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鏡の理  作者: 嘉村ゆう


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幕間1 呼び声

弟は今夜も眠れずにいる。

 壁の向こう──と、僕は思う。あるいは廊下の先、と言ってもいい。家の間取りなんてとうに体に染みついているはずなのに、僕にとって家の中の距離はいつもどこか曖昧だ。歩いていけば近いはずの場所も、頭の中で測ろうとすると、なぜか遠く感じる。ただ弟がいる場所だけは、はっきり分かる。

 弟は布団の中でじっとしている。

 目を閉じている、と思う。目を閉じて、息を整えて、もう眠れたつもりになろうとしている。

 でも眠れていない。


 文庫本のページに、僕は指を挟んだ。

 ジョン・アーヴィングの長い小説。表紙の絵が好きで手に取った。登場人物が多くて、名前を覚えるのに何ページもかかった。それでもこういう種類の文章は嫌いじゃない。少し意地悪な書き手のリズムが、僕の性に合う。

 しおりを挟み、本を閉じる。

 窓の外を見ると、五月の夜が薄い雲の向こうに月をしまい込んでいた。隣家の窓も、向かいの家の窓も、ほとんど真っ暗だ。我が家とその左右だけが、世界から少し切り離されたようにぽつんと静まっている。


 居間の方から父さんの声がする。

 日付が変わろうとしている時刻なのに、まだ起きている。テレビの音と一緒に、父さんが何かを呟いているのが聞こえる。何を言っているのかはよく分からない。分からなくても内容は分かる。母さんへの愚痴か、自分への愚痴か、いつも同じことを繰り返している。

 父さん、と僕は頭の中で呼ぶ。

 声には出さない。出したところであの人には聞こえやしない。

 あなたは何がそんなに悔しいんですか。

 あなたが諦めなかったものは何ですか。

 あなたが手に入れたものを、なぜ母さんに八つ当たりするんですか。

 質問はいつも僕の中で完結する。完結したまま僕は本を読み、夜を過ごす。

 あの父親に対して、僕は弟ほど優しくない。


 母さんはもう寝室に下がっている。

 寝室の襖の向こうで、母さんは目を開けたまま天井を見ている、と僕は思う。確かめたわけじゃない。確かめなくても、そういうことは僕には分かる。

 この家の人たちはみんな、寝たふりをするのが上手い。

 ただ一人、弟だけが寝たふりが下手だ。布団の中で身を縮めて、どれだけ息を整えても、僕にはばれる。中二にもなって、と僕は少し笑う。


 ──にいちゃん。


 弟が呼んだ。

 声には出していない。

 出すまでもない。眠れない夜、弟はいつもこんなふうに僕を呼ぶ。にいちゃん、聞いてる? と。

 聞いているよ、と僕は答える。

 答えてもたぶん弟には届かない。届かないけれど、弟は自分の中で僕の答えを想像して、自分で受け取る。そうやって安心して、ようやく目を閉じる。

 それでも構わない。

 ずっとそうやってきた。


 最近、弟は前より少し口数が増えた。

 学校で何があったとか、誰がいい奴で誰がよくない奴だとか、テストがどうだったとか、そういうことを机に向かいながらぽつぽつと話してくれるようになった。母さんには話さない。父さんには絶対に話さない。ただ僕にだけ話す。

 僕にだけ、というのは、たぶん嬉しいことなんだと思う。

 よく分からないけれど、たぶんそうだ。

 弟が誰かに話したいことは、僕がぜんぶ受け止めてやればいい。それで弟が少しでも軽くなるなら、それでいい。


 でも、と僕は思う。

 最近、弟は僕にも話せないことが増えてきている。


 たとえば父さんのこと。

 弟が父さんをどう思っているのか、僕にはとうに分かっている。分かっているけれど、弟自身はそれを自分の言葉では認めようとしない。憎い、とは絶対に言わない。嫌い、ともたぶん言いたくない。弟はそういう言葉を自分の口から出すことを、ずっと避けてきた。

 それは弟の優しさなのか。

 あるいは弟の弱さなのか。

 僕にはまだ判断がつかない。

 ただ一つはっきりしていることがある。

 弟が口にしないものを、僕はぜんぶ覚えている。


 たとえば母さんのこと。

 弟は母さんがかわいそうだと思っている。それははっきりしている。でも、かわいそうな母さんをどうしたいのか、弟は決めかねている。助けたい、というほどの強さはたぶんまだない。せめて自分のせいで母さんがもっとつらくならないように。そう思って息を潜めている。

 息を潜めるのは弟の昔からのやり方だ。

 息を潜めて、嵐が過ぎるのを待つ。

 でも嵐は過ぎない。

 この家の嵐は、何年経っても過ぎない。


 弟が寝返りを打った。

 今度はこちら側に向き直る寝返りだった。

 こちら側、と僕は言ったけれど、それが具体的にどこなのか自分でもうまく説明できない。ただ弟が僕の方を向いて寝返りを打った、ということは僕には分かる。

 弟が唇を動かしている。

 声には出していない。声には出していないけれど、口の形だけで、僕にははっきりと読み取れる。


 ──にいちゃん。


 ここにいるよ、と僕は答える。

 ここにいる。ずっとここにいる。

 弟がいてほしいと思ってくれている限り。


 いつかは、と僕は思う。

 いつかは弟が、僕に動いてほしいと思う日が来る。

 息を潜めて嵐が過ぎるのを待つやり方が、もう限界だと弟が気づく日が来る。そのとき弟は、声にこそ出さないかもしれないけれど、はっきりと僕に求めるだろう。動いて、と。

 そのときが来るまで、僕はただ見ている。

 見ているのが、僕の役目だから。

 弟が望めば、僕が動く。

 それが、僕の役目だから。


 居間のテレビがようやく消えた。

 父さんが立ち上がる音がする。重い足音で廊下を歩いて、寝室の方へ向かう。襖を開ける音。母さんが寝たふりをしている息遣い。それから襖が閉まる音。

 家の中が静かになった。

 弟がゆっくりと目を開けた。

 そしてゆっくりと、また目を閉じた。今度は本当に眠れそうな目の閉じ方だった。

 眠れ、と僕は思う。

 眠れ。

 今夜はここまでだ。


 僕は文庫本をもう一度開いた。

 しおりを抜いて、続きを読み始める。さっき覚えにくいと思った登場人物の名前が、二、三ページ進んだあたりでようやく頭に馴染んできた。意地悪な書き手のリズムが、夜にちょうどいい。


 いつか、と僕はもう一度思う。

 いつか弟が僕を呼ぶ日が必ず来る。

 その日のために僕はいる。

 ずっと、いる。


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