77. 奈落に墜とす
「何だこれ、床が…」
精霊組成士は水に沈むように岩の床下に落ちていく。腕を回されている自分も一緒に引きずり込まれていく。
想像と違う展開に焦るけれど、とにかく精霊組成士の手から生魚の皿を盆ごと奪い取った。魚からは精霊の光の粒が放たれている。腕を伸ばして盆を後輩魔闘士に差し出したが、彼は素早く首を横に振った。
「それを床より下で持っていて。そこは構内図にない場所だから」
基地の構内図にない場所は基地ではない。そんな理屈が通るのか謎だけれど、言う通りにした。自分の手も盆も、岩にしか見えない面を難なく通り抜けるのが怖い。
後輩は保冷袋をしっかり抱えながら言った。
「強制終了」
大量の魔力が保冷袋から引き出されて盆に魔導されるのが分かった。精霊組成士は魔術拘束の紋を描いた紙を生魚の皿の下に置いていたはずだ。後輩はその紋を使って強制終了しているようだ。
精霊が行使された場所を術者でなく精霊紋がある場所とするなら、この強制終了は基地の構内図にない未知で不可視の場所で行われたと主張できる。そんな理屈が通るなら、だけれど。
発動中の術を強制終了するには発動時の二倍の魔力を対価として払わなければいけない。つまり上級精霊三体分の強制終了だと、動く魔力は上級精霊一体の発動の六倍にもなる。
魔力の量にあてられて、精霊組成士が上体を折り気持ち悪そうに口を手で押さえる。その横を光の帯が基地の奥へ、しゅっと逃げるように飛び去った。生魚の皿にはもう光は見えない。
後輩が素早く大気から魔導してうなずく。兄の精霊を呼びだしてみたんだろう。感覚過負荷の精霊三体を強制終了して拘束を解けたようだ。
「良かった。おかえり、先輩。うっかり捕まってんじゃねえ」
後半は懐かしい悪態だ。
皿と保冷袋を同時に放り出して、後輩と腕をつかみ合う。その間にも腰まで沈んでいた。
後輩は踏ん張りの効く岩のままの床を踏んで確かめながら引き上げようとしてくれる。ローブの闇性魔力反射機能がバチバチと激しく音を立てると、嫌そうに顔をしかめた精霊組成士の腕が離れた。
精霊組成士は焦って手を伸ばして探り回っているが、踏み出しても踏み出しても手をかけられる場所を見つけられていない。体を中心に球状か円柱状に岩が透過するようだ。
門番の精霊が門として人を通す時の、音もなく岩を通過する瞬間に似ている。それならあまり時間はない。
「何だこの床、くそ」
精霊組成士は硬い床を探して足踏みを繰り返すが、その度にがくりともう一段落下して、顔を引きつらせ足踏みをやめた。
「おい待てって、置いて行く気か!」
硬い床に上がりかけていたのに、後ろから足をつかまれた。打撲と裂傷と腫れの残る足を思いっきり両手でつかまれて思わず悲鳴を上げる。
もう肩まで床にのまれた精霊組成士が必死の形相で怒鳴ってくる。
「助けろよ! 足が、足元に何もない! 沈む、引き上げろよ、おい!」
ガツガツと登るように足をつかまれ、引きずり落とされそうになる。痛くて怖くて後輩の腕を抱きしめる。二人分の体重に引きずられて、後輩の喉がぐっと鳴る。
「妹さん、しっかりつかまってて。片手を離すから」
嘘でしょ、と呟きながら急いで後輩の肩に両腕を回してしがみつく。バチバチとより激しい反射を浴びながら後輩は片膝をつき、片手を精霊組成士に差し伸べた。
精霊組成士に後輩の手が近付くと、ローブ二着分の反射機能が半闇性魔力を拒否してバチバチと狂騒する。間近にある後輩の横顔が歪んだ。
「くそ、何するんだよ闇堕ち、痛いだろ!」
「助けようとしているつもりなんですが」
「痛い、よせ、痛いんだよ!」
後輩の手を払いのけようとして、精霊組成士の片手が離れた。残ったもう片方の手に一気に重さが集中し、足の肌と関節に激痛が走る。全力で後輩にしがみついた時、目の前にある彼の唇が通告した。
「僕の最愛たちを道連れに出来ると思うな。墜ちる覚悟もない分際で」
あれ、なんか物騒な言葉聞こえた? と一瞬気を取られたけれど、直後に火花混じりのバチバチ音と精霊組成士の叫びが重なって身を縮める。自重に耐えられずに組成士の指が滑り落ちたのが分かった。
足が重量と痛みから解放される。足元から響く叫び声はすぐに、壁の向こうから聞こえるような遠いくぐもったものに変わっていった。
恐る恐る振り返ると、そこには岩窟の床しか見当たらない。床に飲み込まれた精霊組成士の声が切れ切れに響いている。
二人で硬い床にへたり込んだ。
「妹さバチバチ足バチバチ医務室」
肩で息をつく後輩が顔をしかめて声を絞る。慌てて体を離した。
「ごめんなさい! 痛くて痺れるのにずっと、ごめんなさい!」
「慣れては…います…」
「慣れさせてごめんなさい!」
慣れない精霊組成士が、命綱のようにつかんでいた手を痛みのあまり離すくらいだ。後輩はローブの外側で浴びる反射機能の強さを脅威と表現していた。
「助けようとはした…よね」
