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第二章 荒野に咲く、残酷で美しい暴風の華

翌朝。朝靄(あさもや)が立ち込める中、ケインは家の隅に立てかけてあった愛用の鎧を身に纏っていた。 その手に握られているのは、ずっしりと重いあのハルバートだ。だが、柄を握りしめるケインの拳は、いまだに小刻みに震えている。


旅支度を整えたケインの背中は、見上げるほど大きく、そして今にも崩れそうなほど孤独に見えた。


「……ケインさん、本当に行くんですか?」


絞り出すようなミラベルの声に、ケインは足を止め、振り返らずに答えた。


「ああ。これは、生き残ってしまった『最後の勇者』としてのけじめなんだ。……あの日、散っていった仲間の役目は、俺が引き継がなきゃいけない」


握りしめた彼の拳が、微かに震えている。それは恐怖ではなく、逃げることを許さない自分自身への呪縛だった。


「ケインさん以外にも、強い騎士様や魔法使いの方はたくさんいます! あなたが、そんなにボロボロになってまで戦わなくたって……!」


「……ああ、剣技だけなら、俺より優れた戦士はいくらでもいるだろう。でもね、ミラベル。魔族の将を、あの絶望を討てるのは、女神に選ばれた勇者だけなんだ。それが、俺という存在の唯一の価値なんだよ」


ケインはゆっくりと空を見上げた。その瞳には、かつての兄貴分たちの面影と、守るべき故郷の景色が映っている。


「俺がここで背を向けたら、積み上げられた命がすべて無駄になる。俺が逃げれば、今度はこの村が、君が、魔族に焼かれる番だ。……大事なものを守るために、俺はもう、二度と臆病者には戻れないんだよ」


「ケインさん……っ」


引き止める言葉は、朝風にさらわれて消えた。勇者という重すぎる仮面を被り、一人地獄へ戻ろうとする幼馴染。


寄り添うミラベルが、その震える手を包み込むようにそっと重ねた。彼女の温もりに、ケインが深く息を吐き出したその時――。


その直後、空間が淡く発光し昨日と同じようにルーナが姿を現した。 彼女は、朝から密着している二人のただならぬ雰囲気を見るなり、少し頬を膨らませて下世話な言葉を口にした。


「……ちょっと、ケイン様? もしかして昨晩、そのまま一緒に寝ちゃったんですか?」 「ね、寝てません! 変なこと言わないでください!」


顔を真っ赤にしたミラベルが、間髪入れずに否定する。その必死な様子に、ルーナは「あら、そうなの」と少しだけ安心したように胸をなでおろした。


「それじゃ、行ってくるよ。ミラベル」

「……はい。いってらっしゃい、ケインさん。気をつけてね」


あまりに日常的で、あまりに温度のないやり取り。

その光景を傍らで見ていた聖女ルーナは、こみ上げる苛立ちを隠そうともせずに鼻で笑った。


(この娘、本当に何も分かっていないのね……。彼を死地へ送り出す覚悟どころか、その戦場がどれほど無慈悲な地獄かも知らないなんて)


