を考えれば、護衛を雇う余裕などどこにもなかった。ここで誰かを雇えば、ケインにたどり着く前に路銀が尽き、彼に食べさせるはずの食事すら用意できなくなる。
「……いえ、お気遣いありがとうございます。でも、護衛は結構です」
「……あ? 死にたいのか、お嬢ちゃん」
「死にません。私、彼に届けなきゃいけないものがあるんです。だから、絶対に立ち止まれないんです」
ミラベルの瞳に宿る、静かだが揺るぎない覚悟。受付の男は舌打ちをし、「勝手にしな、死体は拾ってやらねぇぞ」と背を向けた。
ミラベルはギルドの重い扉を押し開け、沈みゆく夕日に照らされた西の空を見据えた。 護衛などいない。頼れるのは自分と、母から託された短刀、そしてこれから出会うことになる「運命」だけ。
(待ってて、ケインさん。一週間なんてかけない。……死ぬ気で、あなたのところまで走るから!)
「……一泊、銀貨三枚!? うそ、村なら一ヶ月は暮らせるわよ!」
宿の主人が提示した宿泊代に、ミラベルは思わず素っ頓狂な声を上げた。 都会の物価は、田舎娘の想像を軽々と越えていた。追い打ちをかけるように、通りに並ぶ屋台からは、見たこともない派手な色をした串焼きや、甘い蜜がたっぷりかかった揚げ菓子の香りが漂ってくる。
「(……あ、あの赤くて丸い食べ物、おいしそう。……ひぇっ、串一本で銅貨十枚!? お肉の大きさ、アルが捕まえる野兎の半分もないのに!)」
ぐう、とお腹が鳴る。だが、財布の中身を覗き込めば、これから続く長い旅路が「もっと節約しろ」と警告してくる。誘惑に負けそうになる鼻を必死につまみ、ミラベルは高級な屋台街を泣く泣く通り過ぎた。
結局、彼女が手にしたのは――。
「……これ、パンよね? 武器じゃなくて」
カチカチに乾燥して、叩けばコンコンと乾いた音がする「味気なさの化身」のような黒パン。それに、誰が使ったかもわからない、ところどころ継ぎ接ぎだらけの中古の毛布。
「よし、これで今夜のフルコースと高級ベッドの完成ね。……うう、ケインさん、都会の人って毎日こんなに高いもの食べてるの? 胃の調子悪くしちゃうわよ、絶対……」
自分の境遇を笑い飛ばさないとやってられない。ミラベルは、小脇に抱えた「鈍器のようなパン」を大事に抱え直し、街の外れへと歩き出した。
(いいのよ。今はこれで。……その分、ケインさんに会えた時は、最高に美味しいものを一緒に食べるんだから!)
夜風は容赦なく、村娘の薄い着衣を突き抜けて体温を奪っていく。
あの日、ケインが背負っていた「風」の冷たさを思い出し、ミラベルは小さく身震いした。彼を追いかけて街まで来たものの、路地裏に漂う排泄物と硝煙の混じった臭いに、場違いな場所へ来てしまったという虚しさがこみ上げる。
「……弱音を吐いちゃダメ。ケインさんは、もっと孤独な場所で戦っていたんだから」
自分を奮い立たせるように、ミラベルは街の外れへと足を向けた。重い石造りの建物が並ぶ大通りを避け、崩れかけた外壁に沿って歩く。ようやく見つけたのは、屋根の一部が腐り落ち、野晒しになった古い礼拝堂だった。かつては人々の祈りを受け止めていたであろうその場所は、今はただ、月光に照らされて白骨のように佇んでいる。
廃屋同然ではあるが、不思議とそこには、喧騒に汚されない清涼な空気が満ちていた。
「ここなら……一晩くらい、許してもらえるよね」
埃を払い、古い木製ベンチの上に中古の毛布を広げる。横たわると、背中に当たる板の硬さが身に染みた。
凍える指先で石のように硬そうなパンをちぎり、口に含む。ボソボソとした食感に口の中に広がる微かな麦の味で寂しさを紛らわせた。
(硬いなぁ……。でも、ケインさんが戦場で食べていたものに比べたら、きっとこれでも贅沢なんだよね)
温かいシチューの湯気を思い出し、じわりと滲みそうになる涙を黒パンと一緒に飲み込む。
