感情を解剖するシリーズ13:『罪悪感』ってなんだろう?
ふと風呂に浸かっていると、「罪悪感ってなんだろう?」という問いが浮かんだ。
そこで、以前読んだ二冊を読み返してみようと思った。
私の記憶が正しければ、一冊は罪悪感に押し潰されそうになる男の話。もう一冊は、暑かったからという理由で人を殺した男の話だ。
夏目漱石の『こころ』と、カミュの『異邦人』である。
もちろん、これは昔読んだときの雑な印象に過ぎない。
だからこそ今の自分が読み返したら、何が見えるのか楽しみでもある。
♤『罪』と『悪』
まず、「罪」と「悪」は別のものではないだろうか。
罪は法律や社会が定めるものである。一方、悪は個人の価値観によって決まる。家庭環境や文化、信念の影響を受けながら、「これはしてはいけない」と自分が確信しているものだ。
何を罪とし、何を悪とするかは国によっても人によっても異なる。結局のところ、悪を決めるのは自分自身である。
そう考えると、私たちが感じているものは本来「悪感」だけで済むはずなのに、なぜそこへ「罪」という言葉を付け足すのだろう?
悪の境界線は、その人の確信によって形作られる。強い信念であればあるほど、「それだけはしてはいけない」という歯止めになる。
さらに、そこへ法律や社会からの制裁という「罪」の側面が加わることで、その歯止めはより強固なものになる。
だから、人は本当に罪悪だと思っていることを、そう簡単には行わない。
もちろん例外はある。命の危険にさらされたときや、他に選択肢がない状況では、自らの信念に反する行為をせざるを得ないこともある。
しかし、そうした特殊な事情を除けば、自分の定めた一線を越えるとき、その瞬間には何らかの形で「やってもよい」と判断しているはずだ。
その意味で、私たちが日常的に「罪悪感」と呼んでいるものの正体とは何なのだろうか?
♤ 『罪悪感』とは
自己嫌悪や後悔、怒り、失望といった感情を、「罪悪感」という便利な言葉でまとめて呼んでいるだけなのではないか。
たとえば『こころ』の先生である。
彼は友人を裏切った自分を許せず、生涯その出来事を背負い続けた。だが、友人を裏切るという行為を選んだ瞬間には、それを実行するだけの理由や正当化があったはずだ。
もしそうだとすれば、彼を苦しめていたものは「罪悪感」そのものではなく、取り返しのつかない結果を招いてしまった自分への自己嫌悪や後悔だったとも考えられる。
そして、興味深いのは、『こころ』を読んだ当時の僕が、先生の抱えていた感情を「罪悪感」という言葉で理解した気になっていたことである。
先生が語っているのは、自らの行為によって生じた傷と、その後も消えることのない苦しみだ。
それにもかかわらず、過去の僕は、その複雑な感情の束を「罪悪感」と名付けてしまっていた。
私たちは日常の中でも、「罪悪感」という言葉を驚くほど気軽に使っている。
たとえば夜中にラーメンを食べるときだ。
「罪悪感、すごいね」と言いながら箸を伸ばすことがある。
だが、そのとき発火している感情は本当に罪悪感でいいのだろうか?
——おそらく違う。
そこにあるのは、太るかもしれないという不安や、健康に気を遣うべきだという意識、自制できなかった自分へのわずかな後ろめたさだ。
そして私たちは、それらをひとまとめにして「罪悪感」と呼んでいるのかもしれない。
むしろ私たちは、自分の感情を正確に見つめる代わりに、「罪悪感」という便利で、どこか贖罪の物語をまとわせてくれる言葉を被せているのではないだろうか。
本当は後悔や自己嫌悪、不安と呼ぶべきものを、「罪悪感」という言葉で飾り立てることで、どこか納得した気になっているのである。
♤それでも僕は、罪悪感を手放さない
ここまで、つらつらと罪悪感について語ってきたが……
——それでも別に、罪悪感を抱き続けたっていいじゃないか。
僕自身、これからも罪悪感という言葉を使うだろうし、口にもするだろう。
ただ、その言葉の奥に別の感情が隠れているかもしれないと知っていれば、それで十分だと思う。
言葉に振り回されるのではなく、その言葉を選んで使っているということだからだ。
だから僕は、これからも罪悪感という言葉を使う。
その言葉を使っている自分を笑ったり、許したりしてやりたい。
感情とは、出来事に意味を与えるために生まれた物語のようなものだ。
だとしたら、これくらい曖昧でもいいじゃないか。
♤カミュの『異邦人』
罪悪感について考えるために読み返したはずなのに、『異邦人』から受け取ったものは別のところにあった。
むしろ私の目に映ったのは、「祝福」という言葉だった。
次回は、カミュの『異邦人』を祝福という視点から語ってみたい。