「あなた……ミラベルさん、と言いましたっけ。ずいぶんと呑気なご挨拶ですこと」


ルーナの冷ややかな声が、別れの空気を切り裂く。


「彼がこれから向かう場所が、どんな血生臭い奈落か、本当に理解して送り出しているのかしら?」

「……わ、わかってます。戦場が大変な場所だってことくらい。でも、これはケインさんが自分で決めた道だもの。私は、彼を信じて応援するだけです」


ミラベルは懸命に胸を張ったが、その指先はわずかに震えていた。

その様子を見たルーナは、ふと思いついたように艶やかな唇を吊り上げた。


「……そうですか。なら、言葉で説明するよりも『実物』を見ていただくのが早そうですね」

「えっ、ルーナ? 何を――」


ケインが制止の声を上げるよりも、彼女の指先が虚空を弾く方が早かった。

ルーナの瞳が黄金色に輝き、三人の足元に複雑な紋様を描く巨大な転移魔法陣が展開される。


「きゃっ……!?」


唐突な重力からの解放。ミラベルの短い悲鳴とともに、視界がぐにゃりと歪み、村の穏やかな緑が瞬時に掻き消えた。


次の瞬間。

肺に突き刺さるような冷気と、鼻を突く強烈な硝煙の臭い。

三人が立っていたのは、のどかな故郷の景色など微塵も残っていない、切り立った岩山と赤茶けた大地が果てしなく続く、呪われた殺戮の荒野だった。



目の前には、禍々しい角や牙で装飾された、魔王軍の小さな砦がそびえ立っている。


「ここは……魔王軍の残党が潜伏している拠点の一つです」


ルーナはたおやかに笑いながら、震えるケインと呆然とするミラベルを交互に見た。


「さあ、ケイン様。リハビリのお時間ですよ。ミラベルさんも、彼が背負っている『風』の重さを、その目でご覧なさいな」


ハルバートを握るケインの手は、いまだ震えが止まらない。 目の前にそびえ立つ、骨と鉄を継ぎ接ぎしたような禍々しい砦。そこから漂う魔族特有の血生臭い気配に、ミラベルもまた、ケインの服の裾を掴んだままガタガタと震えていた。


「さあ、ケイン様。行ってください」


ルーナが背後から、突き放すように、けれど確かな信頼を込めてケインの背中を押した。


「ミラベルさんに、あなたの本当の役目を見せてあげるべきだわ。あなたが何を守るために、その力を振るうのかを」


ケインは一度だけ深く息を吐き、震える拳をより強く、ハルバートの柄に叩きつけた。 そして、振り返る。その顔には、先ほどまでの怯えはない。村で子供たちに見せていた、あのいつもの優しい笑顔があった。


「……ミラベル、行ってくる。少しだけ、待っててくれ」


「え……あ、ケインさん……っ!」


呼び止める間もなく、ケインは一人、砦の門へと歩み出した。 それを見送ることしかできないミラベルは、怒りと不安が混ざり合った視線をルーナに向ける。


「一人で行かせるなんて……! あなた、魔法使いなんでしょ? 助けてあげないの!? あなたって人は、なんて酷い人なの……っ!」


小声で捲し立てるミラベル。だが、ルーナは動じない。 「見ていなさいな。彼が『風の勇者』と呼ばれる理由を」


その瞬間、荒野の空気が一変した。 耳を劈くような凄まじい風切り音。直後、砦の中心から天を突くような巨大な暴風の柱が巻き起こった。


「――ギ、ギャアアアアアッ!?」 「グガァッ!? ナ、ナンダ、コノ風ハッ!」


砦の中から、魔物たちの絶叫と、肉が裂け、骨が砕ける悲鳴が響き渡る。 強固な石壁が内側から弾け飛び、魔王軍の残党たちがゴミのように空へと巻き上げられていく。


ミラベルはその光景に、ただ口を半開きにして立ち尽くすしかなかった。 優しくて、臆病だと言っていたあの青年が、たった一人で「軍」を蹂躙している。


「ふふ、これが彼の実力なのよ」


ルーナは、唖然とするミラベルの横顔を見つめ、少しだけ勝ち誇ったような、悪戯っぽくもどこか残酷な「悪い女」の笑顔を浮かべた。


「あなたが恋をしたのは、こういう『怪物』なの。……それでも、隣にいたいと思う?」


暴風が吹き荒れる砦の奥、ミラベルの目には、たった今繰り広げられている「戦い」の最終局面が映し出されていた。


そこにいたのは、砦の番人であろう大型の魔物、オーカス。 屈強な体躯と、禍々しい戦斧を振り回すその姿は、一見すればケインを凌駕する存在に見えた。だが、実際は違った。