中古の毛布にくるまり、己の体温だけを頼りに震えながら丸くなるミラベル。寒さと孤独に耐え、泥のような眠りに落ちようとした、その時。
深夜。
静まり返った礼拝堂の奥から、衣擦れとも、獣の吐息ともつかぬ「異質な気配」を感じて、ミラベルは弾かれたように跳ね起きた。
月の光が差し込む聖堂の奥。 そこには、銀色の毛並みをなびかせた、馬よりもずっと巨大な狼の魔獣が立っていた。 鋭い牙、こちらを射抜くような金色の瞳。
「ひ……っ」
声も出ない。喉が張り付き、指一本動かせない。 死を覚悟し、ぎゅっと目を閉じたその時――。
『……お前から、女神の匂いがする』
頭の中に直接、低く、威厳のある声が響いた。 驚いて目を開けるミラベル。行商人からもらった「翻訳の耳飾り」が、淡く発光していた。
『その胸にあるのは……「風」の守護か。小娘、なぜお前のような者がそれを持っている』
銀狼はゆっくりとミラベルに歩み寄り、その鼻先を彼女の胸元――『勇者の証』が隠された場所に近づけた。 恐怖で心臓が止まりそうなミラベルだったが、魔獣の瞳に邪悪な殺意がないことに気づき、震える唇を開いた。
「これ……届けなきゃいけないんです。……私の、大切な人に」
銀色の狼の魔獣は、じっとミラベルを見つめ、ふん、と鼻を鳴らした。
銀狼は、静かに聖堂の崩れた天井を見上げた。月明かりに照らされたその瞳には、果てしない年月が刻まれている。
『かつて、私はここを治める「神」であった。人々は私を崇め、私はこの地を慈しんだ……。だが、時は無情だ。新たな神が持ち込まれ、人々が私の名を忘れるにつれ、私の体は濁り、やがて怨念を糧とする魔獣へと堕ちていった』
ミラベルは、その悲しげな声に、知らず知らずのうちに握りしめていた拳の力を緩めていた。
『この場所も、かつては怨念が渦巻く地獄であった。かつての私は悪魔に取り憑かれ、ここに迷い込む者を無慈悲に食らい、その悲鳴で己の飢えを紛らわせておったのだ……あやつが現れるまではな』
銀狼の視線が、ミラベルに向けられる。
銀狼は、かつての凄絶な戦いを昨日のことのように語り始めた。月明かりに照らされたその瞳が、遠い記憶の景色を聖堂に映し出す。
『……あやつは最初、お前のようにただ逃げ込んできただけだった。私に気づくなり、腰を抜かして情けなく震えていたよ。だが、私の牙が喉元に届こうとしたその瞬間、あやつの瞳の色が変わった』
ミラベルの脳裏に、かつての光景が鮮烈に展開される。
荒れ果てた聖堂。怨念に狂い、黒い泥のような魔気を纏った巨大な銀狼がケインに襲いかかる。ケインは、あの日と同じように歯の根が合わないほど震えていた。 だが、彼は逃げなかった。銀狼の咆哮の中に混じる、魂の悲鳴を聞き取ったのだ。
『あやつは、私の中に潜んでいた「悪魔の怨念」を見抜いたのだ。……剣を抜くことさえ忘れ、あやつはただ祈るように両手を広げた。「……苦しかったんですね」と、涙を流しながらな』
ケインが掲げた手から、柔らかな、けれど力強い緑の風が溢れ出した。 それは破壊の風ではない。大気に漂う風の精霊たちが、ケインの慈悲に呼応して集まってきたのだ。
「精霊さん、お願いだ……この人を、楽にしてあげて!」
ケインの叫びとともに、風は聖なる旋律を奏でる光の帯となり、狂った神獣を包み込んだ。 怨念という名の黒い鎖が、精霊の風に触れて次々と浄化され、霧散していく。
それは、ケインが「風の勇者」として真に覚醒し始めた瞬間だった。 技術でも、暴力でもない。相手の痛みに共鳴し、その救済を願う心こそが、精霊たちの王たる力を呼び覚ましたのだ。
『牙が、あやつの肩を深く裂いても、あやつは私を突き放さなかった。血を流しながら、剣を杖にして私を抱きしめるように風を送り続けたのだ。……そして、呪縛が解けた瞬間、あやつは私を見て、こう言ったよ』
