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鏡の理  作者: 嘉村ゆう


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1/3

プロローグ

茶碗の割れる音がした。

 学校から帰ってランドセルを置いて、母さんに「ただいま」を言ってから、まだ三十分も経っていなかった。居間の方から母さんの短い悲鳴。続いて父さんの怒鳴り声が、廊下のガラス戸を震わせて二階の僕の部屋にまで届いた。

「またか」

 低く呟いたのは僕ではなく、机の脇の椅子に腰掛けた兄だった。

「ねえ、正二」

「うん」

「父さんの声、聞きたくないよな」

 僕は机の上に開いたままのノートを見ていた。社会の調べ学習。日本地図を写しかけて、九州のあたりで線が止まっている。長崎県と佐賀県の境目で、シャープペンの芯がぽつんと一つ丸い跡を残していた。

「うん」

 もう一度答えた。


 居間の声は続いている。父さんが何かを言って、母さんがそれに答えて、また父さんが何かを言う。何を言っているのかはよく聞き取れない。聞き取れなくても内容は分かった。だいたいいつも同じことを言っている。

 兄はいつの間にか椅子から立ち上がっていた。

 窓辺に歩いていって、カーテンの隙間から外を見ている。五月の夕方の光が、カーテンを透かして部屋に薄く差し込んでいる。その光の中に兄の輪郭が浮かんでいた。少し背が高くて、髪が僕より少しだけ長くて、横顔がきれいな兄。僕より三つか四つ年上の兄。

 兄は僕の方を見ずに外を見たまま言った。

「正二」

「うん」

「父さんと母さんのことは、僕が見てるから」

 その言葉を僕は何度か聞いたことがあった。

 いつ初めて聞いたのかは思い出せない。気がついたら兄はそう言うようになっていた。父さんが帰ってくる音がするたびに。母さんの笑い方がぎこちなくなるたびに。兄は「僕が見てるから」と言った。

「うん」

 僕は答えた。

 答えると少しだけ楽になった。


 居間で何かが転がる音がした。

 今度はガラスじゃない。たぶんお盆。母さんが夕飯の支度に使う木のお盆だ。それが床に落ちた音。

 僕は椅子の上で身を縮めた。

 兄が窓辺から振り返った。

 その瞬間、僕の目は窓ガラスの方へ向いた。


 なぜ見たのかは自分でもよく分からない。ただ目の端に何かが映って、思わずそちらに目をやった、というだけだった。

 窓ガラスには夕方の光が映っていた。カーテンの隙間から差し込んでくる橙色の光。

 その光の中に兄の姿がぼんやりと映っていた。

 兄は僕の隣で、窓辺から振り返ったところだった。

 なのに窓ガラスに映っている兄は、僕の方を向いていなかった。窓ガラスの中の兄は、正面からこちらを見ていた。窓の向こう側から。

 目が合った。


 僕は目を逸らした。

 目を逸らして机の上のノートに視線を戻した。日本地図。九州のあたり。シャープペンの芯の跡。

 考えても仕方ないことは考えないようにしている。

 誰かにそう言われたわけじゃない。いつからかそうするようになっていた。


「正二」

 兄の声がした。

 顔を上げると、兄はもう僕の隣に立っていた。

 窓辺ではなく、僕の椅子のすぐ横に。

「大丈夫」

 兄が僕の頭に手を伸ばしかけた。

 でも手は僕の頭に触れる前に止まった。少しだけ手前で止まった。兄は少し笑った。それから手を下ろした。

「飯、もう少しで出てくるんじゃないか」

「うん」

 居間の声は止んでいた。

 いつの間にか止んでいた。代わりに台所の方から水の流れる音が聞こえてきた。お米を研ぐ音。包丁のリズム。

 ふだんの音だ。

 ふだんの音が戻ってきていた。


「にいちゃんも、来る?」

 訊いてからしまった、と思った。

 兄は家族で食卓を囲むことはなかった。父さんと母さんが食卓にいるとき、兄はいつも僕の部屋か、廊下の奥か、どこか別の場所にいた。それを当たり前のことのように僕は受け入れていた。たぶん兄なりの理由があるんだろう、と。父さんと何かあったんだろう、と。

 兄は首を横に振った。

「正二、先に行って」

「うん」

 立ち上がった。

 ドアの方に歩きかけて振り返った。

 兄はまだ机の脇に立っていた。

 夕方の光がもうずいぶん弱くなっていた。窓の外は青みがかった灰色に変わりつつあった。その薄暗い光の中で兄の輪郭は、なぜか僕にはぼやけて見えた。


「にいちゃん」

「ん?」

「にいちゃんは、ずっとここにいる?」

 訊いてから自分でも変な質問だ、と思った。兄はいつもここにいる。学校から帰れば、いる。寝るときも、たぶんいる。朝起きたときにいないこともある。でも昼にはいる。夜にはいる。それは僕の知る限りずっとそうだった。

 兄は少し首を傾げた。

 それからゆっくり笑った。

「正二が、いてほしいって思ってる限り、いるよ」

 いてほしいって、思ってる限り。

 その言い方は少しだけ変だった。

 でも聞き返すのはやめた。聞き返したら何かを壊してしまう気がした。何を壊すのかは分からなかったけれど。

「うん」

 うなずいた。

「じゃあ、行ってくるね」


 ドアを開けて廊下に出た。

 廊下はいつもより少し暗かった。台所の電気だけが点いていて、その光が廊下の半ばまで届いている。

 階段を下りる前に、もう一度自分の部屋の方を振り返った。

 ドアは開けたままにしてきた。

 部屋の中はすっかり暗くなっていた。

 机の脇には、もう誰の姿もなかった。


 目を瞬かせた。

 たぶん兄はまた窓辺に戻ったんだろう。あるいは押し入れの方にでもふらりと歩いていったんだろう。兄はよくそういうことをした。気がつくと、いつの間にか別の場所に移っていた。

 うん、と自分に小さくうなずいた。

 階段を下りた。


 下りながら心の中でもう一度、兄の言葉を繰り返した。


 ──父さんと母さんのことは、僕が見てるから。


 兄がそう言ってくれる限り、僕は大丈夫だった。

 いてほしいって思ってる限り。

 兄はずっとそこにいるはずだった。


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