「機会は与えました。僕の手を払いのけ、離したのは向こうです。手を払っても、彼には魔能があるんだから氷結術で階段を作ったり出来たと思うんですが」
「普段から実戦を経験してる魔闘士でもなければ、落ち着いてとっさに対処するなんて無理だと思います」
「妹さんは階段を作るほどの氷結術は使えないし、僕は魔力切れ、先輩の精霊は弱っている可能性がありました。手を伸ばすしかなかった」
今も足元のどこからか精霊組成士の叫びが途切れがちに聞こえるが、確実に徐々に遠ざかっている。後輩が音源に耳を澄ませた。
「生きてはいるようです。音の移動する方向からすると、山腹で排出されるでしょう」
「それまで怖い思いをすればいい」
呪いみたいな言葉をすんなり口にした自分に驚いた。自分を嫌いになりそうだ。
「後輩さんをあんなに侮辱して…後輩さんがどうして闇堕ちしたか知ろうともしないで、どんなに気を遣っているか分かろうともしないで」
けれど止まらない。悔しくて涙が出る。
「いいんです。彼に理解して欲しいとも思いません。それより足を」
「あいつ嫌味も散々言って、せ、精霊になれとか、ひどい。どうやったらそんな意地悪なこと思いつけるの? それで組成してやるとかひどすぎる。だめだからね後輩さん、絶対だめ」
「なりませんから落ち着いて」
「だって一瞬、手が止まってた! あーそういう方法があったかって思いましたよね? 考えましたよね!」
後輩は完全に困った顔で首を横に振った。
「闇性魔力の根本的解決ではないので考慮の余地はありません。たった一体の組成精霊で一時しのぎの純正化をしても、王国の脅威は去りません。ただ、そういう企みに気付く者がやはりいるんだなと」
「ほんとに考えない? 考えないって約束して」
「約束します。だから泣かないでください。考えません。精霊にはならないし、そもそも恐らくなれません」
「え、どうして」
「教えません。けれど僕は精霊になれないと言っていいと思います。だから安心して」
真っ直ぐきっぱりと言い切る後輩に嘘の気配はなかった。
「どうしてだろう。最期の願いが多すぎて絞れないからとか…」
「妹さんの認識では、僕はそんなに強欲なんですか」
「じゃあ逆に願いがない」
「山奥で隔離された生活をしましたが、世捨て人ではないので」
「闇堕ちは実は、ある時期から不老不死に…!」
「発想が豊かでうらやましいです。泣き止みましたね。強制終了で使った大量の魔力を感知して魔闘士隊員が駆け付けてくるでしょう。その前にあなたが選別した食堂の石、蓄魔晶石の山はどれですか」
「赤と白の縞模様の石が混じってる山です。あれ可愛かった」
もう、どうして聞くのかなんて考えるのも放棄して答える。
「精霊を定性調整するなんて、僕もだけど誰だって、妹さんでなければそんなこと思いつきもしない。しかもよりによって王直轄の精霊を…はー、思い出しただけで驚ける」
「精霊に感覚過負荷が効くなら定性調整も効くかなって。単純に」
「単純に…あの緊迫した状況で単純に思いついて実行しちゃうのがすごいと思うんだけど、僕の頭が固いだけなのかな」
後輩は落胆するような物憂げな息をついてから、集中、と気を立て直した。
「そう、定性調整だなんて僕のように思いつかない人もいる。門番の精霊には話しかけてみただけですよね」
「その眼鏡で映像転送しちゃってたら、言い訳できないのでは?」
「途中で切れました。南部風の情熱的なところで」
「だったら…門番さんにちょっと愚痴ったかもしれません…?」
定性調整しなかったように誘導されている。瑕疵なき基地運営とか言い出したのこの人じゃないっけ…と思っていると、駆けてくる複数の足音が聞こえた。
「何があった? 魔力がめちゃくちゃ動いたぞ」
「誰か言い争っていなかったか」
「どうした、転倒したのか」
床にへたり込む二人の周囲に描きかけの転移紋、保冷袋、生魚、皿、盆が散乱しているのを見て同僚たちが困惑している。
堅物審査官までやって来て周囲を見回した。
「これはどうしたことだ。精霊組成士が私を探していると聞いたが、関係があるのか?」
後輩の瞳がきらんと輝いた気がした。
「堅物審査官さん、先ほど精霊組成士さんがあなたに精霊使用の許可を取りに行ったはずです。許可したんですか」
「何? 会っていないし、そんな話は聞いていない」
治癒促進の精霊に魔術拘束をかける許可を精霊組成士は取っていない。取りに行ったものの堅物審査官が見つからず、そのまま食堂に戻ってきて勝手に精霊を使ったらしかった。
「だとすると僕らは精霊組成士の攻撃術を鎮圧し、精霊の強奪を阻止したと言えるかもしれません。逃走しようとする精霊組成士が、なぜか門番に拒絶されたようで地面に吸い込まれました」
しれっと報告する後輩魔闘士に、同僚たちと一緒に唖然とする。
「門番の精霊の通過速度、方角と俯角から精霊組成士が排出される場所と日時を計算します。北嶺の中腹でしょう。救助します」