「……ごめんなさい。痛かったですよね。……もう、大丈夫ですよ」
血まみれになり、涙で顔をぐしゃぐしゃにしながら、ケインは安堵の笑顔を見せた。 そのあまりの優しさに、神獣は己の罪を恥じ、再び生きる誇りを取り戻したという。
『あれほど臆病で、あれほどまでに強い勇者を、私は他に知らぬ』
銀狼の声が、静かに聖堂に染み渡る。 ミラベルは確信していた。 ケインが魔王城で「何もできなかった」と言ったのは、きっと嘘ではないのだろう。けれど、彼がそこで何を見て、何に傷ついたのか。
『おかげで私はこうして、正気を取り戻し、誇りある神獣としての心を取り戻すことができた。……小娘、お前が追っているのは、そういう男だ。あまりに優しすぎて、この歪んだ世界では生きにくい……不器用な男よ』
「……はい。本当に、どうしようもないくらい不器用な人なんです」
ミラベルの頬を、一筋の涙が伝った。 自分の知らないところで、彼は誰にも知られぬ戦いを続け、救いを与えてきた。 英雄になりたかったわけじゃない。ただ、目の前の悲しみを放っておけなかっただけなのだ。
『女神の証を持つ者よ。あやつの力は今、かつてないほどに高まっておる。だが、いつしか心があやつを支えきれなくなる日が来るだろう。……その時、あやつの魂を繋ぎ止められるのは、お前のようなものかもしれぬな』
神獣は伏せ、ミラベルをその毛並みのなかに招き入れた。 夜風はいつしか、ケインが残していったような、暖かく柔らかな香りを運んできていた。
翌朝、聖堂の崩れた天井から差し込む朝日の中で、銀狼が重厚な声を響かせた。
『小娘。お前の足では、あの風のように速い男には一生追いつけまい。……どうだ、私と契約しないか?』
「契約……? 私が、あなたと?」
『ああ。私は神獣としての力を取り戻したが、現世に留まる依代が必要だ。魔力を持たぬお前では全ての力は貸してやれぬが、足となるくらいなら可能だ。単純な戦闘でも可能だろう。だが、契約は等価交換……お前の「大切な物」を代償として差し出せ』
ミラベルは言葉に詰まった。 今の自分には、故郷を飛び出した時のわずかな路銀と、ケインに届けるべき『勇者の証』しかない。だが、証を渡すわけにはいかない。
「私……何も持っていないわ。これ(証)以外は、何も……」
必死に持ち物を探すミラベルの手が、ふと、自分の背中まで届く艶やかなオレンジ色の長い髪に触れた。 村の男の子たちからも、ケインからも「綺麗だね」と褒められた、彼女の自慢の髪。
「……これ。これじゃ、ダメかしら?」
ミラベルは、腰まであった長い髪を指差した。 女にとって、髪は命と同じくらい大切なもの。それを差し出す覚悟に、銀狼は黄金の瞳を細めた。
『……乙女の美髪。お前の覚悟、確かに受け取った』
ミラベルは懐から護身用のナイフを取り出すと、躊躇なく自分の髪を掴んだ。 ――シャリ、と冷たい音が響き、美しいオレンジ色の束が地面に落ち、落ちた髪はまるで溶けるように空に消えた。 首元まで短くなった髪を揺らし、ミラベルは凛とした表情で前を見据えた。
その瞬間、銀狼のオーラが光の粒子となってミラベルの影に溶け込み、彼女の首筋に小さな狼の紋章が刻まれた。
『契約は成った。これより私はお前の影となり、牙となろう』
「……ありがとう。おなた、お名前は?」
「私の名は…いや、今はもう名前を持たぬただの獣よ」
「そうなんだ。でも、名前がないと不便ね…うーん。そうだ、ギンとかどうかしら」
『ギン……? 私の名か。悪くない……。さあ、行くぞミラベル。勇者の風が、さらに西へと動いたぞ』
ショートヘアになったミラベルは、軽く頭を振って新しい自分に馴染むと、ギンの背に飛び乗った。 かつてない速さで景色が後ろへ流れていく。
髪を捨て、安らぎを捨て。 村娘だったミラベルは、今、本物の「勇者の連れ添い」へと脱皮しようとしていた。