ケインは、まるで風そのものになったかのように、オーカスの攻撃を軽やかにいなし、その懐へと飛び込んでいく。 ハルバートが唸りを上げ、オーカスの巨体を切り裂くたび、黒い血飛沫が舞い上がる。 一つ、また一つと確実に深くなる傷。 圧倒的な力で追い詰められたオーカスは、もはや悲鳴を上げることもできず、ただケインの猛攻に晒されるばかりだった。


ミラベルは息を呑んだ。 信じられない光景だった。あの「臆病者」だと言っていたケインが、まるで踊るように戦っている。


ケインのハルバートは、つい先日まで傷だらけのボロボロだったはずだ。 だが、今、彼が闘気を注入するたびに、その刃は新品のように輝きを放ち、まるで「意志」を持っているかのように唸りを上げていた。 彼の周りには、薄緑色の風が常に渦巻き、彼自身をより研ぎ澄まされた刃のように見せている。


そして、戦いは一瞬で終わった。


ケインがハルバートを大きく振りかぶると、まるでオーカスの存在そのものを断ち切るかのように、その巨体を音もなく三つに切り裂いた。 ドォン!という鈍い音を立てて、魔物の肉塊が地面に崩れ落ちる。


静寂。


わずかに残る風の渦の中で、ケインは一人、ハルバートを肩に担ぎ、敵の骸を見下ろしていた。 その背中は、あまりにも力強く、そして、あまりにも孤独だった。


「これが……勇者……」


ミラベルは、ルーナの隣で、ただ呆然と呟いた。 戦場を舞い、たった一人で敵を屠る姿は、英雄のそれだった。 しかし、その表情からは一切の感情が読み取れない。 まるで、生き物としての心をどこかに置き忘れてきたかのような、研ぎ澄まされた刃そのものの姿。 村で見た「優しいケインさん」とは、かけ離れた「勇者ケイン」がそこにいた。


ルーナの問いが、ミラベルの頭の中にこだまする。


(……それでも、隣にいたいと思う?)


ミラベルは、その問いにまだ答えを出せずにいた。 だが、ただ一つだけ確かなことは、彼女は今、自分にとっての「ケイン」という存在の、まだ見ぬ深淵を垣間見たのだ。 そして、その光景は、彼女の心を大きく揺さぶっていた。


返り血の臭いが漂う戦場を背に、ケインがゆっくりとこちらへ歩いてくる。 一歩、また一歩と近づくにつれ、その鋭利な「勇者」の気配が霧散していった。


「……怖がらせて、ごめんな。ミラベル」


そこにいたのは、戦場を蹂躙した怪物ではない。少し申し訳なさそうに眉を下げた、気弱で優しい、いつものケインの笑顔だった。


その笑顔を見た瞬間、ミラベルの迷いは消えた。彼女は迷わず駆け寄ると、自分の服の袖を惜しげもなく使い、彼の頬にこびりついた魔物の返り血を丁寧に拭い取った。


「……おかえりなさい、ケインさん」 「ミラベル……。汚れるだろ、そんなことしたら」 「いいの。だって、これが私のやりたいことなんだもん」


真っ直ぐに自分を見つめるミラベルの瞳に、ケインは言葉を失い、ただ不器用な笑みを浮かべた。


そんな二人の様子を特等席で眺めていたルーナは、わざとらしく大きなため息をつき、大袈裟に肩を落としてみせた。


「なーんだ。せっかく絶望させて諦めさせようと思ったのに……これじゃ、強力なライバル出現ですね。面白くないわ」


ルーナは不貞腐れたように唇を尖らせたが、その瞳の奥には、ケインに居場所ができたことへの安堵が微かに滲んでいた。


「さあ、いつまでもこんな血生臭いところにいても仕方ありません。帰りましょう」


ルーナが指を鳴らすと、再び純白の魔法陣が三人を出迎えた。

